「闇の深い世界ですね、ナチの美術品取引というのは」──『ヒトラーの馬を奪還せよ 美術探偵、ナチ地下世界を往く』を読んだ

 

 

第二次世界大戦終盤、ベルリン攻防戦のさなかで破壊されたと思われていたナチスお抱え彫刻家ヨーゼフ・トーラックによるブロンズの馬(『闊歩する馬』)が闇市場で売りに出される。総統官邸に飾られ、ヒトラーがひときわ気に入っていた逸品だ。終戦から70年以上経った今になって突然出てくるなんて贋作としか思えない。しかし写真で見ると精巧で本物のように見える。このブロンズ像は贋作か本物か。万が一にも本物なら所有者は誰なのか。70年もの間どこに隠されていたのか。

…贋作か本物か、って本書の表紙が思いっきりネタバレしているが…。

 

ナチスは史上最大の大量殺戮を実行しただけでなく、かつて例のない最大規模の美術品窃盗もやってのけた。数えきれないほどの美術品が、アドルフ・ヒトラーおよび国家元帥ヘルマン・ゲーリングの命令で没収されている。ナチスは略奪品の一部を売却して戦争マシンの燃料に変えたが、残りはヒトラーゲーリングの個人コレクションに呑み込まれて姿を消した。何十万点という作品がそれきり行方がわからなくなっており、そのなかにはレンブラントゴッホの作品もある。ドイツ警察は二〇一二年、久しく失われていた一〇〇〇点を超す作品をミュンヘンのアパートメントで発見している。しかし、とくに人々を魅力してやまない貴重な美術品が、いまもひとつ*1行方不明のままだ。戦後七〇年経ってなお、狂信的なトレジャー・ハンターが湖をさらい、洞窟にもぐって、その「世界第八の不思議」を探し求めている。

終戦間際、迫るソ連軍から逃げながらゲーリングの部下たちが湖に彫像を沈めているところを付近の村の住人たちが目撃していた。この彫像は1990年に警察によって回収されている。アイヒマンの上官の甥は、「おじさん」がどこかの湖に貴重品を沈めたのは間違いない、それは「一族の秘密だった」と証言している。ナチに持ち去られ戦争の混乱の中で隠匿された貴重な財宝がまだどこにどれほどあるのか、見当もつかない。

 

著者は美術探偵。美術品コレクターが騙されて贋作をつかまされないよう助言したり美術品をめぐる紛争や盗難事件を解決したりするのが仕事。彼はある美術商からヒトラーの馬が闇市場で売られていると聞き調査を開始する。その過程で、かつて東西分裂時代に東ドイツの秘密警察シュタージが行っていたとんでもない外貨稼ぎが明らかになる。ソ連との癒着。西側諸国との取引。売れるものは何でも、誰にでも売る。ある人物が言うとおり「どんなイデオロギーを信奉していようと、それが共産主義でも資本主義でも、国民社会主義ナチズムであってもね、結局最後はお金」なのだ。

 

ナチ・グッズの蒐集家なんてのがいる驚き。世界は広いからそんな変人もいておかしくはないが、第三帝国のペナントや勲章やエヴァ・ブラウンが使っていた化粧品から、ナチお抱え芸術家による作品、ナチ高官が使っていたワルサーPPK、そして戦車まで所有している個人が実在するとは。もちろん公にできるコレクションではない。コレクションを人に見せびらかすという最大の楽しみを禁じられた蒐集家。これらの品の出所は親衛隊の元隊員の子や孫で、彼らの大半が現在は社会的地位の高い仕事についている。

「いまでは<シュタージ>のルートは干上がっているから、おもに元ナチ党員の一族ですね。戦後、そういう一族の多くは事業で成功して、設立した会社がドイツ有数の企業になっている例も少なくない。表向きは暗い過去から距離をとっていても、『ナチ党貴族』たちの結束はいまもゆるんでいません」

彼らはそんな品を持っていることを世の中に知られるわけには絶対にいかない。知られれば待っているのは社会的な死だ。かといって捨てるなんてとんでもない。捨てればタダだが売れば大金になる。それに彼らは父や祖父の遺産を「厄介払いはしたいが、譲るなら精神的な同族に譲りたい」と考えている。だから闇市場へ流す。闇が深い。

 

