もうめでたくない日2023

素で忘れていたが誕生日なのだった。

女の人からLINEが送られてきて気づいた。

40過ぎたくらいから誕生日を意識しなくなった。日常に自分の誕生日より他にもっと意識が向くことがあり、相対的に価値が低くなってしまった結果忘れてしまうのだろう。それとも単なる記憶力の衰えか。

 

46歳、めでたくもなし嬉しくもなし。

すでに折り返し地点を過ぎて坂を下っていくだけの残りの人生である。

結婚しておらず子供もいない自分に残された今後の人生のイベントと言ったら、両親を見送る、仕事を退職する(できれば定年まで勤めたい*1)、死ぬ、それくらいのものである。どれも前向きなものじゃない。幕を降ろすものばかりである。

人生前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離であるというテーゼがある。おそらく正しいだろう。それは所有していたものとの別離だけではない。所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。

と、中井久夫は「世に棲む老い人」に書いていた。

まったくその通りじゃないの。「果たせなかったことへの悔恨」。過去への未練、執着。それをうまく手放そう、と。ちょうどこのエッセイを読んだ十年前はまだ36歳だったのもあり、そうは言ってもなかなか容易じゃないだろう、と思ったものだが(だからこの一節が記憶に残った)今はできるかもしれない、という気がしている。努めなくてもだんだん記憶が曖昧になり、強い感情も持てなくなり、こだわりが薄れ、過去のあれこれがどうでもよくなってくる。同時に忘れたくないことも忘れていく。

 

でも40代でこんなこと書いて、80代の人が読んだら小僧が何かぬかしてらあ、と噴飯ものだろうな。50歳になった自分がこの文章を読み返したら、いやこの頃はまだ元気でよかった、今はもっとひどい、と思うかもな。

 

冒頭の写真。誕生日に何もしないのも寂しいかなと思い、スーパーでスフレケーキを買ってきた。ささやかなお祝い。特別な食事をするでもない。思うところあって先週から酒をやめているので酒も飲まない。誕生日を言い訳に何か高い買い物しようかな…との誘惑が一瞬頭をよぎったりもしたがそもそも欲しいものがないし、車を買ってしまったし(今週末に納車)、来年からの新NISAを全力でやりたいし、無駄遣いはやめておく。

 

phaさんの『人生の土台となる読書』に、誕生日には山田風太郎の『人間臨終図鑑』を開いて自分の歳で死んだ人について読む、とあった。なので自分も真似してみた。46歳で死んだ人には、ザビエル、シューマンボードレール原民喜ケネディなどがいる。46歳は『人間臨終図鑑』の上巻の半分あたりでしかないのに元気づけられる。そうじゃない独身者も多いようだが俺は長生きしたいと思っている。長く生きて世の中の変化を観察したい気持ちがある。まあこの先の日本社会の変化はあまりいい方向に向きそうではないが。それならそれで「昔はよかった」とノスタルジーに耽る楽しみが得られるのでそれもまたオーケーである。

 

30代の頃はまだ20代の延長みたいな感じでやれたが42歳を過ぎたあたりで何というか生物としてのパワーが急にガクンと衰えたように思う。好奇心とか集中力とか行動力とか食欲とか性欲とかそのへん全部。ミドルエイジクライシス的な鬱っぽさはない。が、待たされたりするとイライラすることが増えた。前頭葉が劣化したせいだろう。

 

何年か前にはひどい四十肩に2年苦しむ経験もした。辛かった。幸い、再発はしていない。また何年後かに五十肩とか、マジでなりたくない。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

今のところ健康は保てている。体重は適性範囲内。これといった持病もない。頭髪もまだある(一本一本がだいぶ細くなったが)。運動習慣をつけたく、かといってこれから寒くなるのに外へ出て何かするのは億劫だし、歩くのはともかく走るのは膝やりそうで怖いので室内でできる運動ゲーム、フィットボクシングでも買おうかなとの考えがチラと頭をかすめたりもするが、すぐ飽きてやらなくなる自分が目に見えるようで踏ん切りがつかない。せっかく買ったゼルダの新作は途中でなんとなく飽きてやらなくなって(神殿3つクリアーしたところまでやった)もう何ヶ月も放置している。

 

もはや会社での昇進の目もなく、家庭に楽しみがあるわけでもない自分は、この先の人生、何を楽しみに期待したらいいのだろうか。ひとりものには自分のための楽しみしかない。当面は来年公開予定のまどか☆マギカの新作を見ることで、そういう目先の楽しみを一つ一つ見つけながら人生の時間を凌いでいくやり方でやっていくしかない。俺はあまり動き回るタイプじゃないのでそんなんでも退屈を感じずにやっていけている。少なくとも今のところは。

 

松浦寿輝『半島』は中年の主人公がどことも知れぬ土地をさまよう話で、初めて読んだ若い頃にはさほどでもなかったのに、昨年読み返してみたらこちらが中年になったせいかえらく楽しめた。この小説の中に忘れがたい一節がある。

「まあいいさ。とにかく、からくりがわかってしまう、だけじゃなく、からくりを使って他人を操る側に回るわけだ。社会で仕事をするっていうのはそういうことだろ。しかしそんなふうにしていろいろあって、歳をとっていくうちに、そういうことにもだんだん飽きてくる。ただただ、索漠とした現実だけを相手にしてね。不思議なんてものも、子どもの頃の遠い夢と化してゆくわけだろ。小さい頃には、不思議だなあっていう驚きこそが、掛け値なしのなまなましい現実だったはずなのに」

「そうですね」だから俺は辞表を出したのだ。その索漠に耐えられなくなったのだ。

「ところが、その先があるって話なわけさ。いよいよ人生の陽射しが傾いて、あたりが薄暗くなってくると、どこからともなくまた不思議が戻ってくるんだよ」

本当に、この先だんだん人生が薄暗くなってきたら、さあ、子供の頃に楽しめたような不思議がまた戻ってくるだろうか。歳とってオカルトにのめり込む人もそんな心境からそうしているのだろうか。いいねえ。楽しみだねえ。不思議さ、不可解さ、不気味さ、また戻ってきて、俺の人生を再び豊かにしてくれ。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

 

*1:生活費のために