ロビン・ダンバー『宗教の起源』を読んだ

 

 

ブクログによると読み終えたのは去年の12月4日だがブログには感想をまだ書いていなかったので簡単に書いておく。

 

以下、ブクログの感想をコピペ。

宗教は人間の脳が大きくなるにつれ、共同体の規模が大きくなるにつれ、必然的に生まれた。

 

宗教の最大の意義は共同体を安定的に維持すること。

 

人間が親密さを持って接することができる人数の上限は150人前後。共同体の人数がこの数を越えると帰属意識が薄れていく。それを防ぎ共同体を継続して維持していくために儀式を伴う宗教で人々を団結させる必要があった。儀式や歌は人々を高揚させトランス状態に導く。トランス状態に入ることで巨大な共同体につきものの人間関係のトラブルはリセットされる。


周囲と一体感を得ることでエンドルフィンが分泌され幸福感が起こり、NK細胞が活発化して免疫が高まり、利他的な気持ちになって共同体の結束を高める効果もある。宗教すごい。調査によると信仰心のある人の方がない人より健康で幸福な傾向にあるという。

 

集団が150人規模を超えると人間関係の緊張度が増すと何度も繰り返し述べられる。やはり人間にとって他人はストレスの源なのだとの感を強くした。phaさんや鶴見渉さんによる「集団を閉鎖的にしない」「常に外にゆるく開いておく」という工夫やサードプレイス概念の正当性を裏付けている。

 

カルトの創始者統合失調症と類似の精神的傾向があるという。幻視や幻聴といった神がかり的な体験が病いの症例とたしかに似ている。イエスブッダもそうだったのかもしれない。

 

宗教は衰退していると言われるがそれはあくまで一部の先進国に限った現象であり、経済格差が大きい国では裕福でない層を中心にさかんに信仰されている。人間の営みで宗教に代わるものはなく、時代とともに中身は変わったとしてもなくなることはおそらくない。

コピペ終わり。

 

 

本書による宗教の定義は「霊もしくは力が存在する超自然的世界に対する信仰」。

 肉体が死んでも、生命力や霊魂のようなものが生き続けるという考えは、普遍的とはいわないまでも広く定着している。そうした生命力は手で触れたり、直接交流できたりするわけではないので物質世界には存在しない。だがどこか別の、霊的世界のようなところにいるはずだ。そんな信念が生まれる理由のひとつが、死に接したときの精神的な変化だ。私たちは近しい家族や友人に深い愛着を抱くため、そうした人びとを失ったときには誰もが悲嘆に暮れる。そんなとき、死者がどこかで生きていて、いつかまた会えると思うことが慰めと希望となる。そうでなければ、多くの人が死んだ家族と会話を続ける理由が説明できない。

人間にとってもっとも大切なものとは愛する者の存在だ。それを失えば自分の身体の一部をもぎ取られたような痛みをおぼえる。喪失から鬱状態に陥ることもある。2000年前も現在も、まだ幼いわが子を亡くした母親の痛みはどれほどのものだろう。想像もつかない。こうした愛する者の喪失に意味を見出したり、自らを慰藉して今日を生きていくためには物語が必要だった。愛する者たちは目に見えずとも今も生きている、あるいは、いつかきっと別の世界で再会できる、そういう、生き残った者への慰めとなる物語を提供してくれたのが宗教だった。死すべき存在である人間は霊的世界に惹かれるようにできている。

 

神の存在を信じない宗教はあるが上記の定義だと世界中のほぼすべての宗教が含まれる。そして「宗教らしき形式を持たず、人知がおよばないものをいっさい信じない文化はほぼ存在しない」ほど宗教は人類と常に共にあった。

 

宗教には儀式を通じて共同体をひとつにまとめる力がある。

元来、人間は向社会的ではない。権威や家族から圧力を受けていないと社会的義務を果たそうとはしない。放っておいてもする向社会的行動(利他的行動)は家族や友人などの内輪の集団に限られる。しかし共同体の規模が大きくなれば安定的に運営するために構成員が社会性をより広範囲に発揮することが求められる。「高みから道徳を説く神」の設定はその目的に都合がよかった。神の教えとして社会性を持つよう構成員を繰り返し教育できる。また人の目が及ばないところでも人々を天から警察官のように監視していると思わせられる。やがて人々はこの神の監視の目を宗教的教育によって内面化するようになるだろう。道徳の誕生である。

