今こそ偉大なロシア文学を──ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を再読する

 

 

人生でもっとも影響を受けた本。通読するのはたぶんこれが3度目(20代、30代、そして40代で)。衝撃を受けたという点ではこれより先に読んだ『罪と罰』かもしれないが(読書中、感極まって一旦本を閉じて休憩しなければ頁をめくれなくなる、という体験を初めてした)、『カラマーゾフ』の方が後々まで引きずった。具体的にどう影響を受けたのか? 人間に対する見方が変わった。この小説の主人公(といってしまっていいだろう)ドミートリイの言動を通じて、高邁な理想を描きながら低劣さから抜け出せない人間、巨大な一つの矛盾として、あるいは謎として現実の人間を見るようになった。小説のリアリティは、現実ならば不可能な、人間の心の声を聞ける点にある。もしこの小説に描かれたような父親殺しが実際にあったとして(実際に起きた事件を元にしているのだが)ドミートリイはおぞましい父親殺しか、それとも無実か、彼のとった行動だけを見ればまず彼をクロだと思う。取り調べでの彼の供述はどれも馬鹿げた言い訳──杵を掴んで飛び出したのは偶然何かを掴みたかったからだとか、3000ルーブルの半分をとっておいて良心の拠り所にしていただとか、飲み屋で父親を殺すと散々喚いていたが実行するつもりはなかったとか──すべてが、その場しのぎの思いつきとしか思えないだろう。けれども、これが小説の凄いところで、彼の生い立ち、内輪での発言、内心の声までを読むことによって、ドミートリイという人物が、卑しい人間ではあるが、同時に高潔さへの憧れを捨てきれずにいる人間だと理解可能になる。そして彼は潔白だとわかる。卑小と見える人間にもこれほどの深淵がある。人間は一人一人が巨大で不気味な謎の塊だ──そんなことを、20代で初めてこの小説を読んだときに学んだ、というか、傷のように跡をつけられた。

「いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ──お前はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神がたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ」

 

ドミートリイだけじゃなく他の登場人物も人間の不可解さを生々しく示す。裁判でのカテリーナの言動。ドミートリイに有利な証言をしたすぐあとで変心して今度は真逆に彼の有罪を印象づける証言をする。その瞬間になるまで、本人でさえそんな行動をとるつもりなんてなかったのに、きっかけさえあれば一瞬で矛盾した、支離滅裂とさえ言えるような行動に出る。人間は数学のように割り切れるものじゃない、「二二が四は死のはじまり」だと喝破した作者ならではの人物造形。フィクションでありながら、むしろ現実の人間よりも生々しく実在を感じてしまう。そして、「なぜこの作者はこんなに俺のことがわかるのだろう、俺がぼんやり思っていたのと同じことが、俺が思っていたよりももっと具体的に、もっとわかりやすい言葉で書いてある」という驚き。ある時代に一人か二人生まれる、偉大な天才の仕事。

 

矛盾の塊としての人間。それこそがカラマーゾフ的気質である。「ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低劣な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方いっぺんに見つめることができる」気質、天性。そしてそのような人間は「母なるロシアと同じように広大」である。常に理想と現実の狭間でもがいている存在、美しいものに憧れながら卑しい欲望の虜とならずにいられない存在、それを人間と言うのなら、つまりはありとあらゆる人間みながカラマーゾフのきょうだいではないのか。エピローグにおける「カラマーゾフ万歳!」の合唱はすなわち地上に生きる我々への讃歌ではないのか。生を肯定して生きていくための。

 

 

長い小説だから読み終えてから感想を書くとなると記憶もぼやけるし感動も薄れるし時間と労力もかかるしで億劫だ。だからTwitterを逐次メモ的に利用した。読んでいる最中のみ抱く気分や、発見や、連想・感想がある。最後にまとめてとなるとそういうのが失われてしまうので今後「読んでいる最中の記録」をツイートして、まとめる際に利用するのは手段としてアリかもしれない。

 

ドストエフスキーの小説は長編であっても作中で経過するのは短時日な場合が多い。本作もそう。下巻の大半は裁判前日と当日の出来事に費やされている。持病のてんかんが影響した時間感覚だったと誰かが書いていたのを読んだことがあるが、医学的に信憑性ある話なのだろうか。上巻はフョードルやグリゴーリイの描写が多い。流してしまっていた些細な叙述に感心した。

 

全能の神が創造した世界になぜ不幸や悲しみが存在するのか、とイワンは問う。同じことを後にドミートリイも夢に見る。だから神は存在しない、「したがって」すべては許されると考えるか、それとも、神は存在しない「としても」、と考えるか。思想の分岐点。「大審問官」の章、俺は一度も面白いと思ったことはなくて、今回もそうだったので、今後もそうだろう。クリスチャン、それも特定の宗派の読者なら切実な箇所なのかな。

