現代社会への諷刺と問いかけ──映画『正欲』を見た

ダイバーシティや多様性を謳う現代への強烈な諷刺。

多様性の尊重と言ったってそれは普通の人たちが理解できる範疇にのみ適用されるのであってそこからはみ出した人間には適用されないんでしょ? という。

彼らは外見上は一般の人たちと同じで区別がつかない。

彼らの個性は性という普段から秘められ隠されている部分にある。

それがあってこそ生まれたという点で誰もが無縁ではないのに、公然とは決して語れられない性。そこに異常性──これは「健常」な人間による偏見に過ぎないのだが──がある人間はだから二重の意味で気味悪がられるだろう。

そうわかっているから彼らは本当の自分を隠して普通の人間のふりをする。彼らにとって日常は常に「擬態」。本音は「地球に留学しているような」気分。この星にいていい存在なのか、との疑念が常に頭から去らない。明日生きていなくてもいいと思ってしまうほどに追い詰められている。

そういう、普通でない人間が、自分の他にもいて、偶然出会う。奇跡のようなものだろう。

二人はこの世界で生きていくために手を組む。訪れる平穏な日々。だがそれは別の異常性──他者に害を及ぼす類の──に巻き込まれる形で壊されてしまう。

 

よくこんなアイデアを思いつくなあと原作者に感嘆の念を抱いた。映画を見たあと、自分の考えを語らずにはいられないストーリー。原作は未読だけれどもこの映画では俳優たちがみな素晴らしかった。中でも新垣結衣が最高だった。この人のことあまり知らないのだが(スクリーンでこの人を見たのは初めてかもしれない)、可愛らしい女性の役よりこの映画のような無表情で言葉少なく、常に自分を抑え、他者と距離を置いている、そういう影のある女性の役の方が向いているように思えた。方言もよかった。この映画では数えるほどしか笑顔のシーンがない。仕事中に、妊娠している女性が上から目線で接してくるのに切れて睨みつけるシーン、両親が見ているテレビ番組に子供が映って、それを見たくないから思いきり俯いて年越し蕎麦を啜るシーン、どちらも最高だった。その彼女が、ようやく平穏を手に入れて穏やかな表情ができるようになったのに、クソ野郎のせいで崩壊してしまい、また元の能面に戻ってしまうのがたまらなく切ない。

 

稲垣吾郎もよかった。ナチュラルに世間の常識という圧をかけてくる。言ってることは正論なのに、その正論が空疎に聞こえるのが可笑しい。目の前の現実を見ようとしてないからかな。頑張って「普通」をやってきたはずなのに最後には妻子に去られ離婚調停中、一方で「異常」なはずの二人は困難に遭ってこそ互いの結束を強める。この皮肉。

 

舞台は広島あたりか、それとも九州のどこか? 西の方の方言だと思うがどこのかはわからなかった。地方都市の実家在住者としては、地方あるあるな人間関係の狭さ(小中学校からの人間関係が30歳を過ぎても続く)やデリカシーの欠如(親しくもないのに恋人の有無を聞いてきたり、大きい腹を撫で回しながら聞いてもいない出産予定日を言ってきたり、30歳過ぎると子育ては辛いから早く産んだ方がいいとかいうクソバイスかましてきたり)が描かれているのも楽しかった。こういうムラ社会的な同調圧力や因習の強い土地柄が二重に彼らを苦しめている。濃い人間関係、鬱陶しいよな。俺は全部断って友達0ライフを送っているが、それが嫌さに地方から都会へ出ていく人が絶えないのは理解できる。この映画だって結局横浜へ出て行ってしまうわけで。

 

レムの名作『ソラリス』は人間とまったく異質の思考を持つエイリアンとコミュニケーションすることの困難を通して人間の認識や価値観の限界を示していた。『正欲』も本質的には同じような話。異質な他者を前にしたとき我々はどう接するのか。排除か、それとも共存か。共存するほどの寛容さはあるか? 「させてやってる」とか心のどこかで思ってないか? 終盤の事件はその線引きの話になる。常識を揺さぶられた。