悲しみの、嘆きの、怒りの、恨みの、声を聞け──スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』を読んだ

 

 

1970年代末から1980年代末にかけて当時のソ連が行ったアフガニスタン侵攻について、兵士や看護師やその家族たちに行ったインタビューを「ドキュメンタリー小説」としてまとめたもの。彼らの声を通じて当時の政権の欺瞞と愚かさが暴露され、負傷したり家族を失ったりした人たちが自らの悲惨な体験を語り、戦争の恐ろしさと虚しさを強く訴える。

 

アフガニスタン侵攻の概要について訳者解説から引用。

一九七八年にアフガニスタン人民民主党による共産主義政権が成立すると、ソ連はそれを「革命」と呼んで歓迎した。しかし人民民主党内部で政争が起き、各地では反乱が相次ぐ。一九七九年、ソ連はアフガン政府軍を支援し、反乱を抑えるという名目でその政争に介入し、軍を派遣する。だがソ連国内に向けた情報では、ソ連軍は「国際友好の義務」を遂行しており、兵士たちは植樹をし、現地の住民に物資や医療を提供しているとしていたこの派遣の、その「看板」とはかけ離れた現実が徐々に明らかになっていく。高校を出たばかりの何も知らない少年たちが次々に戦死し、母親たちのもとに亜鉛の棺となって届けられる。棺の素材として亜鉛亜鉛メッキのなされた鋼板)が用いられていたのは、長時間を要する保存と輸送を見込んだためであった。その多くは本書にも登場したように完全に密封され、故郷に戻ってきても家族が開けることは許されなかった。決して開かない「亜鉛の棺」は、どうやら得体のしれない恐ろしいことが起こっているらしいアフガニスタンの戦争をさす代名詞となっていく。さらにアレクシエーヴィチは「亜鉛」に、「(少年たちの)心が殺され、精神が金属の鉛のようになってしまった」という意味をも込めている。

本書の奇妙なタイトルはこの亜鉛の棺から取られている。証言者によると、身長2メートルの青年が入っているのに2メートルに満たないサイズの棺や、人が入っているにしては目方が軽すぎる棺があったという。その理由は言われるまでもなく想像がつく。完全密封された棺は遺族ですら開くのを許されなかった。遺体と対面できないまま、この中にいるのはあなたの夫、あなたの子供だと告げる軍の言うことを信じて、棺を埋葬するしかなかった。

 

政府に騙されて参加した若者もいれば、理想に燃えて、あるいは英雄に憧れて自ら志願した若者もいる。しかし現地で待っていたのは、部隊内でのリンチ、民間人に対する略奪や虐殺、飢えと渇き、ごくわずかしか支給されない報酬、そして終わりの見えない戦闘だった。一部の女性は男性へ「奉仕」させられていた。地獄のような現実。栄誉ある国際友好のためであったのなら、そんな忘れたい体験だったとしても誇りは保てたかもしれない。しかし実際には、彼らがしていたのは侵略戦争だった。帰国した彼ら彼女らは同胞から侮蔑の目で見られる。国に騙された愚か者、あるいは哀れな犠牲者。そして時が経つにつれ、アフガニスタン問題は、口にするのが憚られるほどのソ連の恥辱となっていく。参加した彼らが払った犠牲はすべて無駄だった。彼らはしなくていい戦いに参加し、傷つき、死んでいった。

 

兵卒、通信兵

 人間は戦争によってより良くなることはない。ただ悪くなるだけだ。例外なくそうだ。戦争に出かけたあの日には、もう二度と戻れない。行く前の自分には戻れない。あんなものを目の当たりにして、人がより良くなるわけがない──医療班に金券を払って黄疸患者の尿をコップに二杯買う奴らがいた。それを飲めば、病気になれる。それで除隊になれる。自分の指を銃で撃つ奴も見たし、機関銃の遊底で手を潰す奴も見た。それに…それに…ひとつの飛行機に、亜鉛の棺と、鞄に入ったムートンのコートやジーンズや女物の下着や中国茶*1が一緒くたに詰め込まれ、ソ連に運ばれていくのも見た……。

