J.C.ブラウン『ルネサンス修道女物語』を読んだ

 

17世紀、トスカーナ地方の尼僧ベネデッタ・カルリーニは幻視者だった。磔にされたキリストと同じように体に聖痕が現れ、使徒や天使の言葉をトランス状態で語り、人々の前でキリストと結婚式を挙げ、遂にはキリストと同じように死後復活する。同僚たちも庶民も彼女を超常的な力の持ち主として畏怖した。しかしのちに審問が行われ彼女の幻視体験も奇跡も一切が偽りだったと判明する。なぜ彼女は偽りの幻視者となったのか。そして周囲の同僚たちは本当に彼女の演技を見破れなかったのか。その謎を追う。

 

ベネデッタは生来「見やすい」質だった。また信仰心も篤かった。だからと言って幻視者となるとは限らない。断食や鞭打ち等の苦行によって朦朧とした頭脳が幻を見せることはありうる。ベネデッタが本当には何を見たのかはわからない。わかっているのは彼女の聖痕は彼女が自ら針でつけた傷であり、キリストとの結婚の証として指に痣のように浮かび出た指輪も偽装だったということである。ともに目撃者がいたのだ。彼女が偽幻視者となった理由の一つは権力欲である。神に選ばれた特別な存在として自身を演出することで後に修道院長になっている。奇跡の体現者が院長であれば修道院の名声は上がる。修道院の名声が上がれば娘を入会させる貴族が増えたり、有力者や教会から支援を得られやすくなるなどの実利が得られる。当初自分一人の権力欲が動機だったかもしれないが修道院長となって以降はいわば経営者的な動機から幻視者を演じていた。

 

一方で同僚たちはベネデッタの幻視や奇跡が偽りであることを早い段階から見破っていた。ベネデッタ自身が回数を重ねるにつれ注意を怠るようになっていったのもあるだろう。ドアの穴から部屋を覗いて彼女が偽装する姿を何人もの同僚が目撃していた。しかし長い間同僚たちは口を閉ざして自分たちが見たものを語らなかった。彼女たちの沈黙という合意なくしてベネデッタの偽りは成立しなかった。ではなぜ彼女たちは語らなかったのか。彼女たちが沈黙を守った理由もまた実利的なものだった。偽装が発覚すれば大スキャンダルとなる。そうなれば入会者や支援者はいなくなり修道院は財政的に苦しくなる。それを避けたかった。一方で修道院長ベネデッタへの恐れもあった。神父にベネデッタの秘密を打ち明けた勇気ある尼僧がいた。すると神父は内密に処理するのではなく彼女に全員の前で語るよう促した。むろん当事者であるベネデッタもその場にいた。彼女は危機を察知すると尼僧の発言を遮り、修道院長としての権力を行使して彼女に鞭打ちの懲罰を与えた。この出来事が他の尼僧たちを萎縮させた。修道院というクローズドな環境ゆえ訴えるべき外部の人間と接触するのは困難であり、頼みとなるべき神父は悪人ではなかったが愚鈍な人物でベネデッタを信じきっていた。尼僧たちは身の安全と修道院の名誉のために口を閉ざすしかなかった。それが結果的にベネデッタの偽幻視を助長することになったのだが。外部から審問官が派遣されてきてようやく彼女たちは真実を語るのが可能になった。

 

審問の過程でベネデッタは幻視を偽装しただけでなく女性の同性愛に耽っていたことも発覚する。当時の教会関係者によると幻視の偽装よりも女性の同性愛の方が遥かに重い、想像を絶する「言葉にできないほどの罪」だった。著者はセクシュアリティの観点からベネデッタの行状について詳細に検討しているが自分はこのあたりは流し読み。セクシュアリティについてよりクローズドな環境における暗黙の同意という集団心理の方に自分の関心はあった。ファシズムやカルトに通じる部分があると思う。

 

審問ののちベネデッタは偽幻視者であるとされ、35年間を獄中で過ごしたのち死んだ。彼女は民衆に絶大な人気があったから彼女が死ぬと聖人に対するようにその衣服や体の一部を奪い取ろうとする騒動が起きたという。生前彼女は神の言葉として近い将来疫病が町を襲うと預言していた。ベネデッタが獄中にいるとき実際にそれは起き多くの人が亡くなり町は荒れ果てた。どれほど役人たちがベネデッタの奇跡は演技だった偽りだったと説いたところで迷信深い民衆はまるで聞く耳を持たず、彼女が死ねば騒ぎを起こす。この大衆の頑迷さはQアノンを真に受けて連邦議会を襲撃した人たちの姿と重なる。遠い中世の話ではあるが人間の本質は当時も今も変わっていないのかもしれない。

 

本書は娯楽性の乏しい堅い学術書なので読むのに難儀した(所々は流し読み)。ベネデッタの二回目の審問が一番面白かった。キリスト教の審問は基本的に無理ゲーと思える。キリストが夢に現れたと主張してもそれがキリストに化けた悪魔ではないとどうして分かる、証明しろ、と反論されれば証明などできっこないのだから詰んでいる。リュック・ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』は好きな映画で、あの映画ではジャンヌが幻視した神は彼女の願望が生んだイマジナリー神だとされている。イマジナリー神はジャンヌに言う、「全知全能の神がどうして字も読めない田舎娘を自分の代理として選ぶ? お告げがあるならご自分で伝えるだろ?」ぐうの音も出ない正論。神様が何か言うことがあれば自分で言うでしょうね。それとも神は人智の及ばぬ、ソラリスのように人間には推し量れない全く異質な知性の持ち主だから人間には理解不能なことをするのだろうか。わからぬ。宗教者が見るヴィジョンの中には脳疾患や極度のストレスやドラッグが見せたものはないだろうか。ドストエフスキーは『白痴』で登場人物の口を借りて自身の持病だったてんかんの発作がもたらすエクスタシーについて述べていたが。

 

本書を読んだのはポール・バーホーベン監督の新作がこのベネデッタの物語だと知ったから。日本で公開されるかまだ未定のようだが是非公開してほしい。暴力と、性と、宗教的偽善…。ベネデッタ役は『シンク・オア・スイム』のコーチの人。疫病のシーンはコロナを意識してるのかな。

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舞台が中世、映画の原作ということで読んでいる最中この本を思い出した。本は面白かったがリドリー・スコットによる映画は退屈だった。

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