エド・ゲイン関連の二冊を読む──ハロルド・シェクター『オリジナル・サイコ』とロバート・ブロック『サイコ』

 

 

 

ヒッチコックの映画『サイコ』(原作はロバート・ブロックの小説)のノーマン・ベイツのモデルとなったアメリカの殺人犯エド・ゲイン。彼は少なくとも二人の女性を殺害して解体し、さらに二十以上の墓を荒らして死体を持ち帰り、人体で工作していた。その事実が世間に明らかになったのは、1957年、ウィスコンシン州の農村プレインフィールドで金物屋の女性主人が日中に店から姿を消す事件が発生し、領収書にゲインのサインがあったため警察が彼の家を訪れたことによってである。そこには無惨に変わり果てた被害者の姿があった。当時ゲインは51歳。彼は電気も水道もない家に、両親と兄が死んだのちも一人で住んでいた。ちょっと馬鹿で変なところもあるが悪い奴じゃない──近所はおおむね彼をそう評価していた。時々ちょっとしたからかいの対象にもなった。ゲインは両親が遺した農場はほったらかして、近所から依頼される臨時の手伝いをやって生計を立てていた。誰も彼のもう一つの顔を知らなかった。

 

ゲインの犯行の具体的内容については『オリジナル・サイコ』あるいは平山夢明『異常快楽殺人』を読まずともWikipediaで検索すれば出てくるので興味があればそちらをあたればいい。この事件をもとにロバート・ブロックは『サイコ』を書き、それをヒッチコックが映画化した。トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』に登場するレザーフェイスもゲインをモデルにしている。この映画がスプラッターというジャンルを生んだ。『羊たちの沈黙』に登場する殺人鬼バッファロー・ビルもゲインをモデルにしている。かように、エド・ゲインがアメリカのカルチャーに与えた影響は多大なものがあった。

 

ハロルド・シェクター『オリジナル・サイコ』はゲインの生い立ちからその犯行、さらに事件発覚後の地元やアメリカ社会の反応までを網羅したノンフィクション。しかしこれを読んでもゲインが異常な凶行におよんだ理由は判然としない。彼は狂信的クリスチャンの母親に虐待されて育った。母オーガスタはアルコール依存症の夫が早く死ぬよう祈れと息子たちに強要し、恋愛や性欲を汚れたものだと吹き込み、子供たちが友人を作ることを許さなかった。ゲインは母親の死後も彼女の影響から抜け出せなかった。そして彼女を憎みながら彼女を崇めるという相反する感情を抱き続けた。彼の人体工作による女装も、彼が殺害した二人ともが中年女性だったのも、彼の母親への執着を示している。思慕と憎悪による執着。しかし本人は憎悪に関しては自覚していない。供述で彼が母について口を開けば、彼女は常に正しい人間であり誰よりも立派な女性だったと繰り返した。

 もちろん、ある程度までは、誰でも母親に対してある程度のアンビヴァレンス──憎しみと愛の両方──を経験する。だが、精神分裂病者は、しばしば混ざり合った感情をきわめて強烈に感じる──大人であっても、子供のようなバラバラに分裂した認知をする。意識的には、彼は母親を「あくまでも優しい、至高の、崇高な、完璧な」ものとして見ている。だが、もっと心の奥底では、母親をそれとまったく反対のものと考えている──究極の邪悪として。

事件後、彼は精神科医と以下のようなやりとりをする。

 記憶の欠落がはじまったのは母が死んでからだ、と言う。母親が死んだあと、どんなことに関心があったか、と特に聞くと、もっと他人と触れあいたかった、とだけ答えた。母親が死んでから、自分のまわりが非現実的に感じられるようになり、あるとき、母の死後すぐ、意志の力で死人を甦らすことができると感じた。彼はまた、死後約一年間、ときおり母の声が聞こえたとも言った。

