ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』を読んだ

 

エッセイ及び書評14編、短編小説2編を収録。

 

表題作は、病気はなぜ文学のテーマにならないのか、という魅力的な問いから始まる。文学にとっては常に精神が関心事で、肉体の苦痛については等閑視してきた。絶望や嫉妬や情熱といった感情を表現するために文学は多様な言葉を発明したが、頭痛や腹痛や悪寒といった病状に関しては貧しい言葉しか持たない。肉体は精神と比較すれば取るに足らないものと考えられてきたからだ。しかし病んでいるとき(ウルフが想定しているのはインフルエンザのような肉体的な病い)、人は健康なときとは別人になる。しんどいから上辺を取り繕うことをやめて正直になるし、自分以外の物事には無責任で無関心になる。病室の窓から外を眺めて、健康なときは見過ごしていたあれこれを発見する。健康なときには隠されていた別の世界、別の人生があることが、病むことによって明らかになる。

人間は長々とつづく道を手に手をとって歩き通すのではない。一人一人の道には原生林が、鳥の足跡さえもみられない雪の広野が横たわっているのだ。ここを私たちは一人で歩み、だからこそその道がより好きなのだ。つねに同情され、つねに同伴され、つねに理解されたら耐えがたいだろう。しかし、健康なときには、親切なふりをしなければならないし、努力──伝達し、文明化し、分かち合い、砂漠を耕し、原住民を教育し、昼間はともに働き、夜にはともに遊ぶ努力──はくり返されねばならないのだ。病気になると、こうしたふりは止む。

 

と、ここまでは論旨は明快なのだが途中で飽きてしまったのか、このあと急に、病気のときはどんな本を読むのが適しているか、という話になる。当初の「病気はなぜ文学のテーマにならないのか」という問いが解決しないまま消えてしまう。で、最後はマイナーな19世紀小説の内容を紹介して終わり。せっかく面白い問いから始まったのに、読み終えて、なんじゃこれは、と戸惑った。ウルフは病気を描いた作家としてプルーストを挙げているが、確かにプルーストも執拗に病気、というか病人の心理状態について『失われた時を求めて』に書いていたが、ヴィスコンティが映画化した『山猫』というイタリア小説も病気についてあれこれ書いていたような記憶がある。自分にとってはこの二作が病いを描いた小説。現代においてはウルフがこのエッセイを書いていた当時よりも病気や老化は文学のテーマになっているように思う。時代的な問題なのだろう。ウルフの時代には病気よりも戦争の方が現代的で切実なテーマだったのではないだろうか。

 

この表題作がそうであるように、本書収録のエッセイは読書をめぐるものが多い。本書のタイトルは「読書について」でもいいくらい。「伝記という芸術」「わが父レズリー・スティーヴン」「いかに読書すべきか?」「書評について」「『源氏物語』を読んで」「斜塔」はすべて読書がテーマになっている。「女性にとっての職業」「『オローラ・リー』」「空襲下で平和に思いを寄せる」などはフェミニズム的な内容。

 

とくによかったのは「いかに読書すべきか?」と「蛾の死」。前者は他人の物差しに囚われず自由に本を読めという読書指南。多くなるが引用する。

読書について他人に助言できることと言ったら、助言など求めないで、自分の本能にしたがい、自分の理性を発揮し、自分で結論に達することなのです。

 

ハムレット』は『リア王』よりすぐれた劇でしょうか? 誰もそんなことは言えません。一人一人が自分で決めなければならないのです。毛皮がたっぷりついたガウンを着込んでいようと、権威者を自分の書庫に入らせ、どう読むべきか、何を読むべきか、読んだ本をどう評価すべきかなどを連中に教えてもらうのは、書庫という聖域の息吹ともいうべき自由の精神を押しつぶしてしまうことです。私たちは他のいたるところで、法則や因習に縛られています──自分の書庫にはそんなものは要りません。

 

私たちの時間と共感を無駄に費やした本は、犯罪者ではないでしょうか? 本物ではない本、いかさまの本、大気を腐敗させ、不健全なものにする本の著者は、もっとも油断できない社会の敵、汚染者、冒涜者ではないでしょうか? ですから、厳しい判定を下しましょう。一つ一つの本を同種の中で最もすぐれたものと比べましょう。

