桐野夏生『柔らかな頬』を読んだ

 

日曜日の昼過ぎから読み始めて日付が変わる少し前に読み終えた。ネタバレあり。

 

不倫相手の別荘を自分の家族と共に何食わぬ顔で訪問した主人公が、男のためなら夫も子供も捨てていいと思った翌日、5歳の長女が失踪してしまう。有力な目撃情報はなく4年が経過しても発見されないどころか手がかり一つない。当事者たちは行方不明者の家族としてその後の人生を生きているがそうであることに疲弊してもいる。主人公にとっては長女がいなくなったこと、それだけが現実。しかし夫と次女にとっては、長女については諦め、残った家族で生きていくことが現実。その齟齬が家族間に亀裂を生じさせていく。いなくなった長女の存在は片時も主人公の脳裏から消えず、いつも不安と焦燥に駆られ、長女の失踪は「捨ててもいい」と考えた自分に対する天罰だったのではないかという自責*1と、別荘に行かなければよかったという後悔が身を苛む。主人公の不安定な胸中の描写には、実際に我が子が行方不明になった親たちの心理もこうなのではないかと思わせるほど鬼気迫る。どうしてあの時ほんのちょっととはいえ子供から目を離してしまったのだろう、一人にしてしまったのだろう。これまでも同じようにしてきたことだったのにその時に限って事件は起きてしまい、どれだけ悔やんでももう取り返しがつかない*2。何度でも軽率な自分を責めずにいられない。同時に運命を呪わずにもいられない。

 

長女が失踪した日から主人公にとっての時間は停まってしまった。彼女は今一緒にいる次女を見ようとせずいなくなった長女ばかりを見ている。次女は母親が自分に関心を持っていないのを悟り、そんな母親から距離をとるようになる。すでに失踪から4年が経過し、当時の姉の年齢を越えた次女は、いなくなった姉をちゃん付けで呼ぶようになっている。毎年、失踪した日には家族で現地に赴き虚しく捜索を行うが夫はすでに諦め、受け入れ、長女の生存を証する痕跡ではなく死んでしまっている痕跡を探すようになっている(「あなたはあの子の墓を探している」)。そのことで夫婦はまた諍いになる。

 

最後まで長女の行方は解明されない。真相もわからない。事故だったのか、事件だったのか。複数の可能性が幻視的に示唆されるがどれも確たる証拠はない。ただ、死んでいることだけは確実なようだ。

 

この小説は幼女失踪事件の顛末を描いた小説ではない。幼女が失踪したことが当事者家族や関係者に波紋のように影響を及ぼしていく、そのさまを描いた小説だ。彼女が姿を消さなければ起きなかっただろう変化が彼らの人生に起きる様子を。そのどれもが悪い方への変化だ。不倫関係は終わるし、別荘は売りに出されるし、家族は崩壊していく。あるいは時間を描いた小説ともいえるのかもしれない。長女の失踪以後時間が停まったままの主人公。停まった時間を動かして(乗り越えて/忘却して)生きていこうとする家族、そして主人公と行動を共にすることになる末期癌に侵され人生の残り時間僅かな元刑事。過去の回顧、二十年ぶりの帰郷。何もかもが時とともに変わっていく。うつろいゆく。主人公だけが固執する。もう長女の顔もぼんやりとしか思い出せなくなっているのに。

 

主人公がこれまでの気持ちにケリをつけるのは元刑事の同行者が死にゆく直前。この決意は月並みなものかもしれないがここに至る過程を見てきた読者からすれば大きな変化に見える。遂に、というか、ようやく、というか。

「私はもう、有香を探すのはやめにしたわ」カスミはいつものように話を始めた。「だって、探すということは、私が不安で堪らないからでしょう。有香が生きているのか、死んでいるのかわからないから、探し続けている訳でしょう。(略)だから、もうやめることにしたわ。有香のことは忘れはしないけど、もう探さない。いつか会えることもあるだろうと思って、生きていくことにした。(略)私が、有香が絶対生きていると信じて探したところで、死んでいたなら幻の時間。死んでいると諦めたところで、生きていれば幻の時間。そんなことわからないのだから、そのどちらでもない私の本当の時間を生きていくしかないでしょう。違う?」

 

謎を解明せず謎のままに残したことがこの小説の読後感を味わい深いものにしている。毎回こんな結末だったら腹が立つかもしれないが。失礼ながら著者の文章ってちょっと硬くて読みづらい印象があったのだが本書に関してはそうした感じはまったくなく読みやすかった。

 

 

 

去年読んだ。こっちは本書ほどではなかった。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

*1:思っただけだが思っただけでもう有罪だとする『カラマーゾフの兄弟』のミーチャによる精神的父親殺しを連想する

*2:映画『八日目の蝉』で森口瑤子が演じた母親のように