言葉の豊かさが人生の豊かさにつながる

春日武彦『不幸になりたがる人たち 増補新版』を読んだ。

 

挨拶しても無視する、満員電車で足を組んで平然としている、ちぐはぐな返答しかできない…など、世の中にいる「心の病気でもなければ奇人というほどでもなく、しかしどこか微妙に不協和音の混ざった生き方をしている人たち」を精神科医の視点から考察するエッセイ。

 

自分もたまに「この人はなぜこういう言動をするのだろう」と思う人に遭遇する。不愉快になったり気持ち悪く感じたりすると同時になぜか惹かれる。怖いもの見たさというか。彼らなりに理由があるのかもしれないし、何も考えていないのかもしれない。本書を読んでそういった人たちの解像度が増し、今後は以前より寛容になれそうな気がする。

 

この本に、1995年に足立区で起きた二人の女によるお粗末な誘拐事件の話が出てくる。小学2年生の女児が誘拐され、親の元に身代金要求の電話がかかってくる。子供を返してほしければ現金800万円を持ってある店に来い。電話にでた母親はその直後警察へ通報する。受け渡しの場所へ行くと犯人から接触があるが、母親は子供と引き換えでなければお金は渡せないと拒む。まさか拒まれると予想していなかった相手は狼狽して店を出て、その場ですぐ警察に逮捕された。

 

犯人は21歳と20歳の女二人だった。21歳の方が主犯a、もう一人は共犯者b。だが二人の関係は主犯・共犯というより親分・子分のような従属関係だった。幼なじみで、aが活発なのに対してbは内向的、生育環境もaが困難だったのに対してbは比較的裕福な家庭と正反対だった。いろいろあって二人は共同生活を送るようになる。暮らしは万引きで賄い、やがて金に困るとaはbにテレクラで売春させることを思いつく。bはaに言われるがままそれを行なった。売上の大半はaのものでbには僅かしか与えられなかった。まるで奴隷だ。不思議なことに、bは監禁されていたわけではないから逃げようと思えばいつでもaの元から逃げられたにも関わらずそうしなかった。著者によるbのパーソナリティ分析がとても興味深い。

 

 こういったことを前提とするなら、以下の二点を考えることが可能となる。すなわち、自分の気持ちや考えを首尾よく表現する語彙や言語能力を持てなかった者は、常に社会との間に違和を覚え、それが苛立ちとなってきわめて短絡的・直情的・衝動的な人間になる場合もあれば、むしろコミュニケーションの成立をあきらめ、それがためにひどく無気力かつ得体の知れぬ人物と周囲から思われるようになる場合もあるということ。もうひとつは、自己表現という文脈で自分の代理となってくれるような人物が見つかったとするなら、それがロック・スターであろうと詩人であろうと俳優であろうと教祖であろうと、あるいは知人であろうと、その人物へ強く思い入れをしたり、執着することが容易に予想されること。以上の二点である。

bもまたそういう人物だったのではないか。人生に対して投げやりになり、盲目的にaに従い、流されるようにして犯罪に手を染めたのではないか。

 

まあいずれにせよ、語彙が貧弱で表現能力が拙いことは不幸の中でもかなりグレードが高い筈である。

この指摘は胸に沁みる。なぜなら、人間は思考にも表現にも伝達にも言語を用いるからだ。語彙=言葉の手持ちが貧弱だったり伝える術を持たなかったら、何かを感じてもそれを具体化できない(自分で自分に伝えられない)し、自分にとって大事だと思うことを他人に伝えることもできない。常にそんな状態で生きていくとしたら人生はそうとうハードモードだろう。

 

言語を豊かにすることは人生の豊かさにつながる、自分は常々そう思っている。読書をする理由の一つでもある。

 

本を読まず動画ばかり見ていると語彙が話し言葉中心になる。雰囲気をふいんき、延々とを永遠となどと誤って覚えてしまう。意味は通じるし、本人が恥ずかしいと思わなければ生活する上で支障ないかもしれない。けれども書き言葉の豊かさというものがある。すぐれた小説や詩の表現に触れることで言語の領域が広がる。人間は感じるのも考えるのも伝えるのも言語を用いる。言語の領域を広げるほどに、感じ方、考え方、伝え方も広がる。言語の領域を拡張し語彙を豊かにすることで人生も豊かになるんじゃないかなあ、と俺は思う。

