俺もブログもいつか消える──古田雄介『ネットで故人の声を聴け』を読んだ

 

 

個人が気軽に自分の情報をネット上に発信できるようになってすでに四半世紀が経過した。この間、日本国内だけでも3000万人近い人たちが亡くなっているという。このうちの少なくない数の人が、個人サイトやブログやSNSなどに生前の痕跡を残している。それをたどり、様々な事情によって世を去った人たちの人生を垣間見ていく。紹介されるのは15人の男女。

 

紹介されるサイトのうち個人が特定できるケースもあればできないケースもある。闘病の末亡くなった人たちの場合は自身の情報を(写真を含め)かなり多く発信していることが多い。一方で自殺宣言をする人の場合は、それが遂行されたか否かも含めて個人情報不明のままサイトの更新が止まってしまう。本書のメインとなるのは前者のケースで、これは取材できなければ執筆しようがないので自然だろう。自殺宣言ののちサイトを放棄した管理人には連絡の取りようがない。

 

闘病の末亡くなった人たちは癌が多い。交通事故のようにある日突然亡くなるのではなく、癌の場合は残された時間が余命という形で明確にされる。闘病を続けつつ、気持ちを整理し、周囲に別れを告げるだけの時間がある。心情をネット上に声として残すこともできる。ただし最期まで、というのは難しいようで、いよいよ死期が迫ると精神的に乱れてしまう場合もあるし、痛みを取り除くための投薬で意識が朦朧としてしまう場合もあるし、脳転移による精神症状やせん妄などの意識障害が現れる場合もある。ネット上に残されているのはその前段階までの痕跡である。

 

15人それぞれの生について軽々に何か述べるなど自分にはできない。また本書の勘所もおそらくそこにはない。故人の生前の声を追って各人の生を紹介し読者にメメント・モリを促すというだけならば闘病記を読めばいい。そうではなくインターネット上の痕跡にこだわったところが本書の特徴だと見る。個人サイトに残された文章は書籍のように読みやすく編集されていない代わりに(いくつかのサイトは書籍化されているが)自身の「現在」をリアルタイムで報告する、いわば剥き出しの声。そしてその貴重な声はいつサービス提供者によってネット上から消滅してもおかしくない、とても儚いもの。ネットの脆さ儚さと、残された故人のサイトは誰のものかという問い、そして故人サイトをたどって故人について軽々に論じることの暴力性の自覚──このあたりが本書の勘所ではないかと自分は思った。

 

自分も、この日記ブログの前に別のブログサービスで読んだ本の感想ブログを9年ほどやっていて600記事ほど書いている。結構な時間と手間を費やしているはずだが、その後飽きたかしてもう何年も放置していた。そのブログサービスが今年いっぱいでサービス終了、移管しなかった場合ブログはすべて消去されると先日知り、かつては、ネットに発信した個人の声はたとえネットの片隅にであろうと自分の死後も残り続け、いつかそれを求める奇特な誰かの目に留まることもあるかもしれないなどと期待したものだが、そんなのは甘い幻想で、今や運営側は非アクティブなアカウントやウェブページを放置し続けるリスクやコストを避ける方向に向かっているし(今後ますますその傾向は加速するだろう)、様々な事情によりサービス提供者がサービスを停止する可能性も低くない(ブログなんて今はもう下火だし)。要するに大半の個人サイトは、管理人がいなくなればいずれ近いうちに消滅してしまうのだ。自分の死後も投稿した記事や写真や音楽や絵は残り続けいつか必要とする人に届くかもしれない…などという希望はほとんどない、といっていい。検索にも個人のサイトは引っかかりにくくなっているか? 10年くらい前なら検索していくらでも個人サイトやブログなどが出てきたように思うが今は違う。アルゴリズムが当時と違ったり、ブログを書く人自体が減ってSNSで発信する人が増えたり、そういう世の中の流れみたいなのもあるのかもしれないが。そもそも、自分が死んだあとも痕跡を残したいと思う人がどれほどいるのか。大半は書き捨て、消えたなら消えたでいいみたいなノリかもしれない。自分なんかはオールドタイプだから、物心ついたときにはネットがあった世代の感覚とは全然違っていると思う。俺はできれば自分の死後もブログには残ってほしいと思っている。自分自身がどれほど有用な情報を発信できているかといえば…皆無だが…。むしろ検索結果を汚染するノイズでしかないかもしれないが…。そう自覚しているにも関わらず…こうして書いている。俺にとってブログとは…俺はここにいる、という存在証明のための叫びだから。