 

看護師

彼らの苦しみに寄り添わなければいけないのよ、現地にいたすべての人の。私は大人で、あのときすでに三十歳だったのに、それでも相当な痛手を負った。ましてあの子たちはまだ子供で、なにもわかっていなかった。家から連れ出され、武器を渡され、「諸君は崇高な任務をこなすのだ、祖国は諸君を忘れないだろう」と言われて。いまは、彼らから目を背け、あの戦争を忘れようとしている。誰も彼も。しかも私たちを現地に送り込んだ人間に限って、むしろそういう態度をとっている。

 

 サーシャのためにと思って話をしにいったんです。あの子を偲ぶために。私はあの子を誇りに思っていました……。でもいまでは、あれは致命的な間違いだった、私たちのためにも、アフガンの人々のためにも、誰のためにもならないことだったと言われています。以前はあの子を殺した人を恨んでいました。でもいまは、あの子を現地に送り込んだ国が憎い。あの子の名前は出さないでください……。あの子はもう、私たちだけのものです。誰にも渡しません。あの子の思い出も……。

 

補助員*2

 母は知り合いに「うちの子はアフガニスタンに行ったの」って自慢してるらしいの。ばかなお母さん。手紙に「いいから黙っててよ、じゃないとひどい話を聞かせるわよ」って書いてしまいたくなる。もしかしたら、帰ってから落ち着いて考えてみれば、少し距離もとれて優しくなれるかもしれない。でもいまは胸の中がめちゃくちゃで、混乱しているんです。ここで私が覚えたことなんて。こんなところで善行や慈悲を、ましてや喜びを、覚えられるわけがないんです。

 現地の子供たちが車両のあとを追ってきて──

「奥さん、見せて……」

 って、お金を押しつけられることもあります。そうするからには、子供の相手をする女もいるってことなんでしょうね。

 

中尉、分隊

 真実なんて誰も知らないんだ。俺たち以外は……。真実はあまりに恐ろしいから、ありのままになんて話せないよ。誰だって、先頭をきって真実を語るなんていうリスクは負いたくない。棺に麻薬を入れて運んだ話なんて誰も聞きたがらないだろうし。遺体の代わりに……毛皮のコートを入れた話も……。乾燥させて糸で繋げた人間の耳を見せたい人がいると思うか? もうどこかで聞いた話か、いま初めて知ったかは知らないが。殺した記念として……マッチ箱に入れておくんだ……耳は丸まって葉っぱみたいになって……。そんなわけない? 輝かしいソ連の青年からそんな話を聞きたくはない? ところが、そんなわけあるんだな。ほんとうだよ。これだって真実だ、消せやしない。安っぽい銀メッキなんかで塗りつぶせやしない。なんだ、追悼の碑を建てたり、勲章を与えたりすればそれでいいって思ってたのか?

 

兵卒、戦闘車砲手

人の内にある人間性なんて、ほんの一欠片にすぎない──それが戦争で学んだことだった。食うものがなければ残酷になるし、具合が悪くても残酷になる。じゃあ人間性なんてどれほどのものなんだ。俺は一度だけ墓地に行ってみたが……。墓碑には「英雄的な死を遂げ」「勇ましく勇敢に戦い」「戦士の義務を果たし」とある。確かに英雄はいたさ、ただし狭義の「英雄」だ、たとえば戦闘中に仲間を庇ったとか、負傷した上官を安全な場所まで運んだとかいう……。でも俺は知ってる──麻薬で中毒症状を起こして死んだ奴もいるし、食糧倉庫に忍び込んで見張りに射殺された奴もいたのを……誰もが倉庫からくすねていた。ビスケットを練乳につけて食べるのを夢見てた。でもあんただって、そんなことはさすがに書かないだろ……。墓の下にどんな真実が眠っているのかなんて、誰にも言えないんだ。生きてる奴には勲章を、死んだ奴には伝説を与えておけば──みんな満足なんだから。

 

