恩田陸『灰の劇場』を読んだ

 

灰の劇場

灰の劇場

 

 

ネタバレあり。

 

普段現代作家の小説をあまり読まない、というか小説を、さらには本自体、最近はめっきり読めなくなってきているのだけれど、Twitterのタイムラインに流れてきた本書の概要が面白そうだったのでKindleで購入。思い立ったらその場ですぐ本が購入できる電子書籍は便利である。場所もとらないし。

 

1994年、奥多摩で二人の中年女性が自殺した。語り手である作家(おそらくは著者の分身)はこの事件に興味を持ったが、続報が出ないまま歴史に埋もれてしまった。今日に至るまで彼女は心のどこかにその事件が引っかかったまま「宿題」として忘れずにいた。残されている情報は新聞の三面記事のみ。自殺した二人はどんな人たちで、どんな人生を送ってきて、どんな理由から一緒に死ぬことを選択したのか。作家は想像によって、死んだ二人の物語を創作、執筆する。

 

小説は三つのパートから構成される。

20年以上前に自殺した二人に興味を持った作家が、想像力を駆使して彼女たちの物語を創作するパート。

作家の書いた本は舞台化される。その舞台のオーディションから終演までのパート。

作家の想像によって描かれる、自殺した二人の物語パート。

これらが交互に展開していく。

 

ある種のメタフィクションと自分は読んだ。この小説の起点となる女性二人の自殺そのものが、実際にあった事件なのか、著者による創作なのか判然としない。それを創作と仮定すると、いわば創作された事件について創作された物語となる。その物語はやがて舞台となる。空想の世界の登場人物たちが生身の人間によって演じられる。その不思議さ。

二人の人間が自殺を選択するまでの過程を追うミステリー的な部分もあるが、一方で、現実/虚構をめぐる反省的な部分もある小説である。作家の創作に立ち会うような、その心理を追体験するような部分もある。

 ここでまた、私は、小説家の「普通」について考えてしまう。

 もし私が五年前、あるいは十年前にこの二人のドラマを再現しようと考えていたならば、恐らく今とは全く違ったものになっていただろうからだ。

 これまでの私の傾向からいって、たぶん二人の関係を静かながら緊張感に満ちた、サイコサスペンスのようなものとして描いていたはずだ。きっと、二人の手記や手紙や日記を交互に書く、という形になっていたのではないか。 

 

 自分の書いたものが舞台化、あるいは映像化される時の、形容しがたいもやもやとした感覚が蘇る。

 あの複雑さは、何回体験してもうまく説明できない。嬉しいような、嬉しくないような。恥ずかしいような、恐ろしいような。不安と期待が入り混じっていて、祈るような気分。この言葉が適切かどうか分からないが、判決を待つ被告はこんな感じなのではないかと思う。

 つまり、他人が自分の書いたものをどう受け取ったか、どう感じたかを具体的に目の前で見せつけられる。自分の書いたものが、いったいどういうものなのかを、世間のフィルターを通した形で提示されるのだ。それが一種の「審判」と言っては大袈裟だが、評価を目の当たりにする気になるからだろう。 

 

この複数パートによる展開が成功しているかというと、どうだろうか。作家の創作、二人の物語、このパートは、創作の舞台裏を覗く、自殺を選択するまでの過程を追うといった興味でスムーズに読めるの対して、劇場パートは物語性に乏しい内省的なパートで、テンポが悪く感じた。虚構がリアリティを帯びる、という意味があるので重要なパートではあるのだろうが。本作のタイトルにも関係する降り積もる羽については、突然幻想的な描写が始まるので驚いた。降り積もる羽、時間。歴史に埋もれていく一人ひとりの人生への弔いでもあるだろうか。

二人が自殺した理由は特にこれといって明示されない。人生に対する閉塞感、ぼんやりとした不安、ボタンのかけ違いのようなものだったのではないか、という解釈は自然で違和感のないものだし、世相的にリアリティすらあるものだろう。二人は遺書を残さず、日常を乱すこともせず平然と死へと赴くだろう。

 遺書や手記を残すのは、まだ世界を信じているからであると。あるいは、まだ世界を——あるいは、まだ自分を愛しているからだと。

 そう、自分がいなくなっても、世界はまだ続いていく。歴史は続いていく。そういう信頼感なくして、どうして自分亡き後にも誰かが読んでくれると信じて自分の文字を残すことができようか。

作家のパートと物語パートが最後に交差する展開はよかったが、読了して散漫な印象が残った。勘所がどこなのか、何なのか判然としないというか。幻想に頼り過ぎとも思った。

 

 

本作を読んでいて類似点のある小説をいくつか想起した。作家の創作過程を追う小説としては織田作之助の短編「世相」。確か、阿部定の訴訟記録だかを手に入れた作家がそれを小説化する話だったと思う。内容は忘れているが滅法面白かったのは覚えている。

贖いとしての創作、ありえたかもしれない幸福な未来を創造する作家の物語として、イアン・マキューアンの『贖罪』。序盤で犯される少女の罪が、以降結末まで重要な意味を持ち続ける。その意味は終盤で明らかにされる。現実/虚構をめぐる一種のトリックを用いた作品だろう。映画版も見た。ラストの展開は原作よりもよかったと思う。

しかし何より本作を読んでいる間ずっと自分の念頭を去らなかったのは、福永武彦の『死の島』である。心中した二人の女性、その女性たちの物語を創作する作家(志望)の青年というモチーフが本作と似ている。この小説ではさらに原爆という問題が絡んでいるのだが、社会的な問題としてより実存の問題として原爆はあったように感じた。今読むと時代の懸隔を感じる部分もあるが、ラストが唯一無二で、好きな小説である。