今年の冬、年明け頃から散歩を始めた。健康のため、そして長期休暇の暇つぶしが最初の動機だった。部屋にいてパソコンでネットしたり、酒を飲んだり、読書したりしていると気分がモヤモヤしてくる。外に出て家の周りを30分程度歩くだけでも気分転換になってモヤモヤも多少は晴れる。スッキリする。春になり暖かくなれば気軽に出歩けるし、近所の公園は桜の名所みたいなところなので写真を撮りに行くのもいい。ブルーワーカーゆえ体が疲れているときは例外だが、できるだけ休日は1時間程度歩くようにしている。ちょっと用があって外出した際も意識して徒歩による行動を選択している。自動車は便利だけれど肩や腰が痛くなるし、視力や集中力や判断力が若い頃より衰えたから精神的に疲れる。若い頃は結構運転に自信があったが今はそうでもない。下手になったと思う。
本書はソローの人と思想にまつわるエッセイ。ソローといえば『ウォールデン』だろう。が、自分は読んでいない。岩波文庫で読み始めてすぐ挫折した。もう読んだ部分も忘れたがえらく退屈だった記憶がある。なのでソローについてちゃんと読むのは本書が初めて。冒頭、ソローによる「散歩」または「歩くこと」の意義が説かれる。ここがいい。ソローは猛烈な歩く人だった。コンコードの地で毎日四時間かそれ以上の時間を散歩に充てた。森を抜け、丘や草原を越える。距離にしておよそ10マイル。それが彼の日課であり、それを日々の旅、日々の聖地巡礼と呼んでいた。何のために? 「正気を取り戻すため」だ。近代以降の人間は文明にあてられ正気を失っている。我に返るには野生の中を歩き続けるしかない。そうソローは考えていた。文明から逃避しようというのではない。日々の労働や社会問題に関して思考するためでもない。正気の人間として生きるために彼はそれほどの時間と距離を散歩に費やさねばならなかった。
コンコードの森の半径10マイルの小宇宙。そこにいかに多くの啓示的な風景や事物が潜んでいるか、毎日歩き続けるうちにソローは発見する。歩行は観察、発見、思考へと導く一種の儀式だった。
「歩く」ことは、均質に見える風景のなかに隠されていたおどろくべき細部を外に向けてと同時に内に向けて現前させる行為なのである。歩行がもたらす日々の風景の発見が、人の一生のあいだに発見される真実の厚みを教えてくれる。ソローはそのように「歩く」ことで、散漫な歩行=観察の習慣を捨てて、精緻な自然観察と高度な哲学的な思考のおどろくべき合体を実現していったのである。
その地に定住していながらその地を初めて訪れた人のような新鮮な眼差しで事物を観察する。見慣れたはずの光景は都度新たな相貌をそれを見ようとする者に対してのみ開示する。「野生とは、人間の文明とは相容れない、もう一つの文明なのだ」。そう考えていたソローにとって、歩行は野生へ入門する手段だった。初めて訪れる土地であれば勝手がわからず右往左往し意識は散漫になる。慣れ親しんだ土地だからこそ集中でき、発見できるものがある。ナボコフは読書するとは再読の謂である、と言った。ソローの主張していることと示唆するところは同じだろう。知っているからこそ発見が可能になる。深く味わえるようになる。その姿勢を指して著者はソローを「定住する旅人」と評する。ここで言う旅人とは初めてその土地にやってきた訪問者の謂だが、旅人とはまたいつか去る存在でもある。プルーストはある新聞のアンケートに対し、もし人間が人生の無駄遣いをやめようと思うのなら今夜にも自分は死ぬ存在だと考えればいいと答えた。そうすればだらだらスマホでSNSを見続けることも、はぶかれたくないという理由で好きでもない連中と過ごすことも、共依存のような恋愛関係を続けることもなくなり、代わりに自分にとって本当に大切だと思えることに向かえるだろう。だから「定住する旅人」が発見するのは季節の移り変わりや動物の営みや植物の成長だけではなく、真に価値ある人生の認識も含まれるかもしれない。
同じ道行きを何度でも反復することが肝要なのだ。「反復は日々の力」、そう述べたのは精神科医の中井久夫だった。ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の中で、犬はルーティンのように同じ道を散歩することに飽きない、人間だったらすぐに飽きてしまう、として反復の中にこそ幸福がある、と述べた。だから人間は幸福になれない、とも。そしてニーチェはトリノの広場でそのような動物である馬の首にすがりついて泣き崩れたのだった。
ソローは野生をもう一つの文明であると見做し、それを学ぶことを目指した。それは文字では記されていない。現象として記されている。読もうと志す者に対してのみ啓示的に示される知識である。
いかに選び抜かれた古典であろうと、書物のみに没頭し、それ自身が方言や地方語にすぎない特定の書き言葉ばかり読んでいると、比喩なしに語る唯一の豊かな標準語である森羅万象のことばを忘れてしまう恐れがある。それらのことばはどこにでも溢れているのに、めったに印刷されはしないからだ。鎧戸から洩れ入る光は、鎧戸がすっかりとりはずされてしまえば、もはや思い出されることすらないだろう。
自分の散歩はソローみたく立派で大層なものじゃない。思索なんぞないし、発見といっても花が咲いたの散ったの、未知の道が既知の道に通じていたの、その程度のもの。しかしこの程度の発見であっても、ソローが言うとおり発見は楽しい。今年はいつになく熱心に桜を見に出かけたが、花の咲くのに誘われて普段行かない方まで足を伸ばせば思いもかけなかった素敵な光景に出くわしたりして、なぜ以前の自分はわざわざ遠くまで行こうとしたのだろう、すぐ近所にこんなにいい場所があるのに、と怪訝に思ったものだった。四時間以上10マイルは無理だができる範囲でこれからも散歩は続けよう。モヤモヤを抱え込まないために。まだまだ近所の公園やら川辺やら林やらは秘密をたくさん隠しているだろうから、それを見つけて楽しむためにも。と、本書を読んで思った次第。
hayasinonakanozou.hatenablog.com
アラン・ド・ボトンは『プルーストによる人生改善法』の中で、『失われた時を求めて』について、「もっと叙情詩的だった時代の経過をたどる回顧録などとは程遠い。いかにして人生の無駄遣いをやめ、いかに人生の真価を認識しはじめるべきかに関する、実用的で、応用のきく物語なのだ」と評している。
hayasinonakanozou.hatenablog.com