 

私たちの内部には悪魔が住みついていて、それが「私は嫌いだ、好きだ」とささやくのですが、その声を黙らせることはできません。まさに私たちは憎み、愛するからこそ、詩人や小説家との関係が親密になるのですから、別の人間が入り込んでくるのは耐えられないのです。

 

 でも、どんなに望ましかろうと、ある目的を果たすために読書する人がいるでしょうか? それ自体が楽しいから、それを行うという楽しみは世の中にないのでしょうか? 目的そのものである楽しみというのはないのでしょうか? 読書はそうしたものの一つではないでしょうか? 少なくとも私は時として次のようなことを夢みるのです。最後の審判の日の朝がきて、偉大な征服者、法律家、政治家たちが彼らの報い──宝冠、月桂樹、不滅の大理石に永遠に刻まれた名前など──を受けにやってくるとき、神は、私たちが脇の下に本を挟んでやってくるのをご覧になって、使徒ペテロのほうに顔を向けられ、羨望の念をいくらかこめて、こう言われるでしょう、「さて、この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったのだから」。

 

神すら羨望する楽しみ、読書。凄いね。女子学校での講演らしいがノリノリという感じ。ややイノセンスに過ぎる読書礼賛のトーンには教育目的の意図も含んでいるだろう。読書について語りながら、本質的には精神の自由を保持することの重要性を訴えている。似たようなことは父レズリーを回想したエッセイにも書かれている。

好きなものを好きだから読み、感心しないものに感心したふりをしないこと──それが本の読み方について彼が教えたすべてだった。できるだけ少ない語数で、できるだけ明晰に、自分の意味するところを正確に書くこと──それがものを書く方法について彼が教えたすべてだった。その他のことはすべて自分で学ばねばならないのだ。

 

「わが父レズリー・スティーヴン」

ウルフによるとレズリーは女子の教育に不熱心だったという。それでも彼は自身の書庫を娘のために開放し、その場所をウルフは自身の学校にしたのだった。『灯台へ』にはこの父をモデルにした人物が登場する。

 

もう一つよかったと述べた「蛾の死」。執筆中にふと窓辺を見ると死にかけの蛾が目に留まる。少し飛んでは落下し、羽をパタパタさせ、また少し飛ぼうとして飛べず、もがき、やがて動かなくなる。死という絶対的な力への虚しい抵抗の試み。1942年発表のこの短いエッセイ、前年に彼女が自死していることを考えると遺稿だったのかな。

 

ウェイリー訳で『源氏物語』を読んで感服しつつも、紫式部は偉大だがセルバンテストルストイやその他西欧の偉大な物語作家と比較すると一段劣る、それは彼女の精神にアクションがないからだ、みたいなことを書いているのは面白い指摘だった。自分は紫式部トルストイも読んだことないけれど。『ドン・キホーテ』は『カラマーゾフの兄弟』と同じくらい最高だった。

 

『柳下毅一郎の特殊な本棚』を読んだ&DMMブックスアプリの操作性について

 

 

どこから見つけてきたんですか? と訊きたくなるような特殊な本ばかりを集めた書評集。大手出版社の本もいくらかは混ざっているが、大半は聞いたことのない中小出版社の本や海外の本、官公庁の出版物、さらには自費出版物が占める。本書を読んで世の中にはこんなに数多くの奇怪な本があるのかと、もちろん本書で紹介された本すら世界の出版物という砂浜においては一握の砂に過ぎないのだろうが、とにかく圧倒された。世界は広い。

 

事件記録、ノンフィクション、コミック、小説。それらは実際の殺人事件や殺人犯に関する本という点で共通している。『福島県犯罪史』(福島警察本部)や『長野県犯罪実話集 捕物秘話』(防犯信州社)や『珍しい裁判實話』(法令文化協會)なんて本、どこで見つけてくるのだろう。やっぱり神保町か? 本書で紹介されている古書を、仮に自分が神保町で買って読んだとしても楽しめるかどうか…。本書のユーモラスな書評の方が実物を読むより面白いんじゃないかと思ってしまう。書評だって技術であり創作である。だから実物より面白い書評が存在するのだし、そういう優れた書評だけを読みたい。

 

