『つげ義春が語る 旅と隠遁』『東京人 特集「つげ義春と東京」』を読んだ

みんな大好き、かどうかはともかくとして俺は大好きなつげさんの本と特集した雑誌がほぼ同時期に出たので早速買って読んだ。

 

過去のインタビュー集。半世紀近く前のもあれば2020年のものも収録されている。

俺がファンだから、という贔屓目はもちろんあるだろうけれど、内容が面白い。400頁近い分量なのに二日ほどで読み終えた。

 

つげさんは昔から言ってることが変わらないのが凄い。ずっとぶれない。漫画に対しての執着のなさ、表現より生活優先、蒸発願望、乞食願望。老いてからはこの世の物事への未練が一切消えたようにも見え仙人みたい。ここ何年かのインタビューでは「早くこの世からおさらばしたい」みたいな発言を繰り返してばかり。散歩中だかに水木しげると久しぶりにばったり会って、「つまらんでしょう」「つまらんですね」って会話を交わしただけで別れたというエピソードはこの二人らしくていい。

 

俺は漫画家のつげ義春より思想家、文筆家としての方が好き。思想家と言ったら大仰かもしれないけれど旅=蒸発=隠遁と親和性の高い宗教(とくに仏教)を巡る発言は読んでどきりとさせられるものがある。

つげ 現在の宗教は変なヒューマニズムに影響されているようで物足りなく思えます。氾濫している宗教書は殆ど人生論でしかないし、暗い陰もないし、まとも過ぎるような感じがするんですよね。宗教は暗い狂気でもって人を狂わせてくれた方がいいんじゃないですか。変に民主化された人間に迎合してはダメなような気がするんだけど。

 

つげ 関心はあるけれど仏教の宿業論がどうしても分からないねえ。宿業によって定まっているというと、一般には否定されるだろうし、そこが宗教の最も難解なところだけれど、自分は分からないけれど、宿業を肯定したいんだよね。宿業によって定まっているんなら、それこそ救いじゃないの。

(略)だけど宗教は異端であることによって意味があるわけで、キリスト教だって仏教だって初期は異端だったわけでしょう。それがねえ…。

 だって切実に救いを求め信仰をするというのは、どんなケースの不幸であっても周囲とは馴染めない孤立した心の状態であって、すでに異端なんですよ。キリスト教も仏教も初期はそういう異端の群れだったわけでしょう。だけど現在キリスト教は世界最大の宗教になって、もし全人類がキリスト教になったら、それはもう宗教とはいえないよね。

 

つげ (略)

 現実世界に馴染めないで、出家するとしますよね。出家の世界は一般とは違う、特殊な世界です。けれど出家した所がまた大きな教団だとすると、教団というひとつの俗世間が出来てしまいますから、そこからも逃げ出したお坊さんがずい分いたんです。つまり、お坊さんが蒸発したわけです。

 蒸発していったお坊さんは一般社会から抜け出してお寺に入り、その寺からも抜け出す形を取っていますね。つまり、組織を否定して出家したはずの人達が、そこでもうひとつの組織を作ってしまうという矛盾が生じるわけです。いわば、それが俗世間と変わらなくなってしまうわけです。

 自分は、そういう所からも蒸発していったお坊さんに興味が湧くんですね。

 だから自分の場合も、宗教に関心はあってもどこか特定の教団に入信する気はないんですよ、最後にはあくまで自分個人ですから。

 

救済を求めて宗教に縋ったとしても説かれるのが最大公約数的な論理であるなら個人が完全に満たされることはないのだろう。なぜなら個人は約分可能な存在ではないから。ブッダもキリストも悟りや教えは自分一人のためにしかなかったのではないか。自分を救うのは結局自分しかないのではないか。つげさんの発言を読んでいるとそういう気持ちになる。

 

散々持論を展開しておきながら、

つげ ボクの言うことなんか真に受けないでほしいですね。自分でも何を言ってんだか分かんないんで、怪しんですよ。

と断るのも忘れない。いいね。

最近はあまり宗教に関心はないけれど今でもどっちかと言えば好きだと2017年の『スペクテイター』のインタビューに答えている。

 

