ブクログによると読んだのは4月。示唆に富んだとてもいい本だったが感想を書くのが難しく、時間がかかりそうだったので放置していた。夏季休暇で時間があるのでハイライト箇所を振り返りつつ今書いておく。感銘を受けたので4ヶ月が経った今でも結構内容を覚えている。
自殺念慮がある人はどうすれば生き続けることができるか、そして自殺念慮を抱える人とどうすれば共に居ることができるか、についての考察。
先に述べると最後まで結論は出ない。自殺念慮を抱える人がそれぞれ死にたい理由も取り巻く環境も千差万別である以上、たやすく解決策が出るわけがない。
本書の鍵概念として「親密圏」がある。親密な者同士の圏域であり、具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって維持される関係を指す。家族、親戚、友人、恋人などがあてはまるだろうか。
自殺念慮に駆られる人は「死にたい」と打ち明けずにはいられない。しかし打ち明けられたのが親密圏の相手であればどうしても自殺を止める方向へ話が進んでしまう。社会が「生きたい」を前提として成立している以上、親しい相手が「死にたい」と言えば止めるのが自然な行動なのだ。自殺念慮のある人はここで、死にたい思いと理解されない思いで二重に苦しむ羽目に陥る。仮に説得されて思い留まったとしても死にたい思いが解消したわけではないから時間が経てばまた死にたくなる。その反復の過程で自殺に「成功」するケースはあるだろう。末木新『「死にたい」と言われたら 自殺の心理学』によれば、過去に自殺企図のある人は再び試みる可能性が高いという。
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一方に死にたいと苦しむ人がいる。
もう一方に死なせないとする人がいる。
双方が譲歩できずに衝突してしまうのは親密圏の孕む構造的な問題であり解決できない。
そこで自殺念慮のある人は親密圏の外部で「死にたい」との思いを吐露する。その場所として利用されやすいのがインターネット、とくに匿名での発言がしやすいTwitter*1だ。Twitterには「死にたい」とのツイートが溢れているという。それは親密圏の人たちほど関係が濃くなく、かといってまったくの無縁でもないフォロワーに向けて吐露することで心の拠り所にできるからだ。
また著者は「死にたい」はメディアである、と言う。「死にたい」は共通の趣味のように誰かと誰かをつなぐ媒介になりうる。実際、本書冒頭に自殺念慮を抱えた女性二人の対話が収録されているのだが、自殺に対しての考えは異なるものの(一人は他者に殺されてもいいと言い、もう一人は殺されるのは嫌で自分でやりたいと言う)同じ「死にたい」を抱えている者同士として独特の相互理解を果たしている(まるで好きな映画についてでも語り合っているかのように彼女たちは自殺について意見交換や共感をし合って盛り上がる)。この対話は自殺念慮を抱えた当事者たちがどう感じどう考えているのかの一端を明らかにしておりとても読みごたえがあった。資料としても貴重なものではないだろうか。
親密圏の外部に脱出して同じ念慮を抱えた者同士でつながろうとする心理を悪用した者によって起こされたのが座間9人殺害事件だった。日常的に「死にたい」と言動する者は、この事件の犯人が抱いていたような悪意に対して無防備にならざるをえない。
親密圏内で「死にたい」とつぶやいても否定される。だからその外部へ出れば今度はその「死にたい」を己の欲望を満たすために利用しようとする者がいる。
本書では、「死にたい」と言動する者は、誰に/どこで「死にたい」と言えばよいのか」という問いに、取り組んできた。「死にたい」と言動せざるをえない者にとっては、「死にたい」と言動できる場/相手が必要になるが、親密圏の外側には危険がともなう、という課題がある。有り体に言えば、たとえば自身の両親よりも、SNS で知り合った「死にたい」と言動する相手のほうが、「死にたい」をめぐるコミュニケーションを行ったり、「死にたい」を共有したりしやすい場合があるわけだが、そのような相手を求める過程で、犯罪や事件、事故に巻き込まれるリスクがあるということだ。
ではどうしたら?
自殺念慮を抱える人は孤独であるとの統計データがある。孤独だから死にたくなるのかもしれないし、「死にたい」言動をするから周囲から距離を置かれ孤独になるのかもしれない。おそらくは両方が同時に起きている。
「死にたい」と言動するから孤立し、そこから生ずる孤独感によってますます死にたくなってゆく──
この孤独を解消するのにTwitterが安全な場所でないことは座間の事件が証明した。ゆえに別の可能性を著者はシェアハウスにあるのではないかと見る。自殺者だけが入居しているシェアハウスも存在するという。
家族ほど関係が濃くなく、他人よりは親しい。
そんなシェアハウスでの人間関係によって救われている人がいるのは事実だがそこにこれという方法論はない。特定の人物のパーソナリティだったり、それによって起きる人間関係のケミストリーによって偶然そうなっているだけのようだ。自殺念慮への個人ができる対策としては、孤独にならないこと、人とつながることが重要だとデータは示す。その意味ではシェアハウスは有効なのだろう。ただしシェアハウスならどこでもいいわけではない。中にはドラッグや犯罪の場になっている「メンヘラシェアハウス」もあるという。
本気で「死にたい」と考えている人を止めるのは不可能だろう。仮に止めたられたとしても一時的なものに過ぎない。一度やればまたやるに決まっているし、何度もやるうちにやり方に習熟してついには自殺に成功してしまう──。
一方で、状況や心境の変化によって自殺念慮が嘘のように消えてしまう、というケースもあるだろう。自殺は熟慮の末ではなく突発的に起きるとされる。衝動が起きたときやり過ごすことができれば生き延びる可能性は高い。*2。
そんなことは不可能だと承知の上で思う。(未遂ではなく)自殺してしまった人に、本当に自殺してよかったか、と聞いてみたいと。もしも死後の世界なんてものがあったとしたら、そこには自殺を後悔している自殺者が意外といるんじゃないだろうか。生きていると、自殺に限らず発作的にしてしまった行動に対して後悔するケースは往々にしてある。自殺も例外ではあるまい。後悔する可能性がある以上、そしてやってしまえば取り返しがつかない以上、自殺はするべきじゃない、というのが今の俺のスタンス。
自分に関していえば若い頃から自殺念慮とは無縁だった。精神が鈍感なのだろう。実家暮らし独身中年、人生に楽しいことなんてほとんどないけどとりあえず生きている。ぼんやりと近い将来に望みをかけ、それを支えにして。少し前なら新海誠監督の新作が見たいとかゼルダ新作がやりたいとかその程度の望みで、今ならまどかマギカの『ワルプルギスの廻天*3』が見たいとか車買い替えたいとか。会社での昇進とか結婚とか子供の成長とか家建てるとかそんな大層な望みは持っていない。でも、しょぼい望みであってもないよりはマシ、ではないだろうか。「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ*4」。
飽きないうちはまだ生きていける。
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状況を変える手段として神隠し(失踪)を社会が許容していた時代があった。
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死亡していたこの女性は失踪によって自分を取り巻く状況を変えたかったのだろうか。それともやむを得ぬ事情が別にあったのだろうか。