1冊目から凄い。Love Sick(恋わずらい)著『MY JODIE BOOK』。著者が1993年にサンフランシスコの雑貨屋で購入した自費出版物で、A4版100ページほどの両面コピーを綴じてあるだけの体裁。版元の名前がなく代わりにサンフランシスコの住所が書いてあるだけなので、恐らくは書いた(作った)人がコピーして売り歩いたのではないかとのこと。内容はタイトルの通りジョディ・フォスターに関するあらゆる雑誌記事のスクラップ。少女モデル時代から子役時代、さらには『告発の行方』や『羊たちの沈黙』の写真、雑誌インタビュー。合間には作者からジョディへの愛の告白が記されている。「きみがそんな振る舞いをすると頭がおかしくなっちゃう」。著者曰く「ストーカーのスクラップブックそのもの」。ジョディ・フォスターのストーカーといえばレーガン大統領暗殺未遂犯ジョン・ヒンクリーが有名だが、このスクラップブックにはヒンクリーの記事もスクラップされているという。なにそれこわい。ペンネームが恋わずらいってのも相当キてる。

 

海外の話題では、何人もの入居者を次々殺しては庭に埋めて何食わぬ顔で代理人として社会保障小切手を受け取っていた養護ホーム経営者や、ロマン・ポランスキーにレイプされた少女の自伝、J・G・バラードの『クラッシュ』の元ネタになった自動車事故が人体に及ぼす破壊的影響を研究した医学書などがとくに面白かった。「史上最低のミステリ作家」H・S・キーラーについては3章も割いている。日本だと昭和初期の事件記録が面白い。警察は科学捜査なんて最初からやる気がなくて、容疑者に暴行したり拷問したりして自白させるのが当たり前、人々はおおらかというか人権意識が希薄で、今と感覚が違い過ぎて凄惨な事件の話でも苦笑してしまう。たとえば火葬場で損壊した焼死体が見つかった事件。実はその死体は焼却担当者がベロベロに酔っ払って燃やしたご遺体で、適当に火を入れたから時間になっても半焼けのままだった。慌てた彼は燃え切った部分だけを切断して何食わぬ顔で遺族に骨を拾わせ、半焼けの遺体は後でもう一度焼こうと思ったが、日々の雑事に追われて燃やすのを忘れたまま放置してしまっていた…とか、すげえ。これまでもそれなりに書評集を読んできたと思うが、こんなに風変わりな本ばかりのは初めてだ。

 

というわけで本書の内容に関しては文句ないのだが、プラットフォームについて一言ある。本書は電子書籍版しか出ていないので、ちょうど50%ポイント還元セール中だったのもありDMMブックスで買った。これまで電子書籍Kindle一択だったが、いつか来るかもしれないサービス終了のリスクを分散する意図もあった。ところがアプリを使ってみて二つ問題があった。一つは、スマホだと目が疲れるからiPad miniで読んだのだが、文章にマーカーを引くと何秒かしてから消えてしまう。もう一つは、DMMブックスのアプリが重いのか、ダウンロードしてある本なのに読み込むのに時間がかかるときがある。この二点の不具合のせいで読書中ストレスを感じた。アプリが重いのは自分のiPad miniが古いせいか? 漫画に関してはKindleと大差なく不満はないが、文字の本に関してはDMMブックスは微妙。とくにマーカーが消えてしまうのは致命的だ。Paperwhiteが利用できるKindleの方が使い勝手がいい。E-inkがもっとサクサク表示できれば言うことないのだが…。いずれは他の電子書籍サービスも利用して更に比較してみるつもり。

映画『オールド』を見た

日曜とはいえ結構客の入りがよかった。70人くらい? シャマラン作品って人気あるんだ。自分は『ヴィジット』に感動したクチである。でもそのあと見た『ヴィレッジ』が退屈過ぎて、続けてシャマラン映画を見る気がなくなってしまった。『サイン』、あらすじを読む限りでは面白そうだけどどうなんだろう。『ヴィジット』の感動がなかったら『オールド』も見ようとは思わなかった。予告を見る限り惹かれるものがあまりなかったから。

 

