末木新『「死にたい」と言われたら 自殺の心理学』を読んだ

 

 

統計学、心理学、生物学等複合的な観点から自殺について考察する。

 

統計的には、

・日本における自殺の原因の4割は健康問題。

・男性と女性では前者の方が圧倒的に自殺率が高い*1。もっとも自殺率が高いのは中高年男性。

・失業や倒産による金銭苦、アルコールの多量摂取、うつ病の重なりは「魔のトライアングル」と呼ばれている。

・孤独も自殺と相関があるがとくに中高年男性は人間関係が職場に特化しているケースが多く、失業がそのまま人間関係の喪失につながりやすい。

・地域別の自殺率では太平洋側・瀬戸内海沿いの平坦で比較的温暖な地域では低くなる一方、東北や北陸の過疎化率・高齢化率の高い山間部で特に高くなる*2

 

心理学的には、

・自殺は入念な企図の末行われるよりは発作的に起きることが多い。

・駅のホームドア設置など物理的なアクセス制限は自殺を防ぐ効果が高い。

・ワールドカップ(または戦争)のような人々が団結するイベントの最中や大きな災害の直後は自殺率が一時的に低下する(災害ユートピア?)。一方で有名人などの自殺報道があると直後しばらく自殺が増える。

自傷すると脳内麻薬の一種であるエンケファリンが分泌される。自傷行為は多くの場合ストレスへの対処行動として、死ぬためではなく生きるために行われている。

・自殺の対人関係理論。自殺の危険性は、「身についた自殺潜在能力」「所属感の減弱」「負担感の知覚」の3要因が合わさったときに最も高くなる。

自殺潜在能力とはいわば「死に切る力」。人間は通常自分自身に致死的なダメージを与える行動をしたがらないようデザインされているが自殺企図を反復することで克服できるようになる。自殺企図の反復はいわば「死に切る」ための練習*3。虐待経験や軍事経験、メディア報道やネットの情報で死に方に関する情報にアクセスしやすくなるのも同様に自殺潜在能力を高める効果がある。

所属感の減弱とは孤独感の高まり。孤独になることで自殺リスクが高まる。

負担感の知覚とは低い自尊心*4。自分で自分を尊重できない状態。

人は孤独になり、自尊感情が低下すると死にたいと思うようになり、自分の身体に致死的なダメージを与える力があると自殺企図が発生し、(場合によっては)死亡に至る。

 

以上が統計学的および心理学的な観点からの自殺のメカニズム。

 

ここでそもそもの疑問として、自殺は予防すべき悪なのか?

自殺は予防されるべきものという動きがでてきたのはフィンランドのような早い国でも1980年代から。日本における自殺対策基本法の制定は2006年。予防するべきものとされる前の自殺は犯罪と同じ扱いで、19世紀初頭まで多くの国には自殺や自殺企図に対する罰則が法律で定められていた。イギリスでは1961年まで自殺に対する法的な罰則が存在していた。罰則とは、キリスト教圏なら自殺者の教会への埋葬の不許可や自殺者の財産の没収など。しかし時代を遡ると初期のキリスト教は自殺を罪と考えてはいなかった。キリスト教が自殺を罪とするようになったのはローマ帝国内で国教化されて以降。一方でイスラム教圏では現在でも自殺への罰則が存在する。時代や地域によって自殺に対する考え方は異なる。将来的にはまた今とは変わっていくのだろうと予想される。

 

そもそも死は悪なのか?

死が悪くないなら(理屈の上では)自殺も悪くなくなる。生物学的に見ると、個体の死によって種の世代交代(遺伝子の増殖)が起き、生物は多様性と環境適応性を確保でき存続の可能性を高められる。オスカマキリは交尾のあとメスカマキリに食われ栄養となることで遺伝子を残す可能性を高めようとする。オスカマキリの行動は人間からすれば自殺と見えるが種の存続という観点からすればいたって合理的な選択といえる*5

 

思想的にみれば限りある命だからこそ人生を充実させようとしたり善きことをなそうとするモチベーションが生じる。死は生を充実させるために必須の要素とみなせるだろう。

 自殺のような行動を単なる「異常」や「病気」だと決めつけるのは、それはそれで生き物が広く備えているこうした傾向を無視した近視眼的な発想だと言うこともできます。自殺直前の人間の心理状況を、異常なもの/病的なものとする説明は昔から繰り返されてきました。現代においても、自殺者が死の直前に精神障害を有していた可能性が高いことを示唆する研究も多数あります。しかし、そもそも精神障害であることは、自分で合理的にものごとを考え決断する能力をまったく欠いていることと等価ではありません。抑うつリアリズム(抑うつ的な気分の人の方が現実を正確に理解しており、抑うつ的ではない人は現実をポジティブにとらえすぎている) という指摘があるように、異常とされる心理状況の方が現実を客観的に眺めることができている場合もあります。

