一年かけて『失われた時を求めて』を読んだ

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少し前の話になるが。昨年の1/23に読み始めたマルセル・プルースト作、鈴木道彦訳『失われた時を求めて』全13巻を1/3に読み終えた。時間がかかりすぎたのと、途中飛ばし読みをしたせいか、読み終えても達成感はあまりなく。全3巻の抄訳版をすでに読んでいて内容を知っていたのも影響したか。しかし最終巻を読んでいるとき、ここに至るまでの時間が、(小説内の)現在に収斂していくのに興奮と感動を覚えた。最終巻は素晴らしかった。その素晴らしさを感じるためには、それまでの12巻を読んでいる必要があったのだ。これほどの長篇を読んだのは自分にとって特別なこと。全巻をマケプレでまとめ買いしたのは2009年。実に10年積んでいた。ようやく読み始めたのは父親の癌が発覚し、人みな生きられる時間に限りがあるとの思いを強くしたから。死ぬまでに一度、『失われた時を求めて』を読んでおきたかった。2019年の読書はほとんどこの小説だけだったといっていい。記念の備忘録として、忘れないうちに感想等を記しておく。

 

各巻を読んだペースは以下のとおり。

1巻1/23〜31

2巻2/1〜8

3巻2/8〜24

4巻2/25〜3/24

5巻3/26〜4/23

6巻4/23〜5/12

7巻5/12〜6/2

8巻6/2〜7/15

9巻7/15〜8/15

10巻8/16〜9/23

11巻9/24〜11/30

12巻11/30〜1/2

131/2〜3

 

最初の2巻は一週間程度で読んでいる。うろ覚えだが、この頃はわりと余裕だったような気がする。もともと一年かけて読了する予定だったが、この分ならもっと早く終えられるだろうと楽観していた。ところが4巻から12巻まではほぼ1巻につき1ヶ月かかった。ペースが遅くなったのは、3月から休日は映画館へ通うようになり読書にあてる時間が減ったのと、飽きてきたのが原因。正直なところ、楽しく読めたのは最初の2巻と最終巻で、大半は楽しむというより義務的な読書だった。

 

次に、各巻の内容について、うろ覚え、または勘違いなどあるかもしれないが軽く書いておく。

 

第一篇「スワン家の方へ」

語り手が自宅で紅茶を飲んだ時、その味をきっかけに、幼い頃を過ごしたコンブレーという村の記憶が偶然蘇ってくる。その村にある家で彼は、両親と祖母と親戚数人と暮らしていた。この家からは二つの散歩道が延びていた。一つは「スワン家の方」。隣人スワンの家に通じる道。もう一つは「ゲルマントの方(メゼグリーズの方)」。こちらは大貴族ゲルマント家の土地に通じる道。幼い語り手が保護者とともに散歩するのはもっぱらスワン家の方。彼には、二つの散歩道は、全然違う方向に延びていく、決して交わらない道に思えた。スワン家の方へ散歩していたある日、語り手はその家の娘ジルベルトと出会い、彼女に恋をする。親しくなり、パリで遊ぶようになるが(二人ともパリに住んでいたのだったか、引越したのだったか?忘れた)やがて語り手はジルベルトに冷めてこの恋は終わる。語り手の夢は小説家になること。しかし自分にはその才能がないように感じている。

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」

海辺の保養地バルベックを訪れた語り手は、浜辺で戯れる少女たちのグループに惹かれ、その中の一人アルベルチーヌを好きになる。彼女と何度かデートを重ねるが、恋人にはなれず、やがて二人は離れ離れになる。ゲルマント家の一人であるサン=ルーと知り合い、彼と友情を結ぶ。

第三篇「ゲルマントの方」

語り手の祖母がゲルマント家の一人と知り合いだった縁から、語り手一家はパリのゲルマント邸の離れ?敷地内の別の建物?に引越す。憧れだったゲルマント公爵夫人との出会い、そして貴族たちが集う社交界へのデビュー。語り手は貴族たちのことを、自分のような平民とは違う、これまで会ったこともないような、気高く、立派な人たちなのだろうと想像していた。しかしゲルマント公爵夫人をはじめ、実際に貴族たちの生態を観察すると、何のことはない、彼らもまた自分たちと同じ凡庸な人間であることを理解する。貴族社会への幻滅。

第四篇「ソドムとゴモラ

語り手の周囲の人たちの多くが同性愛者であることが徐々に明らかになる。アルベルチーヌが再登場して語り手と恋人同士になるのはここからだったか?その前か、後か?忘れた。第二の母親のような存在だった祖母が亡くなる。

第五篇「囚われの女」

記憶が怪しくなってきた。アルベルチーヌに夢中になった語り手は、嫉妬心から彼女と同棲して彼女を管理下に置く。アルベルチーヌは半ば軟禁状態になる。これならば他の男と会って浮気することはできない、自分といるしかない。語り手は当初こそ満足するが、やがて彼女に飽き、疎ましくなってくる。別れようと思うのだが思い切れない。時間だけがいたずらに過ぎていく。しかしある朝、アルベルチーヌは突然黙って彼の家から出て行ってしまう。

