ユートピアそれともディストピア──『消滅世界』と『沙耶の唄』を読んだ

 

 

 

二冊とも『文藝 特集・夢のディストピア』の「精神と身体改造のための闇のブックガイド」に教えられた。

 

『消滅世界』の舞台となるのはセックスの消えた世界。妊娠・出産は人工授精で行うのが当たり前となったこの世界では人はもはやセックスをしない。セックスは異常な行為であり、夫婦間のそれは近親相姦としてタブー視されている。しかし恋愛や結婚に関しては現実世界よりも自由かつ寛容で、恋愛対象が異性でも同性でもアニメのキャラクターでも自然として受け入れられている。結婚は子供が欲しい、経済的に助け合いたい等の合理的な理由から選択されるが、もっと気楽なのがいいと友達と一緒に暮らす人たちも増えている。「家族というシステムは、生きていく上で便利なら利用するし、必要なければしない。私たちにとってそれだけの制度になりつつあった」。夫婦はそれぞれ愛人を作り、感情生活はそちらで満たす。夫と妻はあくまで合理的に選択された共同生活者に過ぎず、二人の間に恋愛感情は存在しない。主人公は人工授精でなく両親のセックスによって生まれた女性。自分が禁忌を犯して生まれたことを彼女は恥と感じている。彼女の母親は旧世界の価値観を今も引きずっていて、恋愛もセックスもなくなりつつあるこの世界は狂っているという。主人公にしてみればこの世界の価値観を受け入れられない母の方こそ狂っていると見える。しかし幼少期からの教育の影響で旧世界の価値観も彼女の中には残っていて、セックスへの関心がある。それを実地で試してみれば結局は相手に多大な負担を強いて傷つけてしまうのだが。

 

主人公はある男性と結婚して千葉に新しくできた実験都市へ移住する。そこでは家族は解体され、男性でも人工子宮で妊娠・出産が可能になり、子供は住民みなの「子供ちゃん」となり、住民はすべての子供たちの「おかあさん」となる。恋愛という宗教からも家族という宗教からも自由になって人はみな一人になっていく。このあたり、ウエルベックの『素粒子』を連想した。

 一人で一生暮らすなんて孤独だろうと、水人は言ったし私も同意したが、いざ、すべての人間がそうして暮らす中で日常を送り始めると、元から自分たちはこういう習性の動物だったのだという気持ちになってきた。

けれども主人公は実験都市に違和感を抱き続ける。「子供ちゃん」たちはまるでペットのよう、「クリーンルーム」でアルゴリズムによって処理される性欲は「不快感のある排泄物」のよう、これが人間の理想の生活、理想の世界なのかと。

 あんなに尊かった自分の性欲も、くだらなくて邪魔なものに感じられる。私は熱を宿した身体を処理して、清潔な部屋でうとうととまどろんだ。

個人に執着するから苦しみが生まれる。家族も恋人もおよそ濃密な人間関係は解体して人は個となり、一方で行政から指示されて人工的に妊娠・出産を行う。生まれた子供はみんなの子供として育てられる。ディストピアユートピアと表裏一体。感情の入り込む余地を可能な限り排除し人生を合理化したこの実験都市で暮らせば、人は人間関係のしがらみや子育ての責任から解放される。それが幸福であるかどうかは…どうだろうか。実験都市の住民たちの描写に、『ツァラトゥストラ』に登場する「おしまいの人間たち」がダブった。終盤のショッキングな展開は説得力に欠けやや唐突の感あり。

 

 

沙耶の唄』はヤバかった。医大生の主人公は交通事故に遭い、一命はとりとめたものの手術の後遺症で風景は内臓をぶちまけたように、人間はおぞましい肉塊に見えるようになってしまう。発狂するような世界で彼は唯一まともな、どころか美しい少女と出会う。彼女の名は沙耶。不思議なところのある彼女とともに暮らすうちに主人公は人の道を踏み外していく。普通の人間が肉塊に見えるのに沙耶は美しい少女に見える、ということは…あとはわかるな? で、実際やっぱりそう(彼女の実際に関してはっきりした描写がないのはカフカのザムザと同じ。野暮ということなのだろう)。姿形も生態も人間とは異質だが彼女に悪意はない。このソラリス的な知性体が人間の感情を学習してそれを得たとしたら。姿形がアレでも愛せるか、愛せる、という純愛的な話でもある。また自分は疎いのでわからなかったがクトゥルフ神話的なモチーフもあるらしい。エロゲーのノベライズだからそれっぽいエロ描写があるのはいいとして(レイプシーンは不要だったと思うが…後半の愛玩化も…)、グロ描写がエグくて結構くるものがあった。部屋の塗装とか、食事とか。小説を読んでこんなにおぞましさを喚起されたのは久しぶり。でも読ませる文章と展開。キャラクターも立っている。自分は異常に囚われた主人公よりも彼と対峙する友人に肩入れしながら読んでいた。終盤、愛を知ったことで沙耶が「開花」する。このときの彼女のセリフは物凄い。最後に現出する世界は果たしてユートピアか、それともディストピアか。原作未プレイなので後で知ったのだが小説は原作の三つのエンディングのうち二つを合わせたものだという。感染? の恐怖を描いたエンディングはもちろんいいものだが、藤子・F・不二雄の「流血鬼」のように、生まれ変わった後の世界を肯定的に描いてもよかったかもな、という気がした。かなりインパクトが強い小説で、夢中で読み耽り、読み終えたあとは頭がぼんやりした。引きずった。Apple Musicにサントラがあったので購入して、読み終えて何日かは「ガラスのくつ」を何度もリピートして聴いて過ごした。

「それにね──」

沙耶は僕を励ますように、やや弾んだ口調で付け加える。

「いつかは、私たちが人目を忍んで暮らさなくてもよくなる日が、きっと来るよ。それは約束してあげるから」

沙耶のこのセリフは希望の約束か。恐ろしい予言か。

 

 


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