冒頭、監督の挨拶があってテンション上がった。ストーリーについてはネタバレになるので詳細は書かないが、あまり怖さはない。設定も展開もガバガバで、SFというかファンタジーというか、『ヴィジット』のようなリアリティはない(それは予告の時点で予想できていた)。調べたら原作があるのだとか。時間とともに一人また一人と死んでいくが、不快感を煽るような変な死に方をする人がいるのは残念ポイント。心臓外科医が一番気味悪かった。彼が気にしていた映画って『ミズーリ・ブレイク』ってやつか? 検索したらそれっぽいがなぜこの映画を気にしていたのだろう。老化や死の恐怖に怯える人がいる一方で、それを自然のこととして受け入れ、感情を超越して理想的な死を迎える男女がいる。彼らが死ぬ夜の浜辺のシーンはすごいよかった。砂の城が波にさらわれやがて崩れていくように、徐々に崩れていく人間の意識と身体。

 

わりと早い段階で秘密のビーチが何者かに管理されているらしいことが明らかになる。でもその理由も管理者の素性も終盤までわからない。昨今のコロナウイルスワクチン開発に対するブラックユーモアと自分は受け取ったがどうだろうか。『ヴィレッジ』みたいな投げっぱなしではなく、きちんと物語にケリをつけて終わったのは意外だった。序盤の歌とか、名前と職業を覚える特技とか、きちんとその後回収されたのでスッキリした。ただ何もかもスッキリし過ぎているから却ってインパクトに欠けたようにも思える。今回はガッツリ監督が映っていて可笑しかった。成長した男の子が『ヘレディタリー/継承』の人だとはわかったが、女の子が『ジョジョ・ラビット』の人だったとは見ている最中は気付かなかった。中年になって海外の若い俳優の顔と名前が覚えられなくなっている。

 

私が引きこもりだった頃

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令和元年に起きた川崎の事件について書いていたら、20代の頃2年間引きこもっていたことを思い出したのでその件について記録として残しておく。もう20年近く前のことだから当時の記憶も薄れつつある。

 

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引きこもった原因はよくわからない、というか忘れてしまった。他人と関わるのが嫌になったのかな。就職した会社は世田谷にあった。年休90日もないのに手取り14万、厚生年金に加入しておらず、サービス残業ありのやりがい搾取的ブラック企業だった。一年ほど勤めて退職した。親に黙って辞めたので実家に戻りづらく、そのまま世田谷区内のアパートに残って交通警備のバイトで食い繋いだ。社員だったときよりバイトの方が食えた。

 

一年後、アパートの更新時期になったのを機に実家へ戻った。今は売却してしまってないが、当時我が家には別荘というか別宅があり、普段は無人だったからそこに引きこもった。車がないと不便な場所だったので父の2台あった車のうち1台を使わせてもらい、食費や娯楽費は働いていたときの貯金を切り崩して捻出した。水道光熱費は親が払った。その家で昼夜逆転のサイクルで、テレビを見たり、ゲームしたり、読書して過ごした。新潮文庫の太宰、芥川、漱石ドストエフスキーはこの時期にほとんど読んだ。『罪と罰』のラスコーリニコフに憧れた。自分も彼のように、法を犯しても通したい信念があればと思った。他には庭の水まき、洗車、使うスペースのみ掃除。引きこもりニートらしく(?)深夜の散歩もたまにした。日付が変わる頃、20分くらいかけて最寄りのセブンイレブンまで歩いて行き、店先で缶コーヒーを飲み、タバコを吸い、帰りは途中にある川の真っ暗な面を橋の上から眺めた。髪は後ろで結べるくらいまで伸びたタイミングで自分で切った。早朝、新聞配達のバイク音がする頃眠りにつき、昼前に起きる、そんな毎日を二年間繰り返した。

 