逮捕後、ゲインが何らかの精神疾患を抱えているのは明白と思われた。まともな人間が人体工作などするだろうか。死者の声が聞こえただの、墓を暴いているときは夢の中にいるようなぼんやりした気分だっただのの供述がそれを裏付けた。一方で疑問を抱く人々もいた。彼は近隣住民から馬鹿扱いされていたが、知能テストの結果IQは平均程度であり、また供述では核心部分を曖昧にぼかすといった機転のよさも見せた。彼に刑事責任能力があるのか否かが、事件後の世間の最大の関心事だった。そして面接にあたった精神科医はゲインを精神病者と診断し、彼は刑務所や死刑台ではなく精神病院送りとなる。ゲインにとっては電気も水道もない不潔な農家で食うや食わずの孤独な生活より、清潔な病室で一日三度の食事が出され、服、テレビ、医者の世話まで付いている病院での生活の方がはるかによかった。彼はその生活を、1984年に77歳で死亡するまで送った。病院では歴史に残る猟奇的犯罪を起こした人物とは思えないほど大人しく従順で模範的な患者だった。何度か退院の希望を出したが遂に許可されなかった。

 

エド・ゲイン以前にも異常殺人者や猟奇的犯罪者はいた。しかし彼がこんなにも当時のアメリカ社会に衝撃を与え、後のカルチャーに多大な影響を及ぼしえたのは、当時のマスコミによる過熱報道が大きかったのではないか、と『オリジナル・サイコ』を読むと思えてくる。平和な農村は一目エド・ゲインの家を、異常犯罪の現場を見ようと連日大挙して押し寄せる野次馬連中で大混乱に陥った。被害者遺族や、自分の住む村が突如として殺人鬼の故郷にされてしまった地元の人々は、ゲインの犯した犯罪とその余波に苦しみ、彼が死刑台送りにならず精神病院でのうのうと暮らしていることに不満と怒りを募らせた。そしてゲインの資産を整理するための競売が実施される前夜、彼の暮らしていた粗末な家が火事で全焼する事件が起きる。放火だった。しかし警察は犯人を見つけられなかった(本気で捜査しなかった?)。自宅が火事で燃えてしまったと病院で医師から聞かされると、ゲインは安堵したような表情で、一言「よかった」とだけ洩らした。やがて巷ではこんな噂が人々の間で囁かれるようになった──燃えてしまったあの家の壁には、もっとたくさんの犠牲者たちが埋められていたのではないか、と。

 

前述のとおりエド・ゲイン事件をモデルにしてロバート・ブロックは『サイコ』を書いた。ベイツの剥製趣味はゲインの人体工作の婉曲表現。彼の女装は亡き母への執着。母の部屋を封印して生前のまま保存している設定はまさにエド・ゲインがやっていたことそのままである。母の部屋はゲインにとって聖域だったのだ。ヒッチコックの映画は原作を忠実になぞっている上に刺激はこちらの方が強いから、映画を見ていれば原作は読まなくてもいいと思う。違いとしては原作ではベイツが太ったメガネ男に設定されていることくらい。あのシャワーシーン、あの音楽、メアリーを追跡する警官の不気味さ。映画と比較すると原作は退屈だった。

 

以下、『オリジナル・サイコ』から。

 彼の名前はノーマンではなく、モーテルを経営してはいなかった。だが、アイゼンハワー統治下の平和でうららかな日々、アメリカの中心部にある人里はなれた農場に、歪んだ笑みを浮かべた内気で静かな独身男が住んでいた。昼のあいだ、隣人たちは彼のことを風変わりだが人のいい男だと思っていた。脱穀のときには手を借り、雑用の手伝いを頼むのにはうってつけの相手だと。誰一人、彼の生活が死んだ母親の圧倒的なパワーに支配されており、夜には途方もなくおぞましく、すさまじい儀式を行っていようなどとは思いつきもしなかった。墓を荒らし、女性の死体を切り刻み、服ではなく犠牲者の皮膚そのものを使って女装する。誰にも気づかれぬまま、彼は何年間も口にも出せぬほど恐ろしい行為を続けた。そしてしまいに残虐行為が明るみに出され、全米に嘔吐の痙攣を引き起こした。その後遺症は今なお感じることができる。事件はロバート・ブロックという作家にインスピレーションを与えて『サイコ』なる小説の元となり、その小説が、一年後、アルフレッド・ヒッチコックの手でこれまで作られたもっとも恐ろしい映画に姿を変えたのだ。だが、三十数年前にウィスコンシン州で起こったことに比べれば、『サイコ』などおとぎ話のように可愛いものである。