ネルヴァル『火の娘たち』を読んだ

 

火の娘たち (岩波文庫)

火の娘たち (岩波文庫)

 

 

 短篇集。収録作のうち、プルーストに影響を与えた「シルヴィ」が最も有名だろう。本書中で最も優れていると思うのもこの作品。

 

短篇集を謳っているものの短篇小説以外にも多様な作品を収めている。戯曲、エッセイ、詩、そしてアレクサンドル・デュマへ宛てて自身の創作姿勢を説明した「序文」。短篇小説自体も、エッセイと物語が混淆していたり、複雑な時間の構造を持っていたり、翻案であったり、過去の自作の引用だったりと、ジャンルを越境する作品がほとんど。

 

短編小説「シルヴィ」は、中年の語り手が、「青年時代に少年時代を回想したこと」を回想するというややこしい物語。パリで味気ない生活を送っている語り手の青年には意中の女優がいた。毎晩、彼女が出演する舞台に通っては懇意になろうと努めるが、相手はつれない。この女優がなぜこんなにも自分の気を惹くのか内省した語り手は、彼女の内に、少年の頃に故郷で一度だけ出会った少女の面影があることに気づく。その少女は、当時修道院に入って俗世から身を離したのだった。想起をきっかけに彼女の消息が気になった語り手は矢も盾もたまらず帰郷する。故郷では語り手にとって大事なもう一人の少女、幼なじみのシルヴィが今も暮らしている。おそらくは彼女こそ語り手の初恋の相手だった。子供時代、都会から離れた自然の中でどれほど彼女と楽しく遊んだことか。彼女も語り手のことを憎からず思っていたはず。だが、もはや子供時代は遠く過ぎ去った。再会した彼女には今や婚約者がいる。修道院に入った少女について尋ねてもシルヴィは返事を濁すばかりで要領を得ない。語り手は再びパリに戻り、念願の女優と親しくなる機会を得る。が、女優は語り手が自分を愛しているのではなく、自分の中にある誰かの面影を愛していることに気づき、語り手を拒絶する。一人きりのまま中年になった語り手はまた故郷を訪れ、今では母親となったシルヴィから、彼が想っていた修道院の少女はすでに亡くなっていたことを告げられる。

 

過去、そのまた過去、そして現在、と時間を自由自在に往還する生き生きとした叙述がこの短篇の肝だろう。修道院の少女とも、シルヴィとも、女優ともうまくいかなかった哀れな、中年の、独身男の物語である(身につまされる)。小説の舞台となるヴァロワ地方はネルヴァルが少年時代を過ごした土地だが、「シルヴィ」はあくまで創作とのこと。ヴァロワ地方は「よそ者がめったにやって来ることのない、交通の不便な」霧深い土地であるという。土地の記憶である廃墟や昔のバラードなどが、此岸と彼岸の境を曖昧にする装置として機能する。ロワジー、シャーリ、エルムノンヴィルといった地名や、シルヴィ、アドリエンヌ、オーレリーといった女性たちの名前のえも言われぬ響き。土地の記憶と個人の記憶が重なり合って醸し出される不思議な情緒。記憶と夢が溶け合う物語。

どんなに貧しい者でも、自分を愛してくれた者たちのことを思いさせてくれる神聖な記憶をどこかに保っているものです。宗教にせよ、哲学にせよ、すべてが人間に、思い出に対するこの永遠の信仰を告げています。

 

「アンジェリック」

 人間とは畢竟「記憶」そのものである、と何かで読んだことがある。「創り出すとは結局のところ思い出すことだ」。

 

身も蓋もない言い方をすれば本書は「シルヴィ」だけで十分と思う。これと比較すると他の作品は退屈。古本探索が「シルヴィ」と通じる土地の記憶と同化していく「アンジェリック」はその遊歩ぶりが面白いけれども、訳注を参照しないとフランスの歴史に疎い自分にはついていけない。短篇「ジェイミー」と「エミリー」、戯曲「コリッラ」はまあまあ。他の作品は斜め読み。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

ネルヴァルの全集を持っているのが自分でもわからない。いつか読むかもしれない。

 

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10年積んだプルーストの読破に2019年を丸々費やした。