春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。 都市伝説の精神病理』を読んだ

 

 

精神医学には、患者が誰かが家に侵入して物を盗んだり悪戯したりする、あるいは天井から話し声が聞こえる、と訴える「幻の同居人」妄想というのがある。大抵は孤独な生活が原因の妄想(「文学的狂気」)であり、妄想患者は切実に不安を訴えつつも侵入者と交流するなどなれ合うようなところもあり、不審や猜疑心が極度に高まり社会そのものが異質な場へと変容してしまう統合失調症者の妄想と比較すると「牧歌的」なきらいがあるのが特徴。

孤独によってヒトは現実感覚を失い、やがて日常の中で違和感や不審な出来事に遭遇する。普段なら偶然のこと、思い過ごしとして見逃してしまうそのようなエピソードに対して、孤独な暮らしぶりゆえ精神的視野狭窄を呈している病者は過剰な意味をそこに見いだそうとする。おおむねそれは被害感情に裏打ちされ、ひどく通俗的な「物語の胚珠」が芽吹きはじめる。物語に沿って、病者は論理だった考えを進めていく。もちろんそこにはバイアスが加わり、可能性は必然性にすり替えられ、常識からは遠く隔たった結論が引き出される。そしてその結論とは妄想そのものであり、妄想のフィルターを透して見る世の中には、妄想を証拠立てる事象が次々に発見されることになる。

屋根裏の侵入者は妄想患者が孤独を埋める交流相手として創造しているようだ、と著者は見る。幻の同居人は実際には屋根裏ではなく患者の頭の中に住んでいる。解釈しようとすればいくらでも歪に解釈できるように人間の脳はできているから患者は自分の異常性に気づかない。それを聞かされる他人には荒唐無稽な話でもしている本人は信じきっている。そして彼らは孤独の中で現実には存在しない人間との交流を続けることによって妄想の濃度を高めていく。確固たる妄想世界を構築していく。

基本的に、妄想は孤独から発する。体験や情報を世の中と共有し、社会の常識を実感し他者との交流によって現実感覚を刺激することによって、我々は「正常」を保っていられる。

狂気とは孤独と論理の産物であると言い切ってみたい。狂気とは、決して支離滅裂でもなければ錯乱でもない。きわめて筋道だっているのである。

妄想患者を侵入者がいる家から離れさせれば妄想は収まるが、それでも患者は過去の妄想についてあれは現実だったと頑なに主張し続ける。このへんが病いたる所以なんだろうな、と読んでいて思った。正常ならば我に返って客観的に検証しようとするだろう。春日先生は「妄想とは偶然性が排除された状態」だと本書で定義する。偶然起きたことに対して正常ならば偶然だと理解する。だが妄想患者は偶然を見ようとせず代わりに意味や物語を付与しようとする。その世界の見方が妄想患者特有の見方なのだ。それは陰謀論者にも通じる見立てである。

妄想は、病んだ精神によってもたらされる現実の変容を、「奇妙な憶測、異様な解釈」を以て説明し確信することによって生まれ出てくるのであった。妄想は他人へ語っても同意を得られることがない。むしろ周囲の賛同を得られず病者が孤立していくことによって、いよいよ妄想は病者にとって確固たるものとなっていくといった、まことに矛盾した性格を持ち合わせている。

 

家という場が住人の妄想濃縮装置として機能していると見ることができる。「一軒家であれアパートであれマンションであれ、家の内部というものは本人の頭の中身を濃密に反映した小世界」であり、だからこそ「家の中をそこに居住している人物の精神の展開図として読み取ることは、ある程度まで可能だろう。少なくとも、筆跡や作文などよりもはるかに生々しく内面が伝わってくる」。

ゴミ屋敷もあれば、落書きやビラで結界を作り上げている部屋もある。家具調度でバリケードを築いた屋内もあれば、天井板が外されていたり木刀で天井を突き上げた跡の残っている部屋もある。さまざまな「病んだ家」「病んだ部屋」を目撃するにつけ、わたしは家というものが一種の妄想濃縮装置として機能しているのだなあといった感想を抱かずにはいられない。家に引きこもり孤立した病者にとって、室内は日毎に現実から隔絶していく。非日常性を帯びた屋内のトーンと狂気とが相互作用を及ぼし、物語の胚珠は奇形な芽を成長させ、妄想はゆっくりと濃度を高めていく。そのように妄想を濃縮させた家が、ときには微妙な違和感を漏洩させつつ町並みに溶け込んでいる。

一軒の家が目にとまったとき、そこに幸せな家庭生活が営まれているかもしれないと想像する人がいるだろう。たとえボロ家であろうと、雨露をしのげるだけでも幸せである、と考える人もいるだろう。だがわたしは、妄想の渦巻く部屋や幻の同居人と暮らす人、柱に鎖でつながれた痴呆老人や精神病者、家具でバリケードを築いた老婆や誰にも見取られぬまま餓死した孤独な遺体といったものをつい思い浮かべてしまう。

外から見れば何の変哲もない家であっても、一歩中に入ればそこには異常な空間が広がっているかもしれない。ゴミ屋敷や自己の世界観の投影といったレベルを超え、人間一人を監禁しているかもしれない*1。そして家がそうであるように、人間もまた外見上は特徴ない人物と見えたのにその内部に異常を抱え込んでいるというケースがしばしばある。

わたしがいつも困惑するのは、家の中では相当に奇怪なことを考えたり実行していたりしても、あるいは狂気に駆られた人と同居していたとしても、一歩家の外に出れば、必ずしもその人物は異様さの片鱗を窺わせるとは限らないといった事実である。

ヒトは家の内と外とでは連続性がない。そして家の中は、空気を澱ませたまま、世間とはまったく別の思考や判断に 司られていることが決して珍しくない。

世に棲む大部分の人たちは、狂気に 曝されても存外にそれに染め上げられてしまうことはない。家に潜んだ秘密を棚上げしたまま、何くわぬ顔でヒトは外へ出かけ、社会生活を営んでいける。

家の中や集合住宅内で起きたおぞましい事件のあれやこれやが連想される。

 

プルーストは人の内面を家に喩えてこう書いている。「私たちが他人の真実の人生を発見したとき、つまり見える世界の下にある真実の世界を見つけたときの驚きたるや、平凡な外観ながら、入ると秘宝、拷問部屋、骸骨だらけの家を訪れたときのそれに匹敵する」と。家も人も外からでは窺い知れない。そんな当たり前な事実の背後にある気味悪さとおぞましさを教えられる。あっさりした文章が逆に怖さをそそる。かつて存在した(さすがに現在は存在しないだろう…と信じたい)座敷牢の写真はかなり刺激的だった。

 

 

妄想について林先生は、「妄想とは、単に「事実と違う」とか「確信を曲げない」というものではなく、「客観的事実から判断すべき内容を、主観的体験と同一のレベルで判断する」が、最も本質をついた定義」と答えている。ただしこちらは統合失調症者の妄想についてだが。

kokoro.squares.net

*1:本書には新潟で起きた女性監禁事件への言及がある