増田みず子との出会いは20年くらい前、『シングル・セル』だった。
一人での、人生初の沖縄旅行のお供だった。羽田空港へ向かう電車の中で読み耽った。
孤独な男と謎めいた女の出会いと別れ。
創作の世界にしかありえないような出会い、ありえないような同居生活でありながら、別れの場面の切なさにリアリティがあり、読み終えたとき胸がいっぱいになった。それからずっと自分にとってのオールタイムベスト小説の一冊であり続けている*1。
そのあと何冊か増田みず子作品を読んだけれどもあまりはまらなかった。『シングル・セル』が突出しているように思われた。やがて読まなくなった。読みたい本は他にいくらでもあった。たまに思い出して検索すると新刊が出ていないようで、今どうしているのだろう、書いているのだろうか、と気にかけていた。気にかけて、次の日には忘れた。増田みず子がSNSなんてやるはずもなく、検索しても情報は出てこなかった。
だから新刊が19年ぶりに出たのを知ったときは驚いた。ぶっきらぼうな『小説』というタイトルにさらに驚いた。知ったきっかけは何だったか…アマゾンだったか、X(当時はまだTwitter)だったか、とにかく、知ってすぐに買った。だからこの本は2021年に一度読んでいる。今回は再読。『小説』『理系的』と読んだら懐かしくなり『シングル・セル』を再読、感銘を新たにし、さらに読んだことのなかった短編集と長編をそれぞれ一冊ずつ読んだ。
私小説的、エッセイ的な内容。両親の病気、介護、看取り、妹の死、夫との日常生活、短大の非常勤講師として創作指導をしていること、スポーツクラブで運動を始めたこと、そこで若いインストラクターに恋をしたこと、などが書かれている。発表順に収録されており、後半になるにつれ文章がどんどん簡素化し、話し言葉に近くなっていく。年齢による文体の変化が興味深い。
書いた本人がこれは小説なんだと言うならば、というか何を書こうと小説になる(そもそも小説の定義って何だっけ?)、増田みず子はもうそういう領域にいる人だろう。芥川賞候補になること最多の6回(の一人)。この人にあげてほしかったな、と思う。
この本に、なぜ沈黙していたのかが書いてある。自身の病気入院や両親の看取りがあり、書けないでいるうちに出版社と疎遠になったのが原因だった。かつて、小説を読む以上に楽しいことなどないと言って小説家になった人が、「小説を書かなくても楽しく生きていけることがわかった」と述べているのに、時の流れ、人や環境の変化、そういうものを感じて感慨深い。短大の非常勤講師もすでに定年退職している。1948年生まれだから今年76歳。偶然にも俺の母親と同い年だった。
母親との緊張した関係、父親への親しみ、高校を中退したのは勉強についていけなかったからだと述べつつ、別の箇所ではすべてを捨てて失踪したかったとも書いてあり、『自由時間』や『シングル・セル』のある意味での私小説的な「ネタバレ」になっている。若いころから希死念慮があり、「いつでも、好きなときに死ねるように」35年間「大事にしていた」毒薬をとうとう捨てた、という話も出てくる。小説を書かずに普通に暮らしているだけで今は楽しい、とあるのに、他人事ながら安堵の気持ちになった。どうか、楽しく生きてください。
『小説』が出た翌年に今度はエッセイ集が出た。19年間出なかったのに今度は1年おきか、と嬉しくなった。家族、学生時代の研究、読むことと書くこと、「沈黙」していた時期の生活などについて書かれている。『小説』以上に自身について直截に語っており、こちらの方がより読んでいて楽しかった。晩年…と言っていいのかどうか、最近に書かれたものが以前より前向きな内容なのは、ジムで運動をするようになって体力がついたからかもしれない。やはり体力は大事。この本が最後の本だと述べているが、どうかそう言わず、いつまでも待つから次の本を出してほしい。