あれからもう20年近く経つ。今こうして思い出してみるとその穀潰しっぷりに我ながらおぞましさを覚える。両親が週に一度来て庭の手入れや部屋の掃除をした。会えば普通に話したし、弟には威張っていたが、ほかの交友関係は一切なかった。孤独だったのだろうが、若かったせいかそれを苦しいとも寂しいとも感じなかった。むしろ気楽で気ままで心地よかった。中年の今のように人としばらく接しないと言葉に詰まるとか適切な言葉が出ないとかいうこともなかった。まだ若かったから健康で、頭もしっかりしていた。今もう一度あの暮らしを二年送れと言われたら…どうだろう、途中で退屈になり苦痛を覚えて嫌になるかもしれない。金が山ほどある高等遊民ならば夢のようだけれど、金のない引きこもり生活では…縛りゲーだ。体は疲れるがメンタルはやられることなく、給料が世間並にもらえて人間関係も悪くない(特別良好でもない)、一応大企業と言っていい会社で、平日は労働に勤しみ、土日は休む、今のサイクルに体が慣れているからというのもあるだろうが、歳をとるごとに自分が一人遊びを楽しむスキル(教養)の欠如した空虚な人間であることを自覚して、一人家の中で過ごすのをきつく感じる。コロナ禍でステイホームが推奨されたここ一年でそのことがよくわかった。出かけたり人と接しないと気が滅入ってくるのだ。今の自分はもしかしたら引きこもっていた20代の頃の自分とはまったく違う人間になってしまっているのかもしれない。

 

何がきっかけで引きこもりを脱したのだったか。当時ニュースで引きこもり特集みたいなのをよくやっていて、自分よりも先輩の方々の姿を見るにつれ、自分はマシな方だと安堵する一方で、俺もこのままだといずれ取り返しがつかなくなるかもしれないという恐怖を覚えた。父はうるさいことを何も言わなかったが、母とは何度か揉めた記憶がある。情けないとかなんとか、まあ母親が言いそうなことを大概言われた。あの頃まだ母は元気で、元気な頃の母と自分は仲が悪かった。結局反論しようが何言おうが、親の厄介になっている以上こちらの意見など戯言として一蹴されてしまう。当然である。引きこもりニートをやるなら親との関係は良好を維持しないといけない。自分にはそれが難しかった。

 

で、社会復帰して転職を繰り返しながら(最短3ヶ月で正社員を辞めたことあり)運よく今の会社に拾われ、大企業の正社員という待遇を得ることができた。本当に運だけである。そういう今があるからこうして振り返る余裕があるのであって、もし社会復帰せずあのままずっとあの家で暮らしていたらまた別の人生を送っただろう。いや、いずれ金が尽きて生活できなくなったはずで、そうしたら自宅に戻って、でも両親に小遣いをせびるという発想はなかったから、どのみちいつかは抜け出したのかな。

 

当時は両親と顔を合わすたびに申し訳なさや気まずさを感じた。でもぐずぐずしていた。現実も将来も直視せず、嫌なことから目を逸らし、気まずさをやり過ごすことだけを考えていた。自分は大人しい引きこもりだった。人からいじめられた経験もなく、世の中を恨む気持ちもなく、ただ何もしたくない、他人と関わりたくないからそうしている怠惰で無気力な人間だった。日本には15歳から39歳までの引きこもりが51万人、41歳から64歳までの引きこもりが61万人いるという。この数字は氷山の一角で実際はもっと多いのだろう。その中の一人が、例えば川崎のような凶悪な事件を起こすと、まるで引きこもり全員が犯罪者予備軍であるかのように報道される。実際、川崎の事件のあと引きこもりの子を持つ親から相談機関への問い合わせが急増したという。だが、自分がそうだったから思うのだが、引きこもっている人の大半は、ちょっと気が弱かったり、周囲の顔色を窺い過ぎてしまったり、疲れやすかったり、したいことが見つからなかったり、出ていくきっかけが掴めかったりでなんとなくそうしている、おとなしい人たちなんじゃないかな。

 

今自分は、多少は余裕のある暮らしを送れている。だから過去を振り返って引きこもりを脱してよかったと思う。でも脱してから10年は道草のような時間を送ったのも確かで、その10年の間にもし躓いていたら、やっぱり部屋から出ずに引きこもっていた方がよかったと思ったかもしれない。結果論でしか人は過去を語れない。

 

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磯部涼『令和元年のテロリズム』を読んだ

 

 

令和元年に起きた三つの事件、川崎登戸通り魔事件、元農水事務次官長男殺害事件、京都アニメーション放火殺人事件をテロリズムと分類して現代日本社会を分析する。東池袋自動車暴走死傷事故、常磐道煽り運転事件も少しだけ出てくる。どれも発生時に世間を騒がせ、自分もテレビの報道やネットのニュースを熱心に見た事件事故ばかり。これらが揃って令和元年に起きていたなんて、もう忘れていた(東池袋の事故は改元前の平成31年4月19日発生だが)。なおwikipediaでは当該事件および事故の関係者名は伏せられているが本書ではすべて実名で書かれている。

