『ルポ中高年ひきこもり 親亡き後の現実』を読んだ

 

十年以上も引きこもったまま中高年になってしまった人たちが日本には推定61万人いる。自分もかつて引きこもりだったから分岐次第ではそうなっていたかもしれない。本書は2021年11月の出版ながら言及される「8050」問題は今やより深刻な「9060」問題になっているとも言われる。

 

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進学や就職で躓いてしまい、それがきっかけで引きこもり、脱する機会を掴めないままずるずる日々を過ごすうちにいつしか十年、二十年という歳月が過ぎてしまった…それが本書に登場する引きこもりのパターン。家族も最初のうちは口を出すが、次第に引きこもりが常態化すると家族関係が「安定化」するケースもあり、そうなると変化を怖れて家族が外部からの働きかけを拒むようにもなるという。本書でたびたび指摘されるが現代日本では引きこもりは家族内の問題とされている。引きこもりの子を「恥」と親が考えていれば他人に対して口を閉ざす。すると周囲は引きこもりの子がいるとは思わず、親に介護支援が必要になったり、あるいは亡くなってしまったとき初めてその存在が発見される。そうやって身内によって隠され、存在を消されてしまうことがこの問題のデリケートな点だと思う。親にしてみれば同級生だった誰々ちゃんが結婚した、子供が生まれた、課長に昇進した、なんて聞かされた後に「で、お宅のお子さんは今?」と水を向けられても答えを濁すしかないだろうことは理解できる。家族内の問題だとする風潮があるから、恥と思って親は隠すし、自分の育て方が間違っていたのかもしれないと自責するし、年金や貯金の切り崩しで彼らの生活を支えようとするし、外部の支援者を拒んでしまったりするのではないだろうか。「うちは大丈夫だから」とか言って門前払いして。本当は全然大丈夫じゃないのに。もう現代日本には、家族とはいえ引きこもる中高年を経済的に支えられる余裕のある人はどんどん減っているのは事実で、80あるいは90の親世代が亡くなったあと、残された引きこもりの子はどうしたらいいのだろう。わずかな親の遺産だけを頼りに年間50万円の支出でセルフネグレクトのように暮らした挙句亡くなった人や、親が亡くなってもどうしていいかわからず遺体を放置してしまった人が本書には登場する。

 

引きこもっている人たちが就職できるよう支援して、食い扶持を稼げるよう「自立」を促す、というのが社会復帰への道筋らしいが、本書を読んでいて思うのは、何十年も引きこもって社会経験がほぼゼロの中高年に仕事をさせる、というのは酷ではないか、ということ。しかも人手不足だからか知らないが、元引きこもりの人に介護の仕事をさせたりしている。介護は体力とコミュニケーション能力の求められる難しい仕事だろう。誰にでも勤まる仕事じゃない。案の定というか、しばらく経つと当人は仕事に来なくなってしまう。もっとデータセンターの入力業務とか、ラインでのラベル貼りとか、シンプルでコミュニケーションが少なくても済むような仕事の方がいいと思うのだが。せっかく引きこもりから脱したのにまた躓いてしまって、これでは関係者の誰も得していないように見える。しかももっと言えば当人たちは必ずしも社会復帰したい、自立したい、と望んではいない様子で、ただ生産性を重視する社会の圧力に屈して仕方なく従っているようにしか見えず、だったら無理強いせず生活保護受給じゃダメなのかな、と自分としては思ってしまう。こういうケースのための生活保護なのだし。もし職場に30年間引きこもっていたという中年男性が配属されてきたら自分は負担を感じるし、ブルーカラーだから何か重大事故や事故災害が起きたらどうしようという不安にも駆られる。それが本心である。働いて社会に貢献する、これは尊い価値観ではあるのだろうが。自分自身、その価値観に懐疑的だし。

 

老齢の親の年金や貯蓄を頼りに引きこもれるうちはまだマシで、今後団塊世代が亡くなっていくにつれ問題はより深刻化していくだろう。自分だって中高年引きこもりになっていてもおかしくなかった。そうでないのは偶然に過ぎない。運がよかっただけ。そして同じように偶然をきっかけにまた引きこもりに逆戻りする可能性だって十分にある。

 

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