松浦寿輝『半島』を15年ぶりに再読した

 

 

ブクログを見ると6月に読み終えている。なんとなく感想を書きそびれていたが記録として残しておきたく付箋を貼った箇所を読み返した。読んでいる最中とても楽しんだ記憶がある。15年前に読んだときは(単行本だった)それほどとは思わなかったのに、中年の主人公が憩い惑う話だから中年になった今、彼と自分を重ねて切実に感じる部分があったのかもしれない。あるいはただ作者の流麗な文章に感嘆するしかできなかったのが、時間を経て多少はマシな鑑賞能力を得たのかもしれない。

 

 

職を辞した元大学教員がどことも知れぬ半島を訪れそこで様々な出来事に遭遇する、という話。一見、そこは引退後に過ごすなら理想的な場所に見えた。地方特有の寂れた感じはあるものの、だからこそ人が少なく静かに過ごすのにうってつけ。うまい酒もある。自分に好意を寄せてくれる美しい女性もいる。退屈せぬよう趣向を凝らした仕掛けもふんだんにある。さらには謎も。怖い謎だ。物語が進むにつれてこの半島は浮世離れした桃源郷などでは決してなく、人の欲望と悪意が蠢くおぞましい場所だったと明らかになる。この人間の悪意の描き方がとてもいい。悪に居直った人間。主人公も少し普通をはみ出したようなところがあるが、少しはみ出した程度じゃ相手にならない、話が通じない怖い人間。笑いながら人を刺すような。序盤は幻想的な、いかにも文学作品といった趣、それが終盤にはスリラー映画のようになる。滅法面白い。

 

舞台となる半島は時間が止まったような場所。これまでもこれからも進歩発展がなさそうな場所。しかしそこに生きた人間が、それもまったく時間の概念の違う都会からやってくれば、彼は自分のこれまでの人生を──そしてこれからの人生を──意識せずにはいられない。もう若くはない、さりとてまだ老いてもいない、そういう絶妙な年齢の主人公が、時間の停まったような場所で出会い、見聞きし、右往左往しながら、時間や人生についての認識を深めていく。

時間が流れるというのはそれなりにやはり良いことなのかも知れないなと迫村は思った。だんだんわかってくることがあるんだな。瞬間はそのつど飛び去って、われわれは何が何だかわからないままつんのめるように先へ先へと進んでゆくが、こんなふうにその時間の流れがふとたゆたって、あの瞬間この瞬間と様々な雑多なものがとりとめなく戻ってくるようなとき、それらの間の思いがけない関連が不意に見えてくるということがある。それともこれもただそんな気がするというだけのことで、飛び去ってしまったものはもう永遠に帰ってこないと考えるべきなのか。

 

 この世で過ごすほんの束の間の歳月とはいったい何なのか。人生とは畢竟、テーマパークの様々なアトラクションを経巡りながら味わういっときの享楽と、その興奮が冷めた後で軀の底から込み上げてくるうそうそとした寒々しさのことではないのか。

 

「西瓜と魂」の章にとりわけ感銘を受けた。作者の『わたしが行ったさびしい町』を彷彿とさせる遍歴の回想があり、憎んでいたはずの母親(の死骸)に命を救われるという美しいシーンがある。

 

中年だから回想し、中年だから逡巡する。でも諦めるとか降りるとかいうにはまだ早すぎて鼻につく。身内に残る活力が思惑を裏切る。そういう微妙な、あわいの時間を生きる人間の葛藤を、軽みを持って絶妙に描いている。

「まあいいさ。とにかく、からくりがわかってしまう、だけじゃなく、からくりを使って他人を操る側に回るわけだ。社会で仕事をするっていうのはそういうことだろ。しかしそんなふうにしていろいろあって、歳をとっていくうちに、そういうことにもだんだん飽きてくる。ただただ、索漠とした現実だけを相手にしてね。不思議なんてものも、子どもの頃の遠い夢と化してゆくわけだろ。小さい頃には、不思議だなあっていう驚きこそが、掛け値なしのなまなましい現実だったはずなのに」

「そうですね」だから俺は辞表を出したのだ。その索漠に耐えられなくなったのだ。

「ところが、その先があるって話なわけさ。いよいよ人生の陽射しが傾いて、あたりが薄暗くなってくると、どこからともなくまた不思議が戻ってくるんだよ」

これは俺の場合だが、中年になってしまえばそれまで楽しめたことも色褪せて味気なくなり、かといって新しいことを始めるのは億劫で、感度も鈍ってしまうし、もうこの先楽しいことなんてないのかもしれない、せいぜい「つまらなくない」という程度で…と少しばかり悲観的になっていたところに、あたりが薄暗くなってくる頃にまた不思議が戻ってくる、なんて文章を読むと、ちょっと元気が出てきた。

 

 

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