つげさんの素晴らしいエッセイ『貧困旅行記』で訪れる旅先はほぼ辺鄙な土地ばかりで、泊まるのも粗末な商人宿が好み。失踪、蒸発の疑似体験としての旅行。

みすぼらしい宿屋に泊まることで、乞食の境涯、世の中から見捨てられたような気持ちになり、そこに安心感を見出す(それが自己否定に通底し、自己からの解放を意味することには後年気づくこととなる)。

と自身が作成した年譜で解説している。

 

旅の行き先は東北が多い。つげさんは旅行案内のガイドブックではなく昔の地理の本や地図を見て旅先を選んだ。『貧困旅行記』に掲載されている60年代から70年代にかけての鄙びた温泉地の写真はどれも味があって見入ってしまう(女湯の写真はどうやって撮ったのだろう?)。未舗装の道路だから土砂の跳ね返りが民家の板壁にかかってこびりつく、そういうのを見ると「ゾクゾクしてくる」と語っている。変態か。

 

本書に続けて『つげ義春が語る マンガと貧乏』が刊行予定と帯に書いてある。楽しみに待つ。

 

 

『東京人』、初めて購入した。去年、インターネットがつまらないから代わりの時間潰しとしてこれまでほとんど読んでこなかった雑誌を色々買って読んだらわりと面白かったので今年も続けようと思っている。インターネットの閲覧に費やす時間は不毛なので今後どんどん減らしていく。浮いた時間は本、ラジオ、動画に充てる。人生の時間は有限。無駄遣いはやめて大事にしよう。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

特集はつげさんゆかりの東京都内の土地を由縁とともに紹介するというもの。冒頭の座談会、つげさんも参加してくれたら盛り上がっただろうけれど残念ながらなし。代わりというわけではないだろうがつげ忠男さんが参加。あとの二人は佐野史郎さんと高野慎三さん。

 

紹介されるのは立石、錦糸町、大塚、浅草、伊豆大島、調布。立石は少年期を過ごした土地。「別離」の舞台が大塚なのは知らなかった。浅草は「義男の青春」でデートしてた。伊豆大島は4歳までを過ごした「心から帰りたかったところ」。調布、多摩川は「無能の人」シリーズの舞台。調布はつげさんが長年居住している土地でもある。「鳥師」に出てくる水門の実物は思ったより小さい。漫画では誇張して描かれている。多摩川住宅の給水塔、フォルムが独特で生で見たくなる。

 

土地の紹介としては東京より「旅もの」の舞台となる各地の方が面白そうではある。東京は舞台としてそれほど前面に出されている印象がないのもある。この特集で一番驚いたのはつげさんが撮影した69年から73年の都内の風景写真。これまで旅先の写真は何度も見てきたけれど(西山温泉のお面をかぶった女の子の写真は異なる本で何度見たことか)都内は初めて。漫画の背景に使うつもりで撮影していたという。

 

記事で面白かったのは座談会とつげさんの写真とよしながふみさんの寄稿とつげ作品を知るためのキーワード集。房総、湯治場、写真、文学の項がよかった。房総は「海辺の叙景」や「ねじ式」の舞台。湯治場、写真は言うまでもない。文学は戦後の私小説、とくに愛読しているのが川崎長太郎。『旅と隠遁』では「自分が本当に関心をもっているのはマンガではなくて、文学なんですよ」と語っている。歳をとってからは過酷な内容のは読めなくなったとどこかで答えていた。

 

インタビュー集の刊行も雑誌の特集も今年が「画業70年」であるからのようだ。その半分以上の期間は漫画を描いていないのだから可笑しい気もするが、この世の常識というか理というか、そういうのをもう超越している人だと思うので可笑しくないのかもしれない。

 

去年調布で開催されたつげさんの展覧会、やってるのを知ったのが最終日で行けなかった。今年70周年ならどこかでやってくれないかな。