津野海太郎『最後の読書』『百歳までの読書術』を読んだ

 

 

『歩くひとりもの』から時が経った。あれは中年本だったが今度の二冊は老齢本。著者はすでに後期高齢者である。

 

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ともに老齢の読書や蔵書にまつわる話題がメイン。自分は今年44になる。思えば去年あたりからやけに目が疲れるようになっていたが、長時間の読書が続けられないほどしょぼしょぼするようになったのは今年に入ってから。休憩を挟まないと読み続けられない。元々かなりの近眼で普段は度の強い眼鏡をかけている。それで近くが見えにくいことはないから(ただし遠くを見てすぐ近くを見ようとするとピントが合うのに間が空くようになった)なるほど近眼は老眼が出にくいとはこれかと納得。ただし症状自体は出ている。近眼がひどくて老眼に勝ってしまっているのだろう。この間ホムセンで試しに老眼鏡をかけてみたがぼやけて見えなかった。

 

人生の先輩の読書に関する本で自分がもっぱら知りたいのは、視力の衰えた身でどう本と付き合っていくかと、人生折り返し点を過ぎて蔵書の整理をどうしているか、この二点。

 

前者については自分の想像の範囲のことしか書かれていなかった。歳をとると古い、焼けたページに小さい文字が印刷されている本はかなり読みづらくなる。今時の文庫本は昔のに比べたら大きい文字で印刷されているが、それでもきつい。一昔前の岩波文庫みすず書房の小さくて潰れたような文字は43歳の自分でも読む気にならない。著者も書いているが、岩波文庫がせっかく年に何度か一括重版してくれても本文の印刷は古いままだから買う気にならないというのはある。著者自身が編集者時代を振り返って、老眼の読者が読みにくい本が作られるのは、現場の人間が若くて、老眼に対する想像力が欠けているせいだという。宮田昇『図書館に通う』では、90歳の女性が文字が小さくて読めないからと読書を諦めていたところ、大活字本によってまた読めるようになりQOLが向上したみたいな挿話が紹介されていた。そういうのもありか。あとは電子書籍。文字の大きさやフォントが変更できる。Kindle Paperwhiteならe-inkで目への負担は紙の本と同程度に軽いと言われる。陽射しの下でも読める。ただページめくりが遅くて、ちょっと前を確認したいときなんかにストレスを感じるからまだまだ技術進歩の余地はある。でもラインナップに関してはかなり充実してきている。古めの本、特に翻訳書に関してはないもの多数だが、新刊に限れば電子化率は現在かなり高いのではないか。あとは権利の都合なのだろうが表紙や解説等も完璧に収録してもらえるともっといい。講談社文芸文庫電子書籍は年譜や解説が収録されていないのが不満。その分セールで安く買えるとはいえ。ただ、自分は子供時分から20代というもっとも本に親しんだ時期を紙の本を読んできたせいで脳が最適化されているのか、電子書籍は紙の本よりも記憶に定着しない。どのみち乏しい記憶力だが、それがさらに頼りなくなるので、電子書籍で買うのは(漫画を除けば)流し読みするつもりの本がほとんどで、海外文学の大長編なんかを買おうという気にはならない。

 

視力の衰えに関連して体力気力の衰えもある。高齢になればハードカバーを長時間持っているだけでもしんどくなるだろう。今自分は大半の読書をベッドの上でしているが、椅子に座って読むにしても、長時間同じ姿勢でいるのも難儀するかもしれない。また若い頃は多少の難所も辛抱強く読んだが、歳をとると頑張らなくなる。一、二度読んで了解できなければ放り出す。自然飛ばし読み、流し読み、放棄が増える。これは中年以降の読書あるあるで、加齢とともに加速していく傾向だろう。

 小説なら硬軟を問わず、つまらないと思ったらその場で読むのをやめるし、おもしろければ最後まで読み、たのしませてもらったことに感謝する。したがって、この種の内心の声──「いまさらそんな御苦労なことをしてもあの世まで持って行けるわけでなし」と古井さんのいう「内で制する声」をきくのは、おもに新しい知識を得たり、じぶんの考えをいくらかなりとも深めるための、どちらかといえば、ちょっと硬めの読書の最中ということになる。

 

『最後の読書』

 

 若者や壮年とちがって、老人の日常には「努力」の引き金となるような野心や欲望──「ねばならない」の責任感や「よし、やったぞ」という達成感によってきざまれる、つよいリズムは存在しない。むしろ心身ともにそのリズムで生きることがむずかしくなって、はじめて人は老人になるといったほうがいいくらい。

 

『最後の読書』

 

さらには記憶力の衰え──今だって読んだそばから内容を忘れていく、読み終えて目次を見返すと、あれ、ここには何が書いてあったんだっけともう思い出せないのだが──という問題もある。これについてはモンテーニュの意見が参考になる。

 わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいと思いはするものの、ものすごく高い代償を支払ってまで買うつもりはない。わたしの腹づもりは、この残りの人生を気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、あたまががんがんしたってかまわないようなものなど、もはやなにもない。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶしによって、自身に喜びを与えたいからにほかならない。

 

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所詮暇つぶし、これでいい。忘れようが読んだは読んだ、それで記憶に定着しないならそもそもが自分の血肉となりえなかった無縁の読書、無縁の言葉である──そう潔く諦めて、いたずらに自分を貶めたり嘆いたりすることはよそうじゃないの。ピエール・バイヤールならそれでも立派に読んだことになりますよ、と言ってくれるだろう。

 

