国家、権力、民主主義、政治について──松村圭一郎『くらしのアナキズム』を読んだ

 

 

アナキズム無政府主義と聞くと既存の体制をぶっ壊せ的な過激な運動をイメージしてしまうが本書のいうアナキズムは究極的な民主主義を指している。国家なしに暮らしをやっていくイズムとでもいおうか。デヴィッド・グレーバーやジェームズ・C・スコットを援用しつつ紹介される数々の知見は新鮮で面白かった。

以下、印象的だった箇所を引用しながら思うところをだらだら書いていく。

 

国家なんてそれほどいいもんじゃない

 ホッブスは、戦争状態を抑止し、危機に対処するためにこそ、主権国家が必要だと説いた。だが歴史的にみれば、国家は人民を守る仕組みではなかった。人びとから労働力と余剰生産物を搾りとり、戦争や疫病といった災厄をもたらす。国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。

 

 国家ができると、その社会は支配する者とされる者とに分かれてしまう。クラストルは、国家権力を生み出す根底には、権力への欲望とともに、隷従への欲望があると指摘する。一度、権力関係が生まれ、社会が支配者と被支配者に分化してしまうと、もはやあともどりできなくなる。だから国家なき社会では、あえて首長に恣意的な権力をもたせないようにし、専制王のようにふるまうことを阻止してきた。

一部の「未開社会」が国家をもたないのは国家をもつ段階に至っていないからではなく、国家をもつこと、人々を支配するための権力が生じることを拒絶したから。アメリカ先住民アパッチやアマゾン先住民ナンビクワラの首長たちに与えられる権力はあくまで期間限定だったり、気に入らないと感じた者は従わなくてもよかったり、部族への徹底的な奉仕を求められたりと国家におけるリーダーとは正反対な存在。権力による支配が生じないための知恵なのだろう。グレーバー『万物の黎明』にも似た話が出てくる。

権力とは鍛え上げられた肉体や強力な武器を背景にしているものではない。人々は権力者の武力が怖くて従うわけではない。80歳過ぎた国会議員を生物として見たときどこが怖い。殴り合いになれば勝てるだろう。なのに逆らえない。なぜか。彼には権力があると認めているからだ。権力とは目に見えないもの、だがあるとされるもの。それは関係性の中にある*1

隷従への欲望という言葉に昨今のジャニーズ問題を連想した。経営層も所属タレントもメディアも権力者による性加害を知っていながら利得を得るために見ぬふりをして彼に従った。すでに構築された権力関係において「王様は裸だ」と声を上げて正体を暴くことができなかった。あるいは訴える小さな声を黙殺した。

 

現代におけるアナキズム

成功した主な革命は、実質的にはすべてが打ち倒した国家よりもさらに強権的な国家を創出した。革命によって作られた国家はより強力に住民を支配した。というスコットの引用のあとでこう続く。

 ぼくらは歴史の教訓の上で現在地に立っている。政府を打倒する革命を目指すことが真のアナキズムだ、という立場はもはやとれない。スコットも、国家がいつでもどこでも自由に対する敵だとは思っていない。国家は状況次第では解放的役割をはたしうる。そして国家が成立する以前にも、奴隷制や女性の所有、戦乱、隷属の長い歴史があった。国家なき社会がつねに協調的で平等なユートピアだったわけではない。

フランス革命が最たるものだと思うがひでえ混乱と死の嵐。体制が変わるごとにかつての英雄が処刑される。大規模な集団を形成するのは人間の能力を超えている、もしくは人間の適性ではないのかもしれない。

 だからこそ、既存の国家の体制をうまく利用する。国家のなかにアナキズムの空間をすこしずつひろげていく。そういう意味での「保守的であること」が「くらしのアナキズム」には必要になる。

フーコーによる性と権力の問題。国家の基盤は家族である。その家族とは異性愛にもとづく婚姻制度に支えられている。人間の個人的欲望であるはずの性は、実は国家によって管理されている、と。ジェンダー問題を考える上でヒントとなりうる指摘ではないだろうか。なぜ性的マイノリティは生きづらいのか。権力に抑圧されているからだ。以前見た映画『正欲』における性欲についても想像が膨らむ。正しい欲望、間違った欲望、「社会のバグ」。正常な欲望とは国家にとって都合のいい欲望? 『知への意志』を読んでみたくなった*2

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民主主義国家という矛盾

 グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。

 

 国家が自分の手柄であるような顔をしている「民主主義」や「自由」、「平等」といった価値は、国家内部の動きから実現したものではない。むしろそれへの抵抗や逸脱の結果として生まれた。だからこそ、ぼくらがよりよき状態に向けて動けるようになるには、既存の国家がおしつける「常識」から距離をとり、そこでのあたりまえをずらしていく姿勢が欠かせない。国家は暮らしのための道具にすぎない。それがアナキストの身構えだ。

