桐野夏生『夜の谷を行く』を読んだ

 

夜の谷を行く (文春文庫)

夜の谷を行く (文春文庫)

 

 主人公の西村啓子は60代の年金生活者。かつては連合赤軍の末端メンバーの一人だった。山岳ベース事件の最中、もう一人の女性とともに下山して逮捕、起訴された過去を持つ。有罪判決を受け刑期を務めたあとは個人学習塾を経営していたが、数年前に閉鎖し、今は年金と貯金を頼りに一人アパートで暮らしている。事件を起こしたために両親は心労で早くに亡くなり、親類とは絶縁になり、妹とその娘だけが西村にとって唯一心許せる相手だった。40年もの月日、西村は事件のことをひた隠しにして暮らしてきた。出所後はかつての同志たちと一切の連絡を絶った。しかし2011年の永田洋子の獄死が契機となって、彼女は自身の過去と対峙することになる。

 

桐野夏生作品は15年くらい前に『グロテスク』を読んで圧倒されて以来。本作も読ませる小説だった。先が気になって、普段は23時には寝る人間が深夜1時過ぎまで読み耽った。中盤の、主人公が姪に自身の過去を打ち明けるシーンが白眉と見る。自分たちは崇高な理想を掲げて戦っていたつもりなのに、後世に育った姪にはテロリストとしか思われない。「テロリストって犯罪なの?」と主人公が訊くと、「そりゃそうでしょう」と姪は迷いなく答える。姪の反応は現代において常識的な反応だろう。ここのやりとりを読んでいて、ふとミラン・クンデラの『冗談』を思い出した。『冗談』では(もうほとんど内容を忘れてしまったが)それぞれまったく主張の異なる二人の活動家が、何十年も経った後では若者たちに一緒くたにされてしまう。若い人たちはそんな過去の思想に関心がない。だから二人の人物は、昔政治運動をやってた年寄り連中、と右も左もまとめてカテゴライズされて終わり。それが歴史の残酷さだ、歴史の中では人の営みなど冗談のようなものだ、とクンデラはシニカルに書いていた…ような気がする…が記憶違いかもしれない。桐野氏によるこの小説では過去は今もなお亡霊のように主人公に付き纏っている。

 

読んでいる最中はとても面白かったのだが、読み終えると物足りなさが残った。それは、二つある主題が解決されないまま終わってしまうから。一つは、犯した罪は、裁かれ、刑期を終えさえすれば精算されるのか、という問題。精算されないとしたら罪はどうすれば許されるのか、あるいは犯したが最後罪は決して許されることはないのか。もう一つは、主人公の罪が周囲の人間に及ぼした影響の問題。かつて家族や親類に迷惑をかけ、今度は姪の結婚が破談になるかもしれない。姉の犯した事件のせいで妹は離婚する羽目になり、一人で娘を育てねばならなかった。そのことを妹はまだ許していない。この二つの問題が、小説内で提起されているにも関わらず最後まで解答が得られなかったので、それで読み終えてもやもやしたのだと思う。余談だが、かつて国家権力と闘争した主人公が、今では年金を受給しているという設定は皮肉が効いていてよかった。

 

本作の重要な背景である山岳ベース事件(あさま山荘事件は主人公が関わっていないため触れられない)について、自分は断片的な知識しかない。若松孝二監督の『実録 連合赤軍』は見た。すごい映画だと思ったけれど気分が悪くなるので二度と見たくないとも思った。総括の場面はおぞましかった。イデオロギーに関心がない人間としてはなぜメンバーがあんなに熱くなっているのか理解できなかった。連合赤軍の事件はイデオロギーというよりカルトに通じるものを感じる。