そこに「怪物」は存在したか? 映画『怪物』感想

この映画について核心に触れずに感想を書くことは難しい…。

なので以下ネタバレあり。

 

この映画は内容をあまり知らずに見に行った方が驚きがあり楽しめると思う。予告は見ていても問題ない。予告は核心部分にはふれていない…わけじゃないがミスリードされているのでたぶん大半の人はこれを見ただけでは気づかない(はず)。自分は予告を見ただけの状態で見に行って、中盤から、「この映画のテーマってそれだったんか…」といい意味での裏切りに快感を覚えた。

 

ある小学校*1で起きた、教師による児童への暴力事件*2を複数の視点から描く。視点人物となるのは以下の人たち。

児童の母親。

担任教師。

小学校の校長。

2人の児童。

 

序盤は安藤サクラ演じるシングルマザーの息子が学校でいじめられているらしく描かれる。絵の具まみれになって帰ってきたり、スニーカーが片方だけなかったり、水筒の中に泥が入っていたり、怪我をしたり。そしてある夜、彼は家に帰ってこない。心配になった母親は同級生に見かけなかったかと電話をかけ、彼が秘密基地にいるのを突き止め、車で向かう。

息子は無事そこにいた。だが帰りに車中で彼は走行中にドアを開けて外に飛び出してしまう。病院で検査を受けたあと、母親はこれまで言い出せなかったのであろう問いを遂に口にする。

「学校で何かあった?」

怪我は担任の教師によるもの、暴力の他にも暴言を吐かれたりしたという。

母親は学校にクレームに行く。だが学校側はのらりくらりの対応で非を認めない。調査も適当。担任の教師にはなかなか会わせてもらえず、ようやく会えたと思ったら不貞腐れたような態度で反省の色はまったくない。挙句、あなたの子供は被害者じゃない、いじめをしている加害者だとまで言い出す。母親は取り合わないがそう言われてしまうと信じる気持ちが揺れ、もしかしたらとの疑念が差す。息子のランドセルからは点火棒が出てくる。

 

このへんから見ていてる側はこの映画はある種のミステリー、謎解きだと気づくだろう。

序盤での息子の描写は明らかにいじめられている子のそれだった。しかし教師が嘘をつくだろうか。点火棒は何のために持っていた? いじめられている側が身を守るため? それなら刃物や工具だろう、点火棒は妙だ。そういえば映画の冒頭は近所の火事のシーンだった…。

 

やがて担任教師の視点からも顛末が描かれる。ガールズバーだかキャバクラだか曖昧な店の常連らしい(これが曖昧なのも意味がある)、しかもその店が入ったビルは先日火事になったという。学校にクレームに来た母親に対しては相手の感情を逆撫でするかのような対応、ろくな教師じゃなかろうと思いきや、永山瑛太演じるこの担任教師、かなりいい先生なんである。怪我をさせてしまったのは事実だが暴力ではなく事故、暴言は一切口にしていない。つまり息子が嘘をついていたことになる。直接的ないじめの描写はないが息子が教室で問題行動を起こしていたことが明らかになる。

 

学校側は担任教師が暴力を振るっていないと知っていた。しかし田中裕子演じる校長は「本当のことなんてどうだっていい」とあくまで体面を保つことに躍起になる。この自己保身の行動が母親の疑念を招き、対話は平行線をたどり、弁護士が介入する事態となり、担任教師は責任をとってこの学校を辞めざるを得なくなる。

 

教室では実際に何が起きていたのか。

ある児童に対するいじめ、これはあった。ただし息子は関係していない。別の男子グループが行っていた。息子はこの子に惹かれ、仲よくなるものの、いじめられっ子と仲よくしているのが周囲に知られると今度は自分もいじめの標的にされてしまう。それは避けたい。だから「みんなの前では話しかけないで」と頼む。このあたりの描写は、いじめとはそういうものだと思いながらも、残酷だな、と見ていて思った。

いじめられている子は家庭で父親から虐待を受けている。嫌な場所である「家」*3からの避難所である廃列車の中の秘密基地、放課後、2人は人目を憚るようにそこで一緒に遊ぶ。

そして息子は相手の子に対して好意を超えた強い感情を抱いているのを自覚する。

 

タイトルの「怪物」とは、クレーマーのような母親のことでもなく、児童に暴力を振るって反省しない教師のことでもなく、自己保身に走る学校のことでもなく、恋愛感情に戸惑い、同性の相手を好きになるのは普通じゃないと思い込んだ末に息子が自分で自分に貼ったレッテルだった。好きな子がいじめられているのに自分もいじめられるのが怖さに彼を庇えない不甲斐なさも「怪物」と思った所以かもしれない。