ネオナチ、元シュタージの美術エージェント、SS隊長ヒムラーの娘グドルン・ブルヴィッツ、田舎に隠棲するナチ・グッズ蒐集家など、本書の登場人物はキャラが立っている人ばかり。とりわけ存在感が強いのはグドルン・ブルヴィッツ。少女の彼女が後ろからヒムラーに抱かれている写真が本書に掲載されているが、その名を検索すると髪をおさげにして口元に両指をそえているあどけない少女の画像が、メガネをかけた老女の画像と混じって出てくる。この少女が、生涯にわたって父親を信奉しナチズムへの忠誠を捨てなかった人物だとは。この、ナチ残党の逃亡やネオナチの活動支援組織「シュティッレ・ヒルフェ(静かなる助力)」の「聖女」は2018年に88歳で死去している。

 

本書が提出する重要なテーマに、芸術に限らず、ある時代の文化を破壊することへの批判がある。忘れてしまいたい、消してしまいたい後ろ暗い歴史の証拠であったとしても、いやそうならば尚更、後世への物的証拠としてそれを残さねばならない。残して語り継がねばならない。

「歴史を消してはいかん。歴史を知らなきゃ現在を理解することはできんからな。大きな分厚い本を途中から読みだすようなもんだ。そして芸術は歴史の欠くべからざる一部なんだ。(略)ヒトラースターリンみたいな独裁者も芸術の持つただならぬ価値に気づいていたが、それはプロパガンダの手段としてだった。ちょっと考えてみてくれ、ナチや共産党の美術は、祖国のために身を捨てて戦う勇壮な男や、子供を育てる健康な女、あるいは畑や工場で働く労働者を描いているだろ。このヨーゼフ・トーラックの馬も発しているメッセージはおんなじだ。まるで戦場に向かって行進してるみたいじゃないか。こういうナチの作品が美術館に飾ってあれば、独裁者のなんたるかが実感できるはずだ。大英博物館ルーヴル美術館の目玉作品の中には、何千年も前にローマ皇帝やペルシア王の命令で作られた彫刻があるだろう。そういう皇帝や王たちだって、ヒトラースターリンに負けず劣らず血も涙もない暴君だった。いまから千年経ってもアドルフ・ヒトラーが忘れられることはないだろうが、どんな形ある証拠が残ってると思う?」

 

 わたしは共感を込めて頷いた。暴力にはぞっとするが、文化財の破壊にも同じぐらいぞっとする。それがどんな来歴に彩られていたとしてもだ。ヒトラースターリンなどの独裁者、そしてISISのような集団も、自分の思想にそぐわないものはすべて消し去ろうとする。スターリンなどは、写真にエアブラシをかけて、いっしょに写っていたかつての同志を消すようなことまでしている。たんに気に入らないというだけで処刑したうえにである。しかし、歴史を消し去るのはたやすいことではない。なにはさておき、歴史が不幸の長い連鎖でなくてなんだろう。戦争に継ぐ戦争、貧困、病に負傷。前の時代の不都合な部分を残らず消し去ったりすれば、あとにはほとんどなにも残るまい。この世界を少しでも理解したければ歴史を学ぶことだ。それが歴史の最大の価値なのである。トーラックの馬がもし戦争で破壊されずに残っていたとすれば、まともな歴史家ならそれをいま破壊すべきだなどとは言わないだろう。

 

ある時代の体験者、証言者はいつかいなくなってしまう。記憶が薄れれば歴史はまた繰り返される危険性が高い。人間は何でもすぐ忘れてしまうから。そういう時、過去の遺産は愚かな歴史を繰り返さないよう忠告する役割を担う。1914年に第一次世界大戦が始まったとき、ヨーロッパは戦争から50年遠ざかっていたために若者たちは戦争の現実を想像できず、徴兵はロマンチックな高揚と共に受け入れられ、彼らは「クリスマスまでには帰れる」との楽観的な気分で戦場へ向かったとされている。あるドイツの若者は、知人女性と街で顔を合わせたとき自分が軍服姿じゃないのを見られて恥ずかしかったと書き残している*2

 

東ドイツソ連および西側諸国との癒着、現在も続くドイツ政界とナチ残党の関係、闇市場での美術品取引の様子など驚きの連続で、面白すぎて3日ほどで読了した。内容のよさに加え著者(訳者)の文章がいい。明晰にして無駄がない。さらにユーモアもある。

 

 

 

*1:琥珀の間」を指す

*2:映像の世紀 第2集』