四方田犬彦『「かわいい」論』を読んだ

 

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)

 

 

本書から「かわいい」という語のニュアンスを引用する。

小さなもの。どこかしら懐かしく感じられるもの。守ってあげないとたやすく壊れてしまうかもしれないほど、脆弱で儚げなもの。どこかしらロマンティックで人をあてどない夢想の世界へと連れ去ってしまう力を持ったもの。愛らしく、綺麗なもの。眺めているだけで愛くるしい感情で心がいっぱいになってしまうもの。不思議なもの。たやすく手が届くところにありながらも、どこかに謎を秘めたもの。

 「かわいい」は一つの、途方もない射程を持った思想である。その内には、綺麗なだけではなく醜悪なものも「きもかわ」として含まれてしまう。一方で人が何かを「かわいい」と評するとき、そこには心理的に見下す部分がある。日常で、職場のおっさん(自分もおっさんである)に「かわいいところあるんだな」などと言うとき(文章にすると気持ち悪さがいや増すな)、そこには軽侮している含みがたしかにある。

 

比較して「美しい」と言うとどうだろうか。仰ぎ見る、距離がある、近寄りがたい、そういうニュアンスがある。絶景を前にして「美しい」と感想を洩らすことはあっても、「かわいい」とはあまり言わない。路傍に咲く花などを指してかわいいとか可憐とか言うことはあるかもしれないが。「美しい」は崇高さに近づく。巨大なもの、人智を超えたものへの畏敬や賛嘆の念が含まれている。「かわいい」はもっと身近で親しみやすい感じがある。

 

 「かわいい」という単語の起源は文語の「かはゆし」、さらには「かおはゆし」。「顔」と「映ゆし」が結合した言葉だという。「映ゆ」とは「映える」。「ものごとがいっそう鮮やかに見えたり、反映しあって美しく見えたりする状態」を指す。2006年に刊行された本書では「萌え」との関連が述べられるが、現在では「映え」は「インスタ映え」を連想させる(この語も古びてきているのだろうが)。「かはゆし」という語は、元来、「見るに忍びない」、あるいは「不憫だ」、そんな意味の語であったようだ。更に遡って「かはゆし」のない時代、日本人はかわいいものを指すのに「うつくし」を用いた。平安時代にあっては、「うつくし」はbeautifulという意味よりも、かわいいという意味あいで使われていた。「かわいい」の源流は11世紀の『枕草子』まで遡ることができる。そこでは、小さいもの、幼いもの、清純なものを見下すのではなく、美として肯定的に捉える姿勢が窺われる。

 

「かわいい」についての大学生へのアンケート調査の結果が面白い。男子学生は、自身が「かわいい」と呼ばれることに対して居心地の悪い思いをする傾向がある。女子学生の場合はもう少し複雑で、自身が「かわいい」と呼ばれたいと思う気持ちがありながら、それに反撥する気持ちがあり、更には「かわいい」が「ブリッ子(と、今でも若い人たちは言うのだろうか)」のような媚態として機能することへの警戒心がある。

失敗をする女の子は、一分の隙も見せない女の子よりかわいいと考えられている。彼女は「かわいい」と名付けられることで、危機を無事に回避することに成功する。(略)女子はその「かわいい」仕草を、二重にも三重にも重なり合った、周囲との関係の緊張性のなかで賞賛されたかと思うと、状況次第では非難されたりもするのだ。 

アンケートの結果から、男子学生よりも女子学生の方が、より切実に「かわいい」を自分のアイデンティティの問題として捉える傾向にあると明らかになる。「かわいい」と他者から呼ばれることで幸福な自己肯定に到達できると信じている、しかし自分を「かわいい」とは思っていない。自己認識の困難。前述の「かわいい」という語の持つ、「見下されている」、「支配できると思われている」ことへの反撥から「かわいい」と呼ばれることへ抵抗を示す回答もある。もう大人の女性なのだから「かわいい」よりも「きれい」と呼ばれたい、自分が下に見られているような気がする、云々。

 アンケートの回答を全て読み終えて感じたのは、現在の大学生が「かわいい」という言葉に対して抱いている複雑な両義性であった。彼(女)は「かわいい」という言葉がもつ魔術的な牽引力に魅惑されながらも、同時にそれに反撥や嫌悪をも感じている。「かわいい」ものに取り囲まれている日常を送りながらも、この言葉が意味もなく万事において濫用されていることに不快感を感じている。自分を「かわいい」とは思えないにもかかわらず、人から「かわいい」と呼ばれたいと思い、また不用意に「かわいい」と呼ばれることに当惑と不快感を感じてもいる。

 興味深いのは、二十歳がもっとも「かわいい」への反撥を示し、年齢が上昇していくと「かわいい」を肯定的に捉えるようになる傾向があるという指摘だ。自分などは、若い頃はかわいいものになど目もくれなかったのに、中年になってから抵抗なくかわいいものを受け入れるようになった。加齢により物事への拘泥がなくなっただけなのかもしれないが、本書のあるアンケートの回答のような、「『かわいい』ものを身に着けることは自分を精神的にいい方向に向けてくれ、外見だけではなく内面にもパワーを与えてくれるはずだという、文化人類学におけるマナに似た、魔術的な力への帰依」でもあるのかもしれない。たまに高齢の方が鞄などにかわいいマスコットを付けているのを見るが、あれなども「かわいい」を肯定的に捉えている姿勢の表れだろうか。現在ならば、おっさんが若い女性とLINEをやり取りするときのスタンプを用いる傾向などからも、「かわいい」の捉え方が窺えるかもしれない。自分は、人にかわいいスタンプを送るのには抵抗があるものだが、人から送られたかわいいスタンプを見るのは好きだし、ショップで見るのも楽しい。LINEがコミュニケーションのツールとして優れているのはやはりスタンプにあると思う。かわいいスタンプのやり取りは交流を円滑に、和やかにしてくれる。

 

「かわいい」が人間関係の中で侮る含みを持つ語だとしても、加齢とともに他人からどう思われようがどうでもよくなったり、若い頃のように素直に他者に甘えることが許されなくなるからこそ「かわいい」を肯定したくなる、そんな面もあるかもしれない。いわば母親に甘える子供のように、「かわいい」に甘えたいという気持ち。諸外国で「かわいい」に相当する言語には、いずれも幾分かの「軽蔑的で否定的な含みが漂っている」という。「イタリアでも、アメリカでも、韓国でも、女性は『美しい』と呼ばれることに賛意を示すのであって、『かわいい』ではいつまでも子供扱いされているという不満、不充足感を抱く」。諸外国のことはわからないが、もしかすると「かわいい」が日本で強いのは、同調圧力の強いストレス社会であることと無縁でないのかもしれない。いや、むろん日本以上のストレス社会である国もたくさんあるだろうが、一種の癒しとしての強固な「かわいい」イデオロギーという側面もあるのではないか。

 

本書は序盤と終盤が面白かった。日本における「かわいい」の来歴や、大学生への「かわいい」についてのアンケート調査の結果などはとても読み応えがある。しかし中盤になると抽象的な内容になるので難解だった。そして最後になって衝撃的な「かわいい」が登場する。アウシュヴィッツ強制収容所を訪れた著者が目にした、洗濯所の壁に書かれていた仔猫や少年の絵がそれである。「かわいい」は「かわいい」ゆえに政治的に利用され、歴史的な罪過、醜聞とも共存しうる。そこで行われていたことと仔猫の絵のギャップが大きければ大きいほど、ナチスの非道さ、残虐さが顕著になる。もっともおぞましいアイロニーとしての「かわいい」が、そこに存在した。