 

放置されたサイトは提供元の事業撤退などによって一網打尽で消滅しますし、事情を知らない遺族がクレジットカードを停止し、レンタルサーバーの利用料が支払われなくなったことで突然姿を消す例もあります。遺族や縁者が引き継いだ後に、何らかの事情で手放されたままになっているケースも少なくありません。劣化しないデジタルデータで記録されているからといって決して永久的な存在というわけではなく、顧みられないと案外すんなり消えていきます。それがインターネットの常識ではありますが、そうなるにはあまりに惜しいサイトを数多く見送ってきました。

 

そもそもインターネット上のドメイン(住所)の永久所有は不可能なので、オンラインで永久保存を求めること自体難しい。運営元の状況次第でいつでも消える可能性のある無料サービス上にバックアップもなくただ放置しておくのは、流氷に載せるに等しいやり方だ。 10 年や 20 年も浮かび続ける流氷も確かにあるが、多くは数年で沈んだり溶けたりしてしまう。

 

誰かに託さずに長年残すのであれば、長期間の契約でレンタルサーバーを使い、その後の支払い方法や管理方法に道筋を付けるしかないだろう。あるいは後世の人が放っておけないような文化資産を作り出すか……。それでもやはり永久は難しい。

 

本書でも、現在も更新されている故人サイトは家族や友人たちによって引き継がれている。その中には積極的に更新されているものもあれば、故人のサイトは故人のものだからとして最低限の管理に留まっているものもある。更新されずとも残っているサイトに関してはたまたまサービス提供者がサービスを継続しているからという偶然による。こちらに関してはいつ消滅してもおかしくない。

 

著者は故人のサイトをお墓に例えている。管理する人がいればお墓は荒れない。草をむしり、ゴミを拾い、墓石を拭き、花を供えて綺麗に保とうとする。一方で管理する人がいなければお墓は荒れて自然状態に戻ってしまう。

現実のお墓も訪れる人がいなくなると、最低限の管理がなされていても、細部に目地の汚れや雑草が見つかるようになり、献花や線香の痕跡は一向に更新されなくなる。残酷な言い方をすれば、必要とされていないことが見て取れるようになる。少し観察するとはっきり分かるのはインターネットでも同じだ。

 

現実もインターネット上でも結局人間関係が重要なんだな。故人を大切に思う人がいれば(あるいは価値ある情報と見做されれば)管理人の死後も彼のサイトは残り続ける。今でも毎日訪問者がいる故人サイトとはすなわち管理人が大切にされている証明だろう。ただ、訪れる人がいなくなったとしても、これも本書で言及されていることだが、たとえばhtml形式ホームページなんかには時代の証言として価値があると思うし、震災や戦争が発生した当時の人々のツイートやブログ記事は後世の歴史学者が現代を研究するためのアーカイブとなりうるだろうし、営利企業に学術的価値のために維持コストを負担せよとは言えないから、このあたりのデジタル情報をどう扱っていくかは今後の課題なのかな。古代のアレクサンドリア図書館にあった貴重な数多の書物は燃えてしまったんだっけか。自分としてはローカルにも残せるような仕様にしてほしい、とは思う。今こうして書いていて思ったのだが、LINEってトーク履歴をテキストファイル保存するとスタンプが表示されなかったはず。スタンプはLINEの肝といっていいものだから、親しい人が亡くなったとして、その人との生前のトークの思い出を不完全にしか読み返せないのは寂しい。あと、ネットのニュース記事も数週間とかで消えてしまうのは、権力者による隠蔽とか捏造の可能性を考えてしまってちょっとどうなの? という気持ちになったり。なんかだんだんアナログの方が不便だけど強くねーか、という気がしてきた。

 

本書はKindle版で。Kindleだと掲載されている写真がカラーな上、故人サイトへはリンクから直接飛べるので便利だった。ある故人の手帳写真に強く感動した。『グレート・ギャツビー』のラストのような。