もう一方に蔵書の問題がある。自分などはせいぜいが300冊程度(定期的に整理している)、それでも狭い部屋の壁際の高さ1.5m幅2mほどのDIYした本棚には圧迫感がある。正直鬱陶しい。しかし鬱陶しくても本は死蔵せず本棚に並べろ、とは松岡正剛だったか、レコードやディスクがプレーヤーにかけることで再生されるように、本は本棚に並べることで再生されるとかなんとか、本はページを開くことで再生されるのでは? という気がするのだが…そんなことを言っていたのでそれに倣っている。本書の著者は数千冊を所有、学者には万単位で所有している人も珍しくないが、執筆とか研究目的のいわば専門的蔵書の処分は難儀だろう。昨今は図書館に寄贈したくても拒否され、仕方なしに二束三文で古書店に売却するのが大方のパターンという。100冊程度ならメルカリやヤフオクで売る手もあるが数千冊では手間がかかりすぎる。

 

蔵書を減らす方法は二つある。一つは売る、捨てる、譲るなどして今ある本の数を減らす。もう一つはそもそも本を買わない。前者に関しては体力のある六十代までに目処をつけておけという。後者に関しては、年金生活に入れば収入が激減するから否応なく現役時代のようには本を買えなくなるという。図書館を利用するのが経済的にも空間的にもベストな選択になる。実際、近所の図書館に行くと前期か後期かはわからぬが定年したと思しき高齢男性が新聞や雑誌のコーナーで読んでいる姿が目立つ。いい眺めだと思う。いずれ自分も彼らの仲間入りをさせてもらうことになるだろう。

 第一に、蔵書の大幅削減はできるだけ早くはじめること。できれば体力・気力のある六十代なかばまでに。

 第二に、いったん決心したら、思いきって一気にやってしまうこと。そうすれば、蔵書ロスの悲哀からたちなおる余裕も生まれるだろう。

 

『最後の読書』

 

 本を私蔵することに執着しない。読みおえた本、もう読みそうにない本を、売ったり捨てたりすることをためらわない。本を自室にとどまるものとしてではなく、ただ通過してゆくものと思いさだめ、はじめからそのつもりで本と付き合う。

 

『百歳までの読書術』

よく吟味された書物が200冊だか300冊だか書棚にあれば十分と言ったのは吉田健一だったか。吉健でその数なら自分など50冊でも多いくらいだろうが、たとえ300冊程度であったとしてもそのまま残して死なれると、残された人間は処分するのに疲弊すると著者は自身の経験から述べる。

 しかし、だからといって「勝手に処分してくれ」といわれても、そう簡単にはいかない。一昨年、私の母が九四歳で死んだ。職業的インテリではない。ふつうの主婦だったが、本が好きで、最後をむかえた有料老人ホームの自室にも三百冊ほど本があった。それを処分するだけで、正直、へとへとになった。

 家族にせよだれにせよ、死んだ人間の思いがこもった蔵書を、まだなまなましい状態のまま、捨て値で売ったり廃棄物として燃やしてしまったりする。実際に「思いがこもって」いたかどうか、怪談にでてくる鏡や櫛でないから、そこはわからん。でも、まわりの連中についそう感じさせてしまうようなお化けじみた一面が、電子本ならぬ「モノとしての本」にはたしかに存在するようなのだ。そのため本の廃棄が親しい人間の廃棄のイメージにかさなり、体よりもさきに気持ちのほうがへとへとにさせられてしまう。

 

『百歳までの読書術』

独身こどおじの自分の場合後に残される人って誰なんだろう? 4歳下の弟か? いやいや…。特定の誰かの顔が浮かべば申し訳ないからと処分に積極的にもなろうが、想像もつかない誰かのために頑張るかとはならないので、処分のモチベーションが今ひとつ出ない。所有のうち三分の一は積んでるのでそれを読み終えたいし、一度読んだけど再読したい本もまだまだある。ネットを閲覧してくだらん時間を費やさず読書に向かうべきだとわかってはいるのだが、読書って体力が必要なので、肉体労働でくたくたになって帰宅してさあ読もうとはなかなかならない。つい缶ビールを開けてスマホをいじってしまう。未読の「固い本」、読めるんだろうか。解説した新書かムック(100分de名著みたいな)を読んで終わるかもしれない。フーコー『監獄の誕生』とかアーレント『人間の条件』とか、俺には高級過ぎる。

 

他には、『最後の読書』では、河出書房新社の日本文学全集の現代語訳によって古典文学を楽しく読めるようになった話や、須賀敦子全集の詳細な年譜に想像力を刺激された話がよかった。『百歳までの読書術』では、スローリーディングへの反論、気になったテーマについてジャンルを越境して調べる個人的な「祭り」開催の話が面白かった。自分は定年退職したら、浮世を忘れて、動画配信サービスで昔の巨匠の映画を見て、昔読んだ海外文学の長編を再読し、万葉や今昔など古典の世界に沈潜し、疲れたら山本周五郎藤沢周平の大活字本を図書館で借りて読む毎日を送るんだ…と理想を描いていたが、こうして老齢経験者の話を読む限り、実際に老齢になってみればそんな甘っちょろい理想など木っ端微塵に吹き飛びそうな気がしてきた。

 読書にそくしていうなら、五十代の終わりから六十代にかけて、読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性にあった本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然とそう考えている。現に、かつての私がそうだった。

 しかし六十五歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち七十歳。そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。のんびりだって? じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、いまはまだ考えてもいないだろうと、六十歳の私をせせら笑いたくなるくらい。

 

『百歳までの読書術』

 

 

老眼や「祭り」の話はこの本の内容とも重なる。

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『最後の読書』は排泄に失敗してトイレを汚してしまう悲しさについて書かれている。中村光夫の本もそうだったが、排泄の問題について書かれている老齢本は信頼できる。

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