ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』を読んだ

 

エッセイ及び書評14編、短編小説2編を収録。

 

表題作は、病気はなぜ文学のテーマにならないのか、という魅力的な問いから始まる。文学にとっては常に精神が関心事で、肉体の苦痛については等閑視してきた。絶望や嫉妬や情熱といった感情を表現するために文学は多様な言葉を発明したが、頭痛や腹痛や悪寒といった病状に関しては貧しい言葉しか持たない。肉体は精神と比較すれば取るに足らないものと考えられてきたからだ。しかし病んでいるとき(ウルフが想定しているのはインフルエンザのような肉体的な病い)、人は健康なときとは別人になる。しんどいから上辺を取り繕うことをやめて正直になるし、自分以外の物事には無責任で無関心になる。病室の窓から外を眺めて、健康なときは見過ごしていたあれこれを発見する。健康なときには隠されていた別の世界、別の人生があることが、病むことによって明らかになる。

人間は長々とつづく道を手に手をとって歩き通すのではない。一人一人の道には原生林が、鳥の足跡さえもみられない雪の広野が横たわっているのだ。ここを私たちは一人で歩み、だからこそその道がより好きなのだ。つねに同情され、つねに同伴され、つねに理解されたら耐えがたいだろう。しかし、健康なときには、親切なふりをしなければならないし、努力──伝達し、文明化し、分かち合い、砂漠を耕し、原住民を教育し、昼間はともに働き、夜にはともに遊ぶ努力──はくり返されねばならないのだ。病気になると、こうしたふりは止む。

 

と、ここまでは論旨は明快なのだが途中で飽きてしまったのか、このあと急に、病気のときはどんな本を読むのが適しているか、という話になる。当初の「病気はなぜ文学のテーマにならないのか」という問いが解決しないまま消えてしまう。で、最後はマイナーな19世紀小説の内容を紹介して終わり。せっかく面白い問いから始まったのに、読み終えて、なんじゃこれは、と戸惑った。ウルフは病気を描いた作家としてプルーストを挙げているが、確かにプルーストも執拗に病気、というか病人の心理状態について『失われた時を求めて』に書いていたが、ヴィスコンティが映画化した『山猫』というイタリア小説も病気についてあれこれ書いていたような記憶がある。自分にとってはこの二作が病いを描いた小説。現代においてはウルフがこのエッセイを書いていた当時よりも病気や老化は文学のテーマになっているように思う。時代的な問題なのだろう。ウルフの時代には病気よりも戦争の方が現代的で切実なテーマだったのではないだろうか。

 

この表題作がそうであるように、本書収録のエッセイは読書をめぐるものが多い。本書のタイトルは「読書について」でもいいくらい。「伝記という芸術」「わが父レズリー・スティーヴン」「いかに読書すべきか?」「書評について」「『源氏物語』を読んで」「斜塔」はすべて読書がテーマになっている。「女性にとっての職業」「『オローラ・リー』」「空襲下で平和に思いを寄せる」などはフェミニズム的な内容。

 

とくによかったのは「いかに読書すべきか?」と「蛾の死」。前者は他人の物差しに囚われず自由に本を読めという読書指南。多くなるが引用する。

読書について他人に助言できることと言ったら、助言など求めないで、自分の本能にしたがい、自分の理性を発揮し、自分で結論に達することなのです。

 

ハムレット』は『リア王』よりすぐれた劇でしょうか? 誰もそんなことは言えません。一人一人が自分で決めなければならないのです。毛皮がたっぷりついたガウンを着込んでいようと、権威者を自分の書庫に入らせ、どう読むべきか、何を読むべきか、読んだ本をどう評価すべきかなどを連中に教えてもらうのは、書庫という聖域の息吹ともいうべき自由の精神を押しつぶしてしまうことです。私たちは他のいたるところで、法則や因習に縛られています──自分の書庫にはそんなものは要りません。

 

私たちの時間と共感を無駄に費やした本は、犯罪者ではないでしょうか? 本物ではない本、いかさまの本、大気を腐敗させ、不健全なものにする本の著者は、もっとも油断できない社会の敵、汚染者、冒涜者ではないでしょうか? ですから、厳しい判定を下しましょう。一つ一つの本を同種の中で最もすぐれたものと比べましょう。

 

私たちの内部には悪魔が住みついていて、それが「私は嫌いだ、好きだ」とささやくのですが、その声を黙らせることはできません。まさに私たちは憎み、愛するからこそ、詩人や小説家との関係が親密になるのですから、別の人間が入り込んでくるのは耐えられないのです。

 

 でも、どんなに望ましかろうと、ある目的を果たすために読書する人がいるでしょうか? それ自体が楽しいから、それを行うという楽しみは世の中にないのでしょうか? 目的そのものである楽しみというのはないのでしょうか? 読書はそうしたものの一つではないでしょうか? 少なくとも私は時として次のようなことを夢みるのです。最後の審判の日の朝がきて、偉大な征服者、法律家、政治家たちが彼らの報い──宝冠、月桂樹、不滅の大理石に永遠に刻まれた名前など──を受けにやってくるとき、神は、私たちが脇の下に本を挟んでやってくるのをご覧になって、使徒ペテロのほうに顔を向けられ、羨望の念をいくらかこめて、こう言われるでしょう、「さて、この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったのだから」。

 

神すら羨望する楽しみ、読書。凄いね。女子学校での講演らしいがノリノリという感じ。ややイノセンスに過ぎる読書礼賛のトーンには教育目的の意図も含んでいるだろう。読書について語りながら、本質的には精神の自由を保持することの重要性を訴えている。似たようなことは父レズリーを回想したエッセイにも書かれている。

好きなものを好きだから読み、感心しないものに感心したふりをしないこと──それが本の読み方について彼が教えたすべてだった。できるだけ少ない語数で、できるだけ明晰に、自分の意味するところを正確に書くこと──それがものを書く方法について彼が教えたすべてだった。その他のことはすべて自分で学ばねばならないのだ。

 

「わが父レズリー・スティーヴン」

ウルフによるとレズリーは女子の教育に不熱心だったという。それでも彼は自身の書庫を娘のために開放し、その場所をウルフは自身の学校にしたのだった。『灯台へ』にはこの父をモデルにした人物が登場する。

 

もう一つよかったと述べた「蛾の死」。執筆中にふと窓辺を見ると死にかけの蛾が目に留まる。少し飛んでは落下し、羽をパタパタさせ、また少し飛ぼうとして飛べず、もがき、やがて動かなくなる。死という絶対的な力への虚しい抵抗の試み。1942年発表のこの短いエッセイ、前年に彼女が自死していることを考えると遺稿だったのかな。

 

ウェイリー訳で『源氏物語』を読んで感服しつつも、紫式部は偉大だがセルバンテストルストイやその他西欧の偉大な物語作家と比較すると一段劣る、それは彼女の精神にアクションがないからだ、みたいなことを書いているのは面白い指摘だった。自分は紫式部トルストイも読んだことないけれど。『ドン・キホーテ』は『カラマーゾフの兄弟』と同じくらい最高だった。