 

三つの事件がなぜテロなのか。テロリズムの定義については様々な見解があるが、大筋の部分では、

①目的として何らかの「政治的な動機」を持つ

②目的達成の手段としてより多くの聴衆に対する「恐怖の拡散」を狙っている

③そのために「違法な暴力あるいは暴力による威嚇」利用する

川崎の事件は「引きこもり」「高齢化社会」「7040/8050問題」といった政治的問題を社会に突きつけた点で、元農水省事務次官の長男の事件は「自分を受け入れようとしない社会の破壊」という意味で広義のテロではないかと著者は述べている。ちょっと苦しくないか。京アニの事件については何としていたか、忘れた。

 

自分は二十代の半ばに二年ほど引きこもりの時期があった。だから三つの事件のうちとくに川崎の事件に発生時から関心を抱いて推移を見ていた。他人事ではないと思った。犯人は20年近く叔父夫婦の家に引きこもっていたという。事件後、警察が家宅捜索で入った部屋は物が少なく整然としており、見つかったノートはほとんど意味不明な内容で、飲食店等のポイントカードや会員証は一切なかった。パソコンも携帯電話も所持していなかった(住んでいた家はネット回線が開通していなかった)。外出は時々深夜に近所のコンビニへ出かけるだけ。同居していながらずっと叔父夫婦と顔を合わせていなかったから、彼らは事件後に警察が示した写真を見ても本人だと判断できなかったという。交友関係も不明で、写真は中学校の卒業アルバム掲載以降のものは見つからなかった。捜査関係者は「人柄が全くと言っていいほど見えてこない。本当に実在したのかと思うくらいだ」と洩らしたという。ネットのない環境で、テレビを見、テレビゲームをし、コンビニで食事を買うくらいしか社会と接点のない生活を20年間も。どんな気持ちで毎日を送っていたのだろう。そしてなぜ事件を思い立ったのだろう。

 

この事件を語るキーワードは二つ。「7040/8050問題」と「一人で死ね」だ。前者は平成期の政治の特徴であった「先延ばし」の結果と著者は見る。後者は平成期から定着した自己責任論の延長線上の思想だろう。苦しんでいる人間に「一人で死ね」とは、恵まれた境遇の人間による上から目線もいいところだ。発言者はこういうことを言えること自体が恵まれているという自覚もないのだろう。自己責任の裏返し、今日の自分があるのはすべて才能と努力の賜物とでも? そのスタートラインにすら立てない人間がいることなど思いもよらない想像力の欠如。運次第でいつ「一人で死ね」と言う側から言われる側になるか、あるいはなっていたか、わかったもんじゃないのに。彼らは、本書で引用されている社会活動家の、「自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない」に何と反論するのだろう。もちろん犯人は絶対に許されないことをしたが、それにしても「一人で死ね」とは、現代日本社会の冷たさや他罰性を明らかにしたと思う。そういう社会の風潮がこういう悲惨な事件を生んだ/今後も生む可能性は? いやそう思うのは個人の自由だが、それを影響力のある人間が公共の電波で発信する見識が、自分にはちょっと理解できない。

 

川崎の事件は犯人の自殺により真相は不明のままで、本書を読んでも自分がネット等で知った以上の知見は得られなかった。しかし続く元農水事務次官長男殺害事件は知らなかったことが色々書いてあった。この事件は、自己責任論や「一人で死ね」がまさしく現実化したような事件だろう。発生も川崎の事件から間もない。犯人は東大卒の官僚で妻は秩父の資産家の娘、だが練馬区の自宅は上級国民が住んでいそうなお屋敷ではなくごく一般的な外観。周囲も高級住宅街という感じではない。被害者は大学進学から事件の一週間前までずっと一人暮らしをしており実家に引きこもっていたわけではない。病を患っていた。Twitterのアカウントが特定されていて、たびたび他人とトラブルを起こしながら、事務次官の息子であることを自身のアイデンティティーにしていた。自分の人生で、生まれ以上に誇れる実績がなかったのだろうか。事件が起きる一週間前に実家に戻り、両親に暴力を振るい、川崎の事件を連想させるようなことを言ったため、恐怖を感じた父親により殺害された。本書を読む限りでは犯人の供述にはおかしな点がいくつかある。裁判では正当防衛だったとして無罪を主張したものの懲役六年の実刑判決を受けている。この事件の被害者は、川崎の事件と違い人柄を伝えるものを多く残している。オンラインゲームを通じての交友関係もあった。親から毎月小遣いをもらっていたとはいえずっと一人暮らしをしていたのだから、ちょっと引きこもりと違うような気もするのだがどうなのだろう。また、川崎の犯人の場合通院歴がないからなんとも言えないが、この事件の被害者の場合病気の影響で人生がうまくいかなかった面も多分にあるように、本書を読んだ限りでは見受けられた。