自分にとってのオールタイムベスト小説…とはすでに述べた。何度目かの再読。以前はヒロインが出てくるまでの前半、主人公の天涯孤独な生活のパートを退屈に感じたものだが(俺はこの小説を恋愛小説としてしか解釈していなかったので)『小説』や『理系的』を読んだあとだと彼の境遇は著者が理想とした境遇、あるいはもしそうだったら…という仮定に基づく思考実験だったのかもしれない、という気がして興味をそそられた。作家について知ると知っていたつもりの作品もまた変わって見えてくる。
とはいえやはり自分が好きなのはヒロイン登場以後。黙ってついてきて居座り、何を食っているのか、金はどうしているのか、トイレや風呂は、彼女の存在自体が主人公の妄想なんじゃないのか等々、都合がいいといえばいい、よすぎる、創作にしかありえないような関係ではあるけれど、別れの朝のリアリティと切なさはものすごい破壊力で、この部分は何度読み直したかしれない。二人で過ごした部屋から相手がいなくなったあとの、同じ空間のはずなのにがらんとして寂しくなったような感じ、当時自分はアパートに暮らしていたので身につまされた*2。この小説に思い入れがあるのは読んだ当時の自分の暮らしを偲ばせるからかもしれない。郷愁を誘われる。
ヒロインの稜子は異質な他者としての強い存在感を持っている。人間同士が本当に理解し合うなんて不可能で、だから銘々が自分にとって都合のいいように他者を解釈してそれで理解したつもりになっている。たとえ相手が口では「好きだ」と言ってくれても、本当にそう思っているのかどうか、ただこちらの願望に合わせて嘘を口にしているのかもしれないのに、真実を確かめる術はこちらにはない。他者とは理解できない存在であり、人はみな孤独で、だからこそ他者を求めてしまうというアイロニー。
驚くべきことに、あとがきで若き日の著者はこの小説の続編を構想していたと述べている。主人公とヒロインの子供が登場するはずだと。いやいや、『シングル・セル』は続編の余地のない、これで完結した作品でしょう。主人公とヒロインはもう二度と出会わない。
短編集。「児童館」「路上公園」「笑顔」「病室のある家」を収録。「児童館」と「笑顔」がとくにいい。前者は、適齢期の三姉妹の長女が自分の妄想にかまけているうちに、相手はいないものと思われていた妹二人なのに実はいて、男と暮らすために姉だけを家に置いて出て行ってしまうという話で、しかも素知らぬ風を装っていた両親が実は陰から彼女たちを応援していたという「変身」ぶりが、カフカの『変身』の、家族の変身ぶりを彷彿とさせて可笑しい。
「笑顔」は怖い。不仲だった母親が亡くなり、遺品整理のために実家を訪れた娘は、押し入れの奥に隠してあった見覚えのない雛人形を見つける。一緒に手紙がしまわれていて、そこには母親の秘密が書かれていた。著者と母親の緊張した関係を投影しているのだろうか。『理系的」に、すでに認知症になった母親から、「あなたが書くものは怖いから」と言われるシーンがある。増田みず子の父親は彼女の作品を読まなかったそうだが母親は熱心に読んでいたという。この短編を読んだときはどう思っただろう…そう想像するとさらに怖くなる。
高校生の頃に自らの意志で家出した女性がその後20年にわたる失踪生活を回想する。この設定は明らかに著者自身の願望を反映したものだろう。舞台は70年代から80年代の東京、まだ人がいくらでも別人として生きられるルーズな(寛容な)時代だった。今だったらどうだろう。主人公が失踪して20年後に実家を訪れてみたらすでに土地開発によってマンションが建っており微塵の面影も残っていなかったり、勤務先の定食屋が土地を売却した儲けでビルを建てたり、バブル期ならではの展開が面白い。ちょうどこの小説を読んでいたとき49年間の逃亡生活を送った桐島聡(を名乗る人物)のニュースが流れてきて妙な気分になった。