パートナーとしての動物、家畜としての動物──濱野ちひろ『聖なるズー』と内澤旬子『飼い喰い 三匹の豚とわたし』を読んだ

 

『聖なるズー』は主にドイツの動物性愛の人々(ズーフィリア)を取材した本。動物性愛、動物とセックスするなんて、と読む前はちょっと忌避感があった。しかし読んでみると読む前想像していたのとは違った。自分が想像していたのは獣姦だった。ズーは違う。彼らは自身の性欲のために動物を利用しない。人と動物、お互いがしたいと思ったときにセックスをする(あるズー曰く「相手がしたくて僕もしたいときにするんだよ。それがセックスだと僕は思う」)。というか一読した印象だとズーはあまりセックスに重きを置いていない、ように思える。動物と対等に、性の側面も含めて彼らの生を丸ごと受け入れている飼い主(飼い主といってはいけないのかもしれないが)、というふうに見えた。ズーは動物を愛の対象とする。そしてこの愛はセックスすることと必ずしも同義ではない。

 

「セックスの話題はセンセーショナルだから、みんなズーの話を性行為だけに限って取り上げたがる。だが、ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ。これはとても難しい問題だよ。世界や動物をどう見るか、という議論だからね。ズーへの批判は、異種への共感という、大切な感覚を批判しているんだよ。誰を愛するか、何を愛するか、そんなことについて、他人に干渉されるべきじゃない」

 

鍵となる概念は「対等性」だ。著者はかつてパートナーから性暴力を受けていた。人間同士でありながら、二人の関係は対等ではなかった。セックスは支配のための暴力でしかなかった。

対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することに他ならない。

ズーと彼らのパートナーは対等だ。社会生活を営む上で必要だから最低限のしつけはするものの、ズーは動物を支配しようとしたりはしない。性のために動物をトレーニングすることは動物をセックス・トイとして扱うこととして禁じられている。そんなことをしてしまえばお互いの対等な関係は一瞬で崩れ去ってしまうから。

「獣姦」と「動物性愛」は似て非なるものだ。獣姦は動物とセックスすることそのものを指す用語で、ときに暴力的行為も含むとされる。そこに愛があるかどうかはまったく関係がない。一方で動物性愛は、心理的な愛着が動物に対してあるかどうかが焦点となる。

 

あるズーは語る、人間とのセックスが嫌なのはいつも裏に何か別の意味があるからだ、と。人は純粋に発情したからセックスするのではない、それぞれが相手とセックスすることに別の意図を──慰めだったり、支配だったり、愛情だったり──を含ませ、それを伝える手段としてセックスをしている(「人間とのセックスは単純じゃない」)。人間同士のセックスはある種の「交渉ごと」。そういう関係、そういうセックスを重荷に感じる、ということはおおいにありうる。対して動物はシンプルだ。したいからしたい、そこに隠された意図などない。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』では、人間と犬の愛は、人間同士の愛よりも「良い愛」とされる。なぜならそこにあるのは無私の愛だから。ズーたちがパートナーを愛する理由もまさしく同じ点にあるのではないだろうか。彼らは何の見返りをも──相手から愛されることすら──求めずにパートナーを愛している。

 ズーたちにとって、動物は動物でなければならない。彼らは人間の代替として動物を必要としているのではない。動物にこそ彼らは癒やされ、ケアされている。初めから裏切りのない「愛」をくれる相手と、彼らは暮らしている。

だからズーたちは「ロマンティック」と形容される。

 

 

一方で『飼い喰い 三匹の豚とわたし』は家畜としての動物についての本。著者は自分で育てた豚をつぶして食べたとしたらどんな気分がするものだろうとの好奇心から豚を飼い始める。食べ比べるため3頭を違う種類にするこだわりよう。せっかく飼った豚をつぶして食べるなんてかわいそう? しかしかわいそうって何なのか。家畜であるなら美味しい肉にしてやることが愛で、美味しくなれなかったときこそがかわいそうなのではないのか。

周りの反応を聞けば聞くほど、結局は何がかわいそうで何がかわいそうでないか、何を食べて何を食べないかという基準のもとになるものが、わからなくなる。結構いい加減な、単なる習慣に基づいているだけにすぎないのではと思わされる。なのにほとんどの人は、それは絶対的な確固たるものだと思い込んでいる。時にはタブーであるかのように騒ぐ。実に不思議だ。

 

著者は(養豚している人たち皆そうだろうが)とにかく豚を肥させ、大きくし、美味しい肉にしてやることを第一に優先して飼育する。そうだろう、だって豚なんだから。そのために生まれてきた生き物なんだから…と思ってしまうのは残酷だろうか。

人間である以上、一緒に暮らして世話をしていれば自然に情は湧く。けれどもうまい肉を食べたい、これもまた自然な情ではないのか。

 

動物を殺して食う、そのことの善悪についてどれだけ考えようとも答えなんて出ない。初めから答えなどない問題なのかもしれない。

どんな動物も飼えばかわいらしく、心を通わせることもおそらくは可能だ。いや、動物に限らずコオロギだってサボテンだって、飼えばかわいい。そして、その一方で食べれば 美味しい(美味しくないのもいるけれど)。何を食べて何を食べずに共生すると決めるのか。その境界をどう持てばいいのか。動物を食べるのがかわいそうで、植物を食べるのがかわいそうではないと断ずる理由はなにか。突き詰めて考えれば、そこには絶対的な正解はなく、あるのは人間のエゴにすぎないのではないか。

 

殺して食べるのが残酷というのであれば、残酷なのはこのシステムを作った造物主であり、私たちはこの星に生まれ落ちた瞬間から残酷に生きることを義務付けられているともいえよう。

 

動物と人間の関係について関心があったので豚をつぶすまでを面白く読み、つぶしたあとの畜産・料理・震災直後の状況の部分は飛ばし読みした。

この本が『聖なるズー』と通じるのは人間が動物との関係をエゴイスティックに規定している、という認識。人間がすることだから当たり前だが。動物との関係について考えることが人間とは何かについて考えることにつながっていく。

 

 

同じく動物をテーマにしていながら、一方はパートナーとして、もう一方は家畜として付き合っている。その違いが面白かった。この2冊はphaさんの『人生の土台となる読書』に教えられた。

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