少佐、大隊長

 ソ連ではすでに、あれは政治的過失だった、あの戦争は「ブレジネフの愚策」であり「犯罪」だったと書きたてられるようになってからも、俺たちはなおも戦わされ、殺されていった。殺していた。ソ連では批判され、現地では死んでいく。「裁くなかれ、あなたたちが捌かれぬために」。俺たちはなにを守っていたんだろう。革命だろうか。違う、俺は当時すでにそうは思っていなかった、心が引き裂かれそうだった。それでも自分に言い聞かせた──俺たちは自国の軍事都市を、国民を守っているのだと。

 

 私は二十四歳で未亡人になりました。はじめの数ヶ月のうちなら、どんな人に言い寄られたってきっとすぐにでも結婚していたと思います。気が動転して、どうしたら救われるのかわからずにいたから。周りではこれまで通りの生活が続いている──別荘を建てる人、車を買う人、引っ越しをして、やれ絨毯がいるとか台所の赤いタイルを買わなきゃとか……いい壁紙を探さなきゃとか……普通の生活を送っている人々がいて……。なのに私は? 私は──砂浜に打ち上げられた魚みたいに……毎晩むせび泣いていました……。家具なんて最近になってようやく買うようになったけど。パイを焼こうと思っても、おしゃれをしようと思っても、体が動かなかった。もはやうちでお祝いごとなんてできるはずもない気がした。これが一九四一年や一九四五年なら、国じゅうに戦死した人がいて、みんなが悲しんでいたでしょう。誰もが誰かを失ったし、なんのために失ったかもわかっていた。女たちは声を揃えて泣いていた。私が働いている料理学校の教職員は合わせて百人ほどいるけど、そのなかで夫が戦死したなんていうのは私だけだし、その戦争についてはみんな新聞で読んだだけのことしか知らなかったんです。初めてテレビで「アフガニスタン問題は我が国の恥である」と言っているのを耳にしたときは、画面を叩き割りたくなりました。あの日私は、もう一度夫を葬ったんです……。

 

補助員

私は戦地で、自ら危険な作戦に参加していこうとする少年をたくさん見てきた。あの子たちは深く考えもせず死んでいった。向こうで男の人をたくさん見てきた。観察してきた……面白くて……だって……男の人の頭ん中ってどうなってるのかしら、そういう細菌でも棲みついてるんだわ。いつだって戦ってばかりいる……。あの人たちがいかに命の危険に身をさらし、人を殺すのかを見てた。いまだに男の人って、人を殺せることは自分たちに特別な能力があるみたいに思ってるのね。ほかの人が触れていないなにかに触れたんだって。ひょっとして、そういう病気なのかもしれない。そういう細菌か、ウイルスがあって……それに感染してるのかも……。

 帰ってきたら、すべてが変わっていた……故郷に戻ってきたのに……。この戦争は必要だって主張してた国を旅立ったはずなのに、帰ってきた国ではこの戦争は不要だったと主張してる。そもそも社会主義自体が崩壊しそうで、どこか遠くに建設するどころの話じゃない。もはやレーニンマルクスを引用する人は誰もいない。世界革命なんていう言葉も出てこない。いまの英雄はまったく違う……大規模農場の経営者や、起業家で……。理想も変わって──我が家こそが砦……。でも私たちは(略)……みんなでキャンプファイヤーを囲んで、「まずは祖国のことを考えよう、自分のことはそれからだ」とうたった世代。じきに私たちは笑いものにされる。子供たちをおどかす話のネタになるでしょう。悔しいのは、なにかを与えられなかったとか……勲章がもらえなかったとか……そんなことじゃない。まるで私たちが存在しなかったかのように、消し去られてしまったことです。臼で碾かれたみたいに……。

(略)

 あなたは、私たちを残酷だと思っているんですか? それをいうならあなたたちがどれほど残酷だか、わかってるんですか? 私たちは質問されもしなければ、話も聞いてもらえない。それなのに私たちの話が書かれていく……。

 私の名前は書かないでください。私はもう、いないものと思ってください。

 