第六篇「逃げ去る女」

アルベルチーヌが自ら出て行ってくれたおかげで別れを切り出す手間が省けた、と彼女の出奔を軽視していた語り手だが、不在になったことでまた彼女への執着が蘇ってくる。呼び戻そうと試みるも、すでに彼女は事故で亡くなっていた。生前の彼女の何気ない言葉や、周囲の人たちの証言から、彼女が本当は同性愛者で、自分を愛してなどいなかったのではないかという疑惑が語り手を苛む。しかしいくら彼女の過去を詮索しようと本人はすでに死んでいるから、真相は永遠にわからない。そのことに語り手は苦しむ。しかし時の経過とともに、あんなにも愛し、あんなにも執着したアルベルチーヌが、だんだんどうでもいい存在になっていく。彼女のことを思い出す回数が減り、たまに思い出してももはや何の感情も湧いてこない。

第七篇「見出された時」

第一次世界大戦が勃発する。語り手は病気のため療養所に入る。以前親交のあった人たちと会う機会がないまま時が流れる。かなりの年月が経過した頃、久しぶりに、ゲルマント大公からパーティの誘いが届く。行ってみると、かつての知人たちが年老いているのに驚愕する。ということは語り手もまた年をとったのだ。ジルベルトと再会し、彼女が親友のサン=ルーと結婚したのを知る。彼女の口から、少年の頃、決して交わらないと思えた二つの散歩道が、実際にはさほど離れてなどなく、交差していたと聞かされる。ジルベルトとサン=ルーの結婚、そして二人の間に生まれた娘は、まさしく彼の青春時代そのもののように思える。「時」の啓示を得た語り手は、今こそ、長年夢見てきた小説の執筆を決意する。

 

大体以上のような話だったと思う。「ゲルマントの方」あたりのパーティの描写、ドレーフュス事件をめぐる部分はかなり読み飛ばしている。「囚われの女」の語り手のアルベルチーヌへの身勝手な執着もうんざりしながら読んだ。全巻を読んで思ったのは、全3巻の抄訳版がいかにすぐれたダイジェストになっていたかということ。抄訳を読めば「失われた時を求めて」を読んだといえると思う。

 

この小説から自分が読み取ったテーマは二つ。一つは、期待と幻滅。語り手はまだ見ぬ女性、まだ見ぬ旅先をあれこれ想像しておおいに期待するのだが、実際に知ったり行ったりすると思ったほどではなく落胆する。期待は常に幻滅に終わる。未知のものに対する想像力は、現実を凌駕する。そして人間は現実に裏切られる。

もう一つは、他人のことは絶対にわからない、という断絶。語り手は恋人アルベルチーヌの全てを我がものにしようとするが決して叶わない。彼女が自分に対して愛していると言ってくれても、それが本心なのか嘘なのか、語り手には絶対にわからない。アルベルチーヌの死後、あれこれ手を尽くして彼女の性的傾向を詮索しても、もはや彼女が死んでいる今、真相は明らかにならない。いや、彼女が存命だったとしても、その返答が真実か嘘か、他人である語り手には、彼女の本心を探る術はない。ヒロインであるアルベルチーヌが結局はどういう女だったのか、本気で語り手を愛していたのか否か彼にも読者にも判然としないのは、まさしく彼女が「他者」であるためだろう。

 

失われた時を求めて』という小説はつまりどういう小説かと言えば、訳者がいうように「虚構の自伝」といえる。小説家志望の少年が、人生の終わり近くになって遂に執筆を決意する。語り手は作者その人ではないが、彼の体験が反映されているようだ。まえがきに、この小説を読むのは長い旅のようなものとある。読み終えた今、旅というか、一つの人生、読んでいる自分が決して生きることのない人生を、束の間生き、体験した、ように思える。作者はこの小説を、読者各人に自分のこととして読んで欲しいと望んだ。だから語り手には名前がない。

 

読む前はボリュームの多さに怯んだが、一度読んでしまうと恐れはだいぶ薄らぐ。いつかまた1巻から読むかもしれない。この小説は、最初から最後まで通して読んで、時間の経過を物量として感じとるのが楽しい読み方だろう。

読む前と読んだ後で自分が変わったとはこれっぽちも感じない。同じ自分がいる。四十過ぎだから仕方ない。

全篇でもっとも美しかったのは、祖母の死を実感する「心の間歇」の章。世界が愛する人の不在を告げているように感じる孤独感、寂寥感は、自分も若い頃、失恋の折に味わったような気がする。語り手の人生を読者として追体験しながら、自分の人生を再び生き直す体験もしていたかもしれない。