 

京都アニメーション放火殺人事件の犯人は複雑な家庭環境で育ち、成人してからも仕事や交友関係がうまくいかず、近所の住民とトラブルを起こしたり、犯罪を犯して実刑判決を受けている。川崎のケースとは逆にアパートの部屋は乱雑で、物が壊されたりしていたという。この犯人の場合はまだ供述がないから動機等を軽々に論じるのは避けるべきだろうが、もちろん彼のしたことは絶対許されないことであるのは言うまでもない前提として、搬送された病院で担当看護師に、人にこんなに優しくされたのは初めてだ、と言ったというのを聞くと、やりきれない気持ちになる。こうなる前に何とかならなかったのか、と。

 

川崎の事件の犯人も、元農水省事務次官による事件の被害者も、京アニ事件の犯人も、みな複雑な家庭環境で育っている点で共通している。むろん同じように辛い家庭環境で育ち立派に生きている人が大多数で、だから問題を家庭環境だけのせいにするわけにはいかないが、それにしても、過酷だな、と思う。川崎の事件の犯人は当時50代だったが、残り二つの事件の被害者、犯人はともに40代の氷河期世代で、自分と同世代である。狭いながら周囲を見て、同世代間での格差がかなり激しい世代じゃないかと思っているがどうだろうか。

 

 

最後に、本書のマイナス点について。元農水省事務次官による事件の章で被害者のTwitterでの発言を引用して羅列するのは安っぽく、また煩わしかった。このあたりはもっと読みやすくまとめる工夫が欲しかった。多数掲載されている写真は内容と無関係なものが多く、女性のヌードとか選んだ意図がわからない。写真自体いいと思えないものが大半で、不要だったと思う。載せるならもっと適切でいい写真を載せるべき。

 

映画『孤狼の血LEVEL2』を楽しみ、映画泥棒に遭遇する

ユナイテッド・シネマ入間12:00からの回で鑑賞。観客は30人弱程度。前作が面白かったので続編の公開を楽しみにしていた。端的な感想としてはかなり面白かった。見る前は松坂桃李の前作からの豹変ぶりを楽しみにしていたが、実際に見たら鈴木亮平が完全に主役を食っているように思えた。やってることがめちゃくちゃで、ヤクザというより猟奇殺人鬼かテロリストだった。「何もかもぶっ壊れりゃええんじゃ」とか暴力の行使そのものが目的になってしまっていて、エンタメとしては面白いんだけどやり過ぎの感なきにしもあらず。彼の存在も恐ろしいが、警察組織の陰湿さも怖い。ラストの、カーチェイスからのタイマンは熱い。松坂桃李は確か大学の空手部出身という設定だったと思うが、負傷の上に両手が塞がっている状態ではさすがに立ち回りにキレがない。死神なんていない云々という台詞に、『チェンソーマン』の「必要な悪には国家が首輪を付けている」という台詞を連想したり。最後の銃撃、三発目だったか、不自由な両手で狙いすます仕草がかっこよかった。

 