振り絞るようにして語られる内容に幾度も戦慄し、幾度も目頭が熱くなった。とくに子供を亡くした母親たちの悲しみと怒りがとても堪えた。中には、帰国できたのに平和な日常に馴染めず、またアフガニスタンかどこかの戦場へ戻りたい、と願う戦場経験者たちもいる。彼らは、今は誰からも相手にされないが戦場には自分の居場所があった、と口を揃える。冒頭で「もう戦争の話は書きたくない」と述べ、「私は戦争が嫌いだ」と表明している作者だが、自身と異なる多様な声を拾っているのに信頼が置ける。

 

インタビュー部分だけでも優れたドキュメントだが、本書後半には「『亜鉛の少年』たち裁判の記録」が補足資料として付いている。本書を発表したのち、作者はインタビュアーの何人かから、話した内容を捏造されて名誉を傷つけられたとして裁判を起こされた。その一連の記録である。ただこの裁判自体がお粗末なもので、不都合な真実を世界に広めようとする作家に対する権力側からの政治的圧力と見る向きが大勢のようだ。小さな市民は権力者に戦争で使い捨てにされたばかりでなく、今度は自分たちの声を代弁してくれた作家を黙らせるためにまたしても利用される。この、形を変えて続く権力による弱者の支配・搾取の構図には暗澹たる気分になる。

 

亜鉛の少年たち』裁判で争点となる証言の捏造。作家がインタビュアーの話の内容を「作品」にするために改変した可能性は、書かれたものである以上常に付きまとう。数字のように客観的に出来事を記述するなど不可能だ。作家は自身の世界観と感覚に基づいて多種多様な声を総合する。オーケストラにおける指揮者のように。様々な声が奏でる音楽の背後に、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチという一人の人がいる。

 私が守るべきものはなにかといえば、この世界を見えるままに見るという作家としての権利です。それから、戦争が嫌いだということです。それとも私は、真実や真実味とはなにかとか、文学作品のなかの記録は軍の証明書や路面電車の切符とは違うものだということを立証しなければいけないのでしょうか。私が書いている本は、記録であると同時に私の捉えている時代像でもあります。私が収集している詳細な描写や感情はたんに個々の人生のなかにあるだけでなく、時代の空気全体であり空間であり声でもあります。私は捏造や補足をしているのではなく、現実そのものを集めて本にしているんです。記録とは話していただいた内容でもありますが、自分の世界観と感覚を持った作家としての私もまた記録の一部に含まれます。

 

亜鉛の少年たち』著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの陳述より

 

 

アフガニスタン侵攻が終わって30年、2022年にロシアはウクライナへ侵攻した。プーチン大統領がどんな大義名分を掲げようが領土を支配するための侵略戦争であるのは明白で、結局ロシアは遠くない過去の経験を活かせなかったのがとても悲しく、残念だ。学ばない統治者、学ばない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返す。上で引用した補助員の、「じきに私たちは笑いものにされる」という言葉も、いずれまた繰り返されるのだろう。ロシアは自国の歴史に恥辱をまた一つ加えてしまった。

 ……これまで著したすべての作品により、戦争や暴力の狂気に抗い続けてきたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏に対し、裁判をはじめさまざまな方法でその信頼を失わせようという試みが、すでに長きにわたり続いています。氏はその著作のなかで、人間こそが人生のうち最も尊いものであるのにもかかわらず、ときに人は国家の統率者たちの気の向くままに犯罪的なやりかたで政治の歯車にさせられ、戦場で弾丸の餌食にされてきたことを証明してきました。ソ連の若者たちがアフガニスタンという異郷の地で命を落としていったことは、どんな口実をつけても正当化できることではありません。

亜鉛の少年たち』の一頁一頁が、「みなさん、この血まみれの悪夢をどうか二度と繰り返さないでください」と呼びかけているのです。

 

ベラルーシ統一民主党評議会

本書に登場する兵士たちは1980年代に20歳前後だったのだから現在も多くが存命と思うが、彼らは今どうしているのだろう。何を思っているのだろう。彼らの声はもうロシアでは消えてしまったのだろうか。

 

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

*1:現地での略奪品

*2:女性の事務員と思われる