最近読んだ本(2026年2月) - 生存記録

 

その人の言語の限界がその人の世界の限界だと言った哲学者がいた。俺が言うのと同じ意味かどうかは知らないけれど、そうだったとすれば頷ける。

 

普通の文章もいいけれどたまに詩を読むとその言語表現の先鋭さに瞠目する。散文と詩、双方が密接に絡み合いながら日本語はその領域を拡張してきた。

 

かなしみの国に雪が降りつむ

かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ

失いつくしたものの上に雪が降りつむ

その山河の上に

そのうすきシャツの上に

そのみなし子のみだれたる頭髪の上に

四方の潮騒いよよ高く雪が降りつむ。

 

永瀬清子「降りつむ」

こういう詩を読むと圧倒されてしまう。平易な言葉を用いてこうも胸を打つ表現ができるのか、詩人ってすげえなあと感嘆する。

 

本を読んでいて、これまで自分がぼんやり思っていたことが、自分が思っていたよりも具体的にわかりやすく書かれているのに出会うことがある。この人はどうしてこんなに俺のことがわかるんだろう、この人に言われるまで自分でもわかっていなかったことなのに、とびっくりする。20代の頃、ある女性に片想いしていたのだけれど、その人はこっちの気持ちを知りながら翻弄するようなところがあって苦しんだ。そんなときミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んでいたら次の一節に出会った。

 

 媚態とはなにか? それは性的な接近が確実に生じるとは感じさせないものの、その可能性もないわけではないと示唆する振る舞いだと言っていいだろう。言葉を換えて言えば、媚態とは性交が保証されていない約束のことである。

これは河出版の西永訳。当時俺が読んだのは集英社版の千野訳だったので文章は違うけれど、相手の俺への態度をぴったりと言い当てているようだった。この文章のおかげで客観的になれ、相手と距離をとるようになった。俺の黒歴史(の一部)だ。でもこの文章に出会わなければもっと漆黒の黒歴史になっていたかもしれない。そう思うとゾッとする。クンデラは人生の恩人だ。

 

俺だってさして豊かな語彙を持ってるわけではないので他人にとやかく言える立場でもない。でも日常であまり不都合を感じることはないし、自分の(感情面の)人生がとりたてて貧しいとも思わない。これは読書を40年近く習慣として続けてきた効用じゃないかと思っている。

 

春日先生はこうも述べている。

 同じ言葉を使用していても、言葉には流行り廃りがある。世の風潮があり、それにふさわしい言葉が前景に立ち、我々の心はそうした言葉の連鎖が形作る鋳型へと容易に流し込まれる。「むかつく」とか「キレる」といった言葉が流行れば、我々の感受性や思考は自然にそうした言葉に寄り添うようになる。言葉の編み目では掬いきれない筈のデリケートな事象も、このような流行りの言葉に絡め取られて粗雑に語られることになる。目新しい言葉によって、模糊としていた気持ちに形が与えられたかのような錯覚がもたらされもする。それどころか、広く認知され肯定されたかのような錯覚すら生じる。そんな空気の中で、キレやすい子供はなおさらキレることを憚らなくなっていく。

 言葉と事象とは、互いにマッチポンプとして機能していくのである。だから汚らしい言葉や無神経な言葉、荒んだ言葉や幼稚な言葉が堂々と市民権を得て流通し、また若者たちの喋りが早口かつフラットでしかもボキャブラリーが貧弱きわまりないという事実は、とりもなおさずこの世相そのものが殺伐さと愚鈍さとを兼ね備えているということにほかならない。

 

言葉の豊かさが人生の豊かさにつながる。そう仮定するなら逆も言えるわけだ。言葉の貧しさが人生を貧しくすると。親本が書かれたのは90年代後半から2000年。でも春日先生のこの指摘は、SNSで人がしょうもない言葉を大量に垂れ流す現在さらに深刻の度を増しているように思う。