 

グルーシェニカは不幸な生い立ちながらビジネスで成功した女性。カテリーナを美女だと言うわりに作者は彼女の外見を描写しない。一方でグルーシェニカは美人だと言ったり不器量だと言ったり安定しないが外見を詳しく描写している。「ロシアの修道僧」の「神秘的な客」が好き。そのあとの法話と説教は不信表明である「大審問官」への反論だろう。俺が本作で一番好きな文章がある。

毎日、毎時、毎分、おのれを省みて、自分の姿が美しくあるよう注意するがよい。たとえば幼い子供のわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚い言葉を吐きすてながら通りすぎたとしよう。お前は子供に気づかなかったかもしれぬが、子供はお前を見たし、お前の罰当たりな醜い姿が無防備な幼い心に焼きついたかもしれない。お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによって子供の心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育ってゆくことだろう。これもみな、お前が子供の前で慎みを忘れたからであり、もとはと言えば注意深い実践的な愛を心にはぐくんでおかなかったためである。兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間を経たのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる。悪人でも愛するだろう。青年だったわたしの兄は小鳥たちに赦しを乞うたものだ。これは無意味なようでありながら、実は正しい。なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。

愛と善のバタフライ・エフェクト

 

極端から極端へと走るドミートリイのような人物を躍動させて物語を盛り上げるドストエフスキーの爆発力は本当に凄い。疾走するトロイカを「空間をむさぼり食いながら」と表現、素晴らしい。この章はユーモアも爆発し終始テンション高め。

 

童の夢は本作でとくに感動的な箇所。神は全能であるがゆえにあえて世界に欠陥を残し、それを人間が埋めることを望んだとか、信仰者であれば何とでもいえる。俺はそんなの信じないけど。

 

亀山郁夫さんによる『続編を空想する』、読んだのが昔すぎてぼんやりとしか覚えていない。

 

三角関係拗れすぎ。結局はカテリーナとイワンが相思相愛だったってことでいいのかな。ドストエフスキーが描く恋愛は、嫉妬や憎悪と絡まり合っていてよくわからん。スメルジャコフは強烈。猫の葬式ごっこ、犬にピンを食わせる。思想問題で自殺するようなタマじゃない。見下していたイワンが逆に圧倒されている。考える奴より実行する奴の方が強い。

 

これについてはもう書いた。カテリーナはフョードル以上に事態をややこしくしてるんだよな。混乱の根源。

 

ドミートリイは父親を殺してはいないが殺したいと願ったのは事実だから「精神的には」有罪なのだと自らの罪を認め、罰を受け入れる。地上の法とは別に、従うべき天の法があると──おそらく童の夢によって──彼は悟る。すべては許されてなんかない。でもアリョーシャは、そんな高邁な決意は凡人には重すぎると見抜いている。

 

 

11日間の読書。今年の夏季休暇、ちょっと出かけはしたものの本作の読書に結構な時間をあてた。読み終えて何より感じるのは「自分が真人間に近づけたような」充実感、高揚感、これに尽きる。ちゃんと人間やろうぜ、と促される気がする。40代になって読み返して、たしかに初読のときのようなインパクトはすでにないものの、深夜まで読み耽ってしまうくらいにはのめりこめるのだからありがたい小説である。今だからこそ、偉大なロシア文学であるドストエフスキーが読みたかった。ロシアによるウクライナ侵略戦争が続いている今だからこそ。

 

 プーチンが一つの極端な悪の極だとするなら、むしろ真実のロシアはロシアの偉大な文学や芸術であると私は信じている。ちょうど二〇二二年三月にいち早く作家ボリス・アクーニン、経済学者セルゲイ・グリーエフと、バレエダンサーのミハイル・バルィシニコフの三人の著名な亡命ロシア人が立ち上げた反戦ウクライナ支援の運動は「本当のロシア」という名前を掲げており、アクーニンはあるインタビューでその趣旨を次のように説明した──「私たちは、プーチンがロシアではないこと、本当のロシアは反戦、民主主義の国であることを全世界に知らせることが絶対に必要だと判断しました。ロシアは素晴らしい文化の国です。本当のロシアは、スターリンの国でもプーチンの国でもなく、プーシキンドストエフスキーチェーホフ、サハロフの国なのです」。

 日本ではこれから先、ロシアの人気は地に墜ち、ロシア語学習者の数も減ることが危惧される。しかし、こういう機会だからこそ、謎のロシアの魂の本当の姿を知るために、ロシア文学を読み、ロシア語を学び、ロシア芸術の素晴らしさを認識すべきである。ロシア文学は、こういった逆境のなかで鍛え上げられ、暴虐のロシアのもとにあるにもかかわらず書かれてきたのだ。

 

沼野充義『徹夜の塊2 ユートピア文学論 増補改訂版』