伊藤明彦『未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記』を読んだ

 

 

被爆者体験の記録をしてきた著者はある会合である被爆者の男性と出会う。彼は長崎で被曝したと自己紹介した。

 

男性の語る半生は過酷でありながらドラマチックでありまた被曝体験として象徴的な内容だった。彼の語りに著者は感動する。しかし偶然から彼が別の場ではまったく異なる体験を述べているのを知る。

 

彼が著者に語った体験は嘘だったのか。

それとももう一つの体験が嘘なのか。

それとも他に何か理由があるのか。

 

当初、本人には内緒のまま謎の解明を試みた著者は、しかしやがてそれを断念する。結局のところ傍証を得ることはできない。真実はただ本人のみが知る。その本人が不慮の事故で世を去ってしまっては真相は永遠に藪の中だ。

 

体験の真偽を問うより、彼をその語りに駆り立てたものは何だったのか、が著者の関心の的になっていく。

 

人間は自身の生まれてきた意味、死ぬ意味を求めずに生きられない。

そしてその意味づけは他者との関わりの中でのみ得られる。

 原子爆弾はそれを拒もうとする人間の行為にたいして、実にふしぎな意味づけの力をもっています。

 それがあまりに残虐で、犯罪的で、人間の未来にたいして破滅的状況を与える無気味な可能性を持っているために、原子爆弾は、それに反対し、それを廃絶させ、使用を阻止させようとする人間の営みにたいして、かぎりなく大きな意味を付与するのです。

 その残虐性や破壊力の巨大さとちょうど等量の大きさの意味を、その営みにたいして与えるのです。

 被爆者は自分の苦悩が、同じ苦悩を他の人々に味わわせないことに役立てられることをつうじて、自分の苦悩の意味づけを獲得し、その苦悩に耐える力を持つことができます。

 (略)

 被爆者を運動にかりたてるものは、奪われた自分や肉親の死と生の意味を奪い返したいという欲求にほかなりません。

 

男性の語りが、その語りが他者の心の動かしていく過程でより練られていった(盛られていった)可能性はありうる。受けを狙うための事実の歪曲もあったかもしれない。しかしその目的が核兵器の廃絶、自身や肉親の尊厳の回復という「崇高な」ものであったのなら、そして自身が苦しみを背負っていることに変わりないのだとしたら──仮に偽り、あるいは幻想だったとしてもそれを断罪することははたして可能だろうか。その中に無数の死者たちの声が含まれていたとしたら?

 私はただ、吉野さんの話の背後に、原子爆弾に被曝して亡くなった、無数の人々の声のない声を感ぜずにはいられません。もし亡くなった被爆者たちの体験、その人々の声が、吉野さんの話のなかにとりいれられていたとするならば、死者たちが生きている吉野さんの口をかりてその体験と怨念を私に語った、私の録音機をとおして限りない数の人々に語った、そう考えることは、それほど事実から遠くもなく、非科学的な表現でもないような気がします。