頭木弘樹 編『うんこ文学 漏らす悲しみを知っている人のための17の物語』を読んだ

 

 

珍しい、排便にまつわるアンソロジー
よかったのは尾辻克彦「出口」、山田風太郎「春愁糞尿潭」、筒井康隆コレラ」、山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記 完全版(抄)」、阿川弘之「黒い煎餅」、伊沢正名「野糞の醍醐味」、ヤン・クィジャ「半地下生活者」。珍しいといえば編者は巻末で帯の文章(谷崎潤一郎細雪』の結び)を解説している。帯の文章の解説が書かれている本は自分の知るかぎり他にない。

 

「出口」「春愁糞尿譚」は漏らすことを滑稽話として。「コレラ」は新型コロナウイルスパンデミックや梅毒感染者急増の今読むと迫真性がすごい。ノーパンで真っ白なミニスカートの女性が混雑する店内で盛大に下痢便を漏らすシーンの描写が素晴らしい。「ヒキコモリ漂流記 完全版(抄)」はユーモラスに学生時代のあるあるを語る。「黒い煎餅」、作者は論語と聖書には糞尿が出てこない、文芸は性に関しては積極的なのに排泄はほとんど扱わないと指摘する。「野糞の醍醐味」には自己責任論に関するユニークな見解あり。「半地下生活者」では排便・糞尿の問題が社会からの疎外や軽侮につながっている。

 

漏らすのは人間の尊厳に関わる…そういう思い込みが自分にはある。しかし編者がTwitterで呟いていたが人間死ぬまでに5トンものうんこをするならそれを全部便器の中に落とせるかというとどうだろう。便意は常に不意打ちで来る。

 

うんこにまつわる色々なことを思い出しながら読んだ。とくに小学校低学年の頃の。あの頃は学校でうんこをするのはタブーだった。すれば「こいつ、うんこしてるー」みたいなからかいの対象になる、実際にはそんなのその日一日だけのことなんだろうが、そのことへの恐れがいつも念頭にあった(ような気がする)。アラレちゃんがうんこを棒でツンツンするのがどうしてあんなに笑えたのだろう。あの当時、自宅のトイレは和式だった。中学校で運動部に入って筋肉痛になった朝は屈むのに苦労した。

 

45年生きてきて漏らしそうになったことは何度かあるが漏らしたことは幸いまだない…と思う。いや、家の中ではあったかもしれない。屁だと思って出したら…みたいな。記憶にある中で一番やばかった経験は、忘れもしない、もう10年近く前の、真夏の、池袋での出来事。その日は朝食抜きで仕事の講習会に参加して、午後3時過ぎくらいに終わった。腹が減ったので帰り途中で豚骨ラーメンを食べた。しばらくは何の違和感もなかったのに電車に乗ったあたりから腹具合がおかしくなり、そこから一気に内圧が上昇。脂汗浮かべながら尻の穴を締め、しかし最寄り駅までとてもじゃないがもちそうになかったので2回途中下車して駅のトイレに駆け込んだ。ラッシュの少し前でまだ混雑していない時間帯だったから個室が空いていて、おかげでことなきを得た。その日はうんこしながら帰ってきたようなもの。1回出して安堵したのにそのすぐあともう一度波が来た時は絶望した。暑かったからコップの水をガブガブ飲んだのと、空腹な上に水で冷やされた胃腸に油っぽいラーメンを入れたのと、豚骨ラーメンのかんすいが影響していたか。トイレに駆け込んで(走れないので早歩きでだが)個室のドアが開いていたのを見た瞬間には普段は信じていない神様に感謝したくなった。以来、豚骨ラーメンを食べるのを避けるようになった。食べるとしてもすぐトイレに行ける状況のとき限定、まず食べない。

 

自分は会社まで車で10分の通勤。何かあってもその程度の時間ならどうにでもなる。だから片道1時間以上かけて電車で通勤している人たちは、一年のうちには途中で腹の調子が悪くなる日もあるだろうに、よく平気だなあと感心している。