カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』を読んだ

 

この本は二ヶ月くらい前に再読している。初読はもっと前、今年の春先頃だったか。一読して圧倒され、感想を書こうにも書けなかった。そのうち時間が過ぎて、内容を忘れてしまい、再び読み始めたのが確か夏の終わり頃で、それでも結局うまくまとめられそうになく放置してしまった。感想を述べるなら、打ちのめされた、この一語に尽きる。今もうまく感想が書けるとは思えないのだが、また時間が経つと忘れてしまうので今書けることだけ残しておく。

 

著者はジャーナリスト。これまで数多の戦場や難民キャンプを取材してきた。その経験が本書のエッセイに結晶している。本書のタイトルにもなっているエッセイは、暴力の被害者たちがその体験について語ることの不可能性と、それでもなお語ることの可能性をめぐって展開する。拷問や強姦や虐殺といった暴力の被害者たちがその現場から生還した際、彼らの多くはその出来事について沈黙する。彼らが語るのを阻害するものは何か。なぜ彼らは自らの体験について語ることに消極的なのか。ある人は言う、あんなことはとてもじゃないが体験していない人には理解できるはずがないからと。また別の人は言う、同じ苦しみを味わった人に対しては多くの言葉を用いて説明する必要はなく、その苦しみを知らない人には多くを語って恐怖や苦しみを与える必要はないからと。

 

しかしそれでも語らねばならない──というのは当事者でない人間の傲慢だが、どうか、語ってほしい、と思う。「あそこで何が起きたのか」、証言を残してほしい。なぜなら、加害者──それは独裁者であったり、民族主義者であったり、宗教原理主義者であったり、あるいはほかの何かであったりする──は、被害者を徹底的に蹂躙することで彼らの心身に生涯消えることのない傷を負わせ、その抑圧とトラウマによって彼らを沈黙させることで、自分たちを非難する声を歴史から抹消しようと企んでいるからだ。被害者が声を上げてくれなければ、証言をしてくれなければ、歴史はいずれその暴力を忘却してしまう。彼らが味わわねばならなかった屈辱も、苦痛も、絶望も、一切がなかったことにされてしまう。

 だが、極度の不正と暴力という犯罪の最も陰湿な点は、まさに被害者に沈黙させることにこそある。沈黙は、それらの犯罪の痕跡を消し去るからだ。構造的、物理的暴力は、被害者のなかに入り込み、被害者と社会との物理的、心理的つながりを傷つけ、彼らの語る能力を攻撃することで、気づかれることなく作用し続けるのだ。

 

でも生還者たちに、世界のため、あるいは正義のために、その辛かった出来事を証言してくれと要請できるだろうか。理不尽な暴力の犠牲者たちは、その犠牲となったことで世界や人間に対するかつての信頼を喪失してしまっている。かつては彼らも一人一人が権利を保障された秩序ある世界の住人だった。しかし理解の及ばぬ理由でその秩序は崩壊し、恐ろしい体験を強いられることとなった。暴力の犠牲となり、同胞たちが斃れていく現場から奇跡的に生還できた人間が、世界や他者を以前と同じように信頼できるはずがない。暴力は一度振るわれたが最後、その人の中に根を下ろし、その人に対して生涯にわたって作用し続ける。そんな人に対して、世界のために、歴史のために、正義のために語るよう求めることは、それもまた暴力になりうるのではないか。そしてそう感じる限り、彼らはその重い口を決して開こうとはしないだろう。

 

ようやく彼らがその重い口を開く決意をしたあとで人々が聞かされるものは、もしかしたら知らない方がよかった、そう思ってしまうほど恐ろしい、想像力の限界を超えるほどの体験であるかもしれない。それを、当事者でない人間が、たとえ悪意は微塵もなかったとしても、「とても言葉にできない」などという定型の表現に落とし込むことは避けねばならない。なぜか。

 不明瞭な描写は、恐ろしい事実を想像したくない者たちを守る。「言葉では描写できない」という神聖化された表現は、その作用においてタブーとほとんど変わりがない。なぜなら、「言葉では描写できない」という概念は、その体験をしなかった者が、体験した者の苦しみがどんなものだったかを想像することを妨げるからだ。感情移入も同情も、誰にでも当たり前に備わった能力ではない。なにが道徳的に非難に値するのか、なにが人を傷つけ、貶めるのかを、すべての人が自動的に理解できるわけではないのだ。

せっかくの証言がタブー化してしまったら、それは語られたことについて受け取る側が語ることの妨げとなってしまう。

 

ようやく口を開いた被害者たちの証言は、おそらくは混乱した、つっかえがちな、自信なさげな囁き声でなされるだろう。しかし彼らが困難を超えて「それでも語る」ことを選択したのなら、受け取る側は、彼らの語りの不完全さ、謎や間違いや混乱に戸惑ったりせず、その声に真摯に耳を傾けねばならない。その姿勢こそが、被害者と受け取る側(世界)との信頼を回復するよすがとなる。

 「言語に絶するものは、囁き声で広まっていく」──インゲボルク・バッハマンはそう書いている。「とても言葉にできない」または「表現できない」とされるものを伝えるには、ただ囁くしかないのかもしれない。拷問、暴力、屈辱、強姦については、つっかえながら、口ごもりながら、断片的に語るしかないのかもしれない。痛みを覚えながらでなければ思い出せないことや、恥を覚えながらでなければ告白できないことを語る際には、ところどころ空白もあるかもしれない。だが、まさにだからこそ、「それ」は言葉にできるのだ。

 

語ることの不可能性を超えて、それでもなお語るために必要なのは、被害者と世界との信頼回復。それがあってはじめて語ることは可能になる──。しかしこの結論はあくまでも思索途中の仮初のものと自分は読んだ。というかこのエッセイの眼目は、被害者が体験について語ることの不可能性、それについての分析にあると見る。この分析の部分は、著者の実体験と過去のドキュメントから得た知識が結合していて読み応えがある。翻って結論は、やや文学的に傾き過ぎているとの印象を持った。これは問題解決が目的ではなく、問題提起のために書かれたエッセイだろう。

 

 

表題作以外のエッセイでは、難民キャンプで子供たちに虐待される子犬の話(「他者の苦しみ」)、強制収容所におけるアメリカ軍の権力構造のおぞましさ(「拷問の解剖学的構造」)、他者にレッテル貼りすることの危険性(「現代のイスラム敵視における二重の憎しみ」)、これまで訪れた土地の思い出(「旅すること」、とくに最後の引っ越しの話)がよかった。

二回読んで付箋だらけになった。また読み直したい。