抑うつリアリズムという概念は含蓄があっていい。

軽々に死は悪、自殺はさらに悪と言えるものじゃない。だったら生は無条件で善か、と問われて即答できるわけでもないし。ただし人間の社会が共通認識として「生きたい」を前提として成り立っている以上、「死にたい」念慮を抱く人が排除されやすい、という現実はある。

個人にとってみると、死それ自体は、我々が死ななければ得られたであろう良きことを喪失させるが故に悪いと言える一方、退屈からの退出、対人関係の充実、人生の意味の創出といった良きものを生み出す可能性のあるものと言うことができます。また、死は、生き物であるヒトが環境に適応していく上で重要な機能を果たしている可能性のあるものでもあります。つまり、死は単に悪いものというわけではなく、良さと悪さを兼ね備えた両義的なものだということです。

 

自殺は良いものと悪いものを含む両義的なものであり、悪い成分の多い自殺もあれば、それが少ない自殺もあります。自殺の悪さの成分は、①死ななければ得られたはずの良きものの剝奪の大きさ、②遺された遺族への負の影響(死の予測不可能性や経済的打撃)、③遺族以外の社会全体が被る負の外部性(例:電車の遅延時間)から構成されており、こうした成分を少なくすることは自殺予防の本質的に重要な部分です。自殺そのものが予防されるべきなのではなく、自殺の持っている負の成分を少なくすることが大事なことになっていくと予想されます。

 

コミュニティに損失を与える死を減らすために人類は長い年月をかけて様々な方法を試みてきた。最初は暴力を抑制することによる他殺の予防。次に病死を減らすための医学や医療制度の発展*6生活習慣病や癌への対策。その次は事故死。ピークである1970年頃には年間16000人いた交通事故死亡者数は昨今では1/4にまで減っている。

 最後に残された死亡対策のフロンティアが自殺対策であり、国際的には1980年代頃から関心が高まり、現代において少しずつその対策が進められているというわけです。

 

当たり前のことではありますが、経済や科学技術が発展しておらず、我々の生活が生存水準ギリギリのラインで、平均寿命が20〜30年程度であれば、全死因に対する自殺死亡の割合は現在よりもさらに低かったはずですし、自殺を予防しようなどという考えが社会全体で共有されることはなかったでしょう。感染症による死亡が克服され、生活習慣病による死亡が減り、事故や他殺による死亡が低い水準でおさえられて初めて、自殺による死亡を予防しようという話になるわけです。

他殺、病死、事故死と比較すると自殺はコミュニティへ与える損失から考慮して対策すべき優先性が低かった。自殺予防という概念はここ50年ほどで生まれたばかりの新しいもの。人類の歴史はまだそのフェーズに入ったばかりなのだ。

 

人が(合理的でない)自殺をせずに済む社会を作るにはどうしたらいいか。

自殺の危険因子(不適切なメディア報道等)を減らし、自殺から我々を守ってくれる保護因子(人と人とのつながり等)を増やしていくことが重要になる。駅のホームドアや屋上のフェンス、自殺企図に用いられやすい農薬、練炭、銃器、処方薬などの販売や管理上の工夫など手段にアクセスしづらくすることも有効な対策。あとは相談する場所の充実やつながりやすさの改善。単純ではあるがこれらを粘り強く続けていくしかない。

 

 

先日読んだ『「居場所がない」人たち』には中高年ひとりもの男性の生存戦力として「人とつながれ」「社会に居場所を作れ」とあったが、本書では自殺予防の観点から同じことを提言されていて、そう、社会との接点を保つこと、社会から孤立しないことは生きるうえで重要と人から指摘されるまでもなくわかってはいるのだが、そう言われたからって実際じゃあそうできるかと言えばできなくて、家族と会社を除外すればほぼ人間関係のない俺(希死念慮はない)、だからこそひとりものやってるんだが…と困惑してしまった。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

*1:「男性の自殺率は女性の自殺率よりも通常は2~3倍程度高く、これは、歴史的に見ても地域的に見ても普遍性のあることです。自殺というのは子どもに多いものだと勘違いしている人も多くいますが、通常子どもの自殺というのは極めて少なく(だからこそ、ニュースなどで取り上げられることが多いわけですが)、大人の方が自殺率は高くなります」

*2:いわゆる田舎には保健医療資源がなく、さらに東北や北陸は雪や土地の傾斜によりアクセスが制限されがちなためと考えられている

*3:反復するうちに身体により大きな傷をつけられるようになる、薬物をより過剰に摂取できるようになる等

*4:「自分は生きていても何の役にも立たない社会のお荷物である」等、罪や恥辱の意識

*5:人間の場合なら治る見込みのない延命治療の拒否(看病者の負担減目的)や、家族へ遺す保険金目的の自殺などが合理性という意味で似ている行動といえるか

*6:「日本では戦後すぐの頃はまだ結核のような感染症が死因の第一位でした。感染症は人類にとって、つい最近まで大きな脅威であり続けました」