死んだ父親は(「男らしさ」のシンボルであるような)ラガーマンだった*4、「あんたが自分の家族を持つまで頑張る」という母親の台詞*5、それらが彼にとってプレッシャーになっていたのだろう。

最初に書いたミスリードとはこれである。「怪物とは誰か」についてのミスリード

 

ジェンダー的なテーマは今時っぽいな、と思いつつ、矛盾するようだが、少年*6時代の同性への複雑な感情ってたとえばヘッセの『車輪の下』だったか『デミアン』だったか、俺は教養がないから多くの例を引っ張れないけれども昔から普遍的なものだよな、とも思った。これはテーマそのものというよりそれを受け取る側の価値観が変化した、という話なのかもしれないが。

 

この映画はミステリーだと述べたけれども、話が進むにつれ謎が解明されていくのはパズルのピースがあるべき場所にはまっていくようで心地よい。絵の具まみれも片方だけのスニーカーも水筒の中の泥も点火棒も助手席から飛び出したのも。めちゃくちゃ丁寧に真相を教えてくれるので感動すらしてしまった。

 

 

一方で、最後まで明らかにならなかった謎も残る。

作文には何と書かれていたのか。

教師が「間違っていない」と言うからには恋愛感情について書いてあったのだろうか。だとしたら一番肝心な部分であるそれをあえて見せない、というのは粋だと思う。

校長が孫を轢いたのかどうか。

この校長はかなり謎めいていて、序盤ではスーパーで駆け回る子供に足を引っ掛けて転倒させている、しかし周囲からは「この学校を愛している」と評されている、息子に対して楽器の指導をする*7。掘り下げが足りないだけなのか、容易に善悪には還元できない複雑さこそが人間の本質だと監督は描きたかったのか。担任教師の描き方もそうだが好意的に見れば「人物造形の深さ」、批判的に見れば「キャラクター設定の矛盾」、観客の解釈次第だろう。

ビル火災、出火の原因が失火か放火か判明しなかったけれど、あの子がつけたんじゃない、と俺は解釈した。

 

学校に噂好きな女性教師がいる。ガールズバーだかキャバクラだかに担任教師がハマっているとか(噂だからどっちなのか曖昧)、孫を轢いたのは祖父ではなく祖母である校長だとか、根拠なしにおもしろおかしく周囲に吹聴する。SNS社会の諷刺の意図か。この教師は本作でもっとも不快だったキャラクター。

 

学校も保守的だが児童たちも秘密主義。担任教師は児童たちに翻弄されたと言っていい。女子による密告、肝心の時に梯子外してきて何なの? と思った。あの不機嫌そうな美少女の存在は謎だ。

 

 

脚本、とてもよかったが絵もかなりよかった。暴風雨の中、泥で真っ黒に塗りつぶされた窓を外から擦って部分的に光が差す、あの明暗のショットは鳥肌が立つほど綺麗で、あのシーンを見るためだけにもう一回見に行ってもいいくらい。

 

台風が去ったあと、風と雨に心身を洗い流され、まるで「生まれ変わった」ように爽やかな笑顔を見せる2人、その2人が緑の中を駆けていくラストシーン、ものすごい解放感で、坂本龍一の音楽もよく、素晴らしかった。

 

決して軽いテーマではないけれど深刻ではなく、謎解きの好奇心を観客に喚起してストーリーに没入させ、最後は爽快に終わる。絵も音楽もいい。俺にとっては『誰も知らない』を超えて*8是枝監督のベストかもしれない。

 

見方によって物事の見え方は変わる。

人は自分が見たいものしか見ない。

この映画の登場人物たちがそうだったように。

そして観客も序盤は偏見で登場人物たちを見ていなかっただろうか。「この中の誰が怪物か?」と。

でも本当には、怪物なんていなかった。

人間だけがそこにいた。

 

「裸の恥知らずな真実。こいつはすばらしい文句だよ。だが、私らはいつもそのうわべだけを見て、本当の姿を見ようとはしない。おのおのの人間に自分なりの解釈があってね」

 

ロレンス・ダレルアレクサンドリア四重奏3 マウントオリーブ』

 

 

 

 

*1:諏訪市が舞台

*2:ではないのだが

*3:瀟酒な外観をしているので中で起きていることとの落差が余計にグロテスクに感じられる

*4:不倫していた

*5:その直後に助手席から飛び出す

*6:もちろん少女も

*7:重要なシーン

*8:すごい映画だとは思うけれど悲しすぎる