 

宗教を信仰することには実際的なメリットがある。猿はグルーミング(毛繕い)に一日の大半の時間を費やす。グルーミングには、されるとエンドルフィンが分泌される効果がある。

 エンドルフィンとは脳内で働く鎮痛剤で、化学構造がアヘンによく似ており、アヘンのように気持ちを落ちつかせ、「世はすべてこともなし」という温かな幸福感をもたらす。そしてアヘンに似た効果で、強い痛みに耐えられるようになる。また重要な下流効果も二つある。ひとつは免疫系によるNK(ナチュラルキラー)細胞の増殖をうながすことだ。NK細胞は体内に侵入したウイルスなどの病原体、またがん細胞を発見し破壊するという、身体の機能における重要な役割を果たす。(略)エンドルフィンのもうひとつの効果は、結束を強めることだ。グルーミング中にエンドルフィンが分泌され、温かな気持ちになると、グルーミングしてくれる相手への帰属意識と信頼感が生まれるようだ。要はエンドルフィンは気分を明るくして、相手との強いつながりを感じさせるだけではく、免疫系の調整も行って、健康な状態を保ってくれるということだ。

ただグルーミングは同時に二人以上に対してはできない。人間は進化の過程で言語を獲得し、直接手で触れずとも言語によるコミュニケーション、おしゃべりや笑いなどによってグルーミングの代替としてきた。しかしこれも対象範囲は狭い。やがて歌やダンスや物語りや宴(大勢での飲み食い)をすることも覚えたが小集団内での実施が限界だった。もっと大きな共同体全体でグルーミングはできないか。そのために発明されたのが宗教とその儀式だった。儀式の特徴は同期性だ。皆が同じタイミングで立ち、膝をつき、座り、ひれ伏す。声を揃えて祈り歌う。「同期した動作には催眠的な効果があって、仲間意識を大いに高めてくれる」。儀式によって共同体の結束は強まる。お互いに仲間だと認めることで隣人に愛着もわく。宗教儀式とはいわば「遠隔グルーミング」行動なのだ。

 

ある調査によると宗教活動に熱心な人ほど、多くの人との繋がりを感じ、何かあっても自分は周囲から支援が受けられるから大丈夫だと思えるようになり、幸福感が増して人生への満足度も高くなるという。「宗教は民衆のアヘン」という言葉があるが肯定的な意味で調査はそれを裏付けている。

 

基本的に人間は集団生活にストレスを感じるようにできている。とはいえ生物的に強くない人間は集団で協力することにより生き延びてきたし文明を発展させてもきた。ストレスを抱えつつ集団で生きていく、これが人間の生きる道で、ストレスによる集団内の分裂を食い止めるために踊りや宴会や宗教儀式をうまく用いてなんとか共同体を運営、維持している。ストレスは持てる者への嫉妬、けち臭い行為、不適切な性行動、義務の不履行などで高まる。本書は挙げていないが力の強い個体による暴力や、暴力を匂わせた威圧などもあるのではないだろうか。宗教儀式があろうが共同体内で不和による殺人は常に起きる可能性を孕んでいる。それほど人間にとって他人はストレスの源になるのだ。

 

著者によると人間が親身になれる相手の数は150人程度が限界だという(ダンバー数)。それ以上の数の集団になるとよく知らない相手が増えて帰属意識が薄れる。文化の一貫性も保てなくなり意見の衝突とそれによるストレスが組織構造を崩壊させる方向に向かっていく。

 

なぜ宗教はこんなにたくさんあるのか。あるいは同一宗教の中で分派が生まれるのか。この疑問がダンバー数を用いると解明できる。集団が大きくなりすぎて自分が愛着や帰属意識がなくなる。ストレスも高まる。内輪の人々と親身な共同体を形成したいという欲求が高まり、その結果集団を出て新たな別の集団を形成するようになる。その新しく作られた集団も150人を超えると一貫性が保てなくなり分裂の危機を迎える。

 