 

対話の重要性

民主主義というと多数決が思い浮かぶ。しかし多数決による採決は民主的ではない。なぜならそれは採択されなかった側の意見は無視され、彼らは多数の意見に強制的に従わされる仕組みだから。

 多数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこでは誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適の手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねない。

多数決に頼らずどうやってコミュニティで物事を決定するのか。必要なのは対話だ。反対意見をもつ人が、意見が無視されたり排除されたりしているわけではない、と思わせる高度なコミュニケーションをとりながら妥協点を探っていくことが求められる。宮本常一は調査である村を訪れた際お願いをしたことがあった。すると村の住民はその問題を討議すべく寄り合っていろいろな意見を出す。結論はすぐには出ない。時には話題が脱線する。何日もかかった話し合いの末、ようやく宮本の依頼に応じる結論が出る。

 

結論を急がず、気が熟すのを待つ。気が済むまで住民たちに発言させて少しずつ妥協点を探っていく。こうした寄りあいは、村人の関係性を壊さないための配慮に基づくすぐれて民主的な取り決め方法だった。

 無理をしない。それは村人の関係性を壊さないための配慮だ。そのためには時間がかかっても仕方がない。物事を決めて先に進めるよりも、だれかが不満をもったり、対立したりしないようにコンセンサスをとることが優先される。まさに民主的だ。

 

異なる意見を調停し、妥協をうながしていく対話の技法。それこそが民主的な自治の核心にある。寄りあいの姿から気づかされるのは、そのあたりまえに受け継がれてきた人びとの知恵の凄みだ。

効率性の優先とか議論とか、そういうやり方は問題解決にほど遠く、不満や対立しか生まないのかもしれない。「論破」なんて論外だろう。事を荒立てずまとめるには時間がかかる。そしてそれをうまくやるには日頃からコミュニケーションの積み重ねがなくてはならない。よく知らない人間同士がいきなり話し合ったってうまくいくはずがない。

 

くらしのアナキズム

 くらしのアナキズムは、目のまえの苦しい現実をいかに改善していくか、その改善をうながす力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけではなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚にねざしている。

 

 行政の効率化やコスト削減が改革だとされる。だがムダを排除した効率性にもとづくシステムはいざというときに脆い。日本でもそのことを痛感させられてきた。危機に対処する鍵は、むしろ絶え間ない地道な営みのなかにあり、その積み重ねこそが「政治」なのだ。

 

基本的に著者はすげーいいことを言ってると思うんだが、日常的なコミュニケーションの重要性を強調されることが多く、人間関係が億劫な自分みたいな人間はどうしたら? という気持ちになるのがなんとも…。

 

熊本地震の体験をもとに、非常時に国家は役に立たない、隣人たちとの助け合いが重要というのはわかる。俺自身、たとえばコロナ禍の初期にマスクが手に入らなかったとき職場の人が作ってくれた布マスクを貰って助かったり、食糧のお裾分けとか、不要になった物のやりとりとかして交友関係のありがたみを感じることもある。だが……。

 

自分が人から好かれるタイプじゃないってのは自覚した上で、俺の考え方のベースとして、人間関係とは鬱陶しいものである、というのが大きめにある。だから日常のコミュニケーションこそが政治だ、とか言われると、そりゃそのとおりだろうがでもそうできるもんでもないしどうしたら…と途方に暮れてしまう。

 

そんなふうに思っていられるのも、とりあえずは健康で、物事を自分一人で対処できる状況に──幸運にも──いるからだろう。病気になったり自然災害に遭ったりすればまた考え方は変わるかもしれない。

 人はときに病気になる。家族がいつまでも一緒にいられるわけではない。地震などの自然災害も起きる。おそらく人生のなかで、ひとりでは解決できない問題をかかえることのほうがふつうで、健康で自由を謳歌できる時間のほうがまれだ。でも、いまの日本の都市生活は、そのまれな状況を前提に営まれているようにみえる。

友だちゼロ人間の俺、今年はサードプレイス作りたいとか、読書会参加したいとか言ってたわりに結局何も行動を起こさなかった。ケツの重い人生。人間関係とか居場所とか、マジで大事だよなあとわかってはいるのだが、なかなか。

 

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究極の民主主義としてのアナキズムに関心を持った。本書で引用される何冊かの本を読みたくなった。

 

 

 

 

 

*1:お金の価値が信用に基づいているのに似ている

*2:俺にフーコーが読めるだろうか