少し前に読んだ『くらしのアナキズム』にある村の寄り合いの挿話が出てきたが、あのような民主的な話し合いは皆が顔見知りの小集団であったからこそ可能だった。人間はやっぱりどうも大規模な集団生活に向いていないように俺には思われる。大規模集団だと関係ないわけでもない物事なのに他人事に感じられたり、誰かがどうにかするだろうという無責任さが芽生えたりしがちな気がする。支配層にとってはその方が都合がいいだろうが。

 

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大きな目標を遂行するために組織を形成する。組織内のストレスを抱えつつ目標遂行に向けて構成員が協力する。…こう考えると会社組織にも当てはまる。朝礼や飲み会はストレスを緩和したり組織の結束を強めたりするための儀式──方策なのだ。だからそれに参加しない人が周囲から浮いたりハブかれたするのも道理だ。いわば異分子と見られるのだから。

 

著者は神を警察的な監視者として捉え、宗教の教義は人がその監視者の目を内面化して自治していくための規範と見ている。俺は宗教は一つの大きな物語だと思っていて、共同体を結束させるための偶像、あるいは高貴な幻想と思っている。大勢がひとつになるためには何かしら共有の概念が要る。神とか、国家とか、民族とか、贔屓の球団とか(最後のは概念じゃない…)。

で、以前、情報化社会の到来により大きな物語はその役目を終え、各人がそれぞれ信仰対象を「推す」社会に変化してきているんじゃなかろうか…と好き勝手に思ったことを書いたのだったが、著者によると宗教離れは一部の先進国の特定の宗教に限るらしく、世界的に見れば宗教はまだまだ隆盛を誇っているとのこと。

 

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「経済状態が良好で、富の格差が小さいと、宗教への関心が低下する」。貧困や抑圧の苦しみからの癒しを宗教に求める必要がないからだ。西洋ではキリスト教主流派は力を失っているが非主流派は今も盛んだという。イスラム教も。どちらも裕福でない階層が信者の中心。富の分配に格差がある南北アメリカ、アフリカ、南アジアなどではキリスト教イスラム教も盛んに信仰されている。「潮の満ち引きのように、隆盛を誇った宗教が衰退していった例は歴史上いくらでもある」。マニ教は消え、ゾロアスター教は衰退し、古代エジプトやローマや北欧の神々はキリスト教の改宗圧力に負けて姿を消した。今日隆盛を誇っている宗教の誕生が2000年前であることを考えると、2000年後の宗教は今とはだいぶ顔ぶれが違っているかもしれない。

 

しかし宗教は人類が存続するかぎり消滅することはないだろう。宗教は人間の本性に深く根ざしておりおいそれとなくせるものではない。

 一九世紀フランスの社会理論家たちが望んだように、宗教が衰退の一途をたどっていくのであれば、それが何らかの影響をおよぼすだろうか。宗教はおたがいがつながっている感覚を生み出し、それをつうじて共同体の結束はもちろん、個人の心理的、身体的な健康と幸福という真の利益をもたらしていることを考えると、影響がないわけがない。宗教は未来の友人と出あう手段でもある。信仰の場は、かつての見知らぬ者どうしが、志を同じくする者どうしへと変わる場所だからだ。また信仰があるかどうかは別として、超大規模な集団の結束を支える国家儀式にも、宗教が意味を与えてくれる──厳粛さをかもしだすという意味で。共同体や国家の儀式の場に宗教を象徴する要素を取りいれると、純粋に世俗的な儀式ではまねのできない神聖な何かが生まれるのだ。宗教儀式ならではの崇高で荘厳な雰囲気を、ほかで再現することは難しい。

 

神秘的志向に支えられているからこそ宗教には神聖さがある。科学がどれほど発達しても宗教の代替となり得ないだろう要因はそこにある。理屈を超越しているからこその神聖さ。論理ではなく信仰ゆえの凄み。そして神聖なもの、崇高なものは無条件に人の心を感動で震わせ圧倒する不思議なパワーを持っている。壮大な大自然を前にしたときのような畏怖の感情も。人間の本能にインプットされた感覚なのかもしれない。ドストエフスキーなら、人間は自分よりも偉大なものの前にひれ伏したいという欲望をもっている*1、と言うだろう。

 

 

 

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*1:『悪霊』だったと思う