鈴木亮平が凄すぎたのであって、松坂桃李もよかったし、滝藤賢一も前作とはキャラが変わっていて面白かった。逆にベテラン勢の演技はイマイチ迫力がなかった。平成三年の広島が舞台なのにあまりその雰囲気がなかったのは物足りなかった。コロナ禍によりロケに色々制約があったのかな。あとこれはかなり残念だったのだが、全体的に音が小さく何度か台詞が聞き取れなかった。自分の耳が悪いだけか? 最後の山狩りは蛇足。ニホンオオカミを見たという通報に、オオカミはとっくの昔に絶滅した、でももしかしたらまだどこかに生き残りがおるかもなあ、とか言って役所広司の形見のライターでタバコに火を点ける、みたいなありきたりな終わり方でよかった。とはいえいい映画であるのは間違いなく、見終わって満足。今年は『すばらしき世界』『あのこは貴族』『ドライブ・マイ・カー』と邦画の当たり年。逆に洋画は『プラットフォーム』くらいしかいいと思えたのがなく不作気味。

 

で、今日人生で初めて映画泥棒に遭遇した。ユナイテッド・シネマ入間シアター4のC1とC3の二人組。映画が始まるとやたらスマホを光らせて、C1のたぶん男が何度もシアターを出たり入ったり。初めトイレかと気にしなかったが、繰り返すうち何やってんだと。チェーンを付けているらしく出入りするたびに金属音がして目立つ。やがて上映から30分くらい経ったら出て行ったきり戻ってこなくなり。それきり忘れてまた映画に集中していた。残った方はたまにスマホを光らせて、正直上映中こんなに頻繁にスマホをいじる客自体初めて見たので若干ムカついたが、ずっといじっているわけでもないのでなるべく気にしないようにしていた。すると終盤のカチコミのシーンくらいで出て行った男がまた戻ってきて、スマホいじり始めて、松坂桃李が警察を脱走するシーンで二回カメラのフラッシュが点滅した。どっちが撮ったのかは知らん。それを見て、あーこいつら客じゃなかったのか、つーか映画泥棒って実在するんだ、と。どんな顔してるのか、上映終了後明るくなったら確認しようと思ってたのにエンドロールでさっさと退出してしまった。金払って途中退席とか、スマホいじりとか、コロナ禍の中わざわざ映画館に出向くくらいなんだから映画が好きなんじゃねーのかと思うんだがなんなんだろ。真っ暗な中スマホで撮影したってろくな写真撮れないだろうに、そんなもんが何の役に立つのやら。

 

今日の上映は、クライマックスのシーンでおっさんがスマホ光らせたり、何度もスマートウォッチ光らせる奴がいたり(そのくせエンドロールで退出していくときは前傾姿勢でまだいる客の邪魔にならないように出て行った。気を使うとこそこじゃねーだろ)、行儀のよくない客が多かった。30人程度でこれって割合的にかなり高いのでは? 新宿や渋谷など都心部の映画館でブロックバスター映画を見るとスマホいじる客は珍しくないというが、ここ埼玉県入間市だからなあ…。以前ここで『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見たときは観客全員行儀よくてびっくりしたものだが、客層が違いすぎるか。『ヤクザと家族』は客層普通だった。『アウトレイジ最終章』の時はどんなだったか…もう忘れた。だから今回は忘れないように記録として残しておく。映画がよかっただけになおのこと残念というかムカつくというか、もやる気持ちが残る。

 

しかし昨日以下のエントリを読んで執筆者の感性を怖く思ったのだが、もしかすると自分もまた神経質過ぎる変な客なんじゃ…俺がおかしいだけでは…という気もしてくる。俺に映画館は向いていないのかもしれぬ。

 

映画館は危険だわ

怖いよ。

2021/08/27 15:37

 

映画『ドライブ・マイ・カー』を見た

カンヌで脚本賞を獲ったと話題の本作を見る前に、濱口竜介監督の予習のつもりでアマプラで『寝ても覚めても』を視聴したら思いのほか気味の悪いいい映画だった。

寝ても覚めても』はアバンタイトルのいちゃつきにゲッとなるけれど、もう少し我慢して見ているとだんだん不穏さが満ちてくる。終盤は悪夢。でもユーモアにも満ちている。 

 

で、『ドライブ・マイ・カー』である。三時間の長編である。感想としては素晴らしかった。辛い過去、消せない記憶、喪失感や諦念や自罰感情。生きていることは苦しいことの連続だけど、それでもそれらを背負って今日を生きていこう。生き抜こう。そんなメッセージを自分はこの映画から受け取った。

 

チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」が重要なモチーフとなる。西島秀俊演じる主人公の俳優・演出家は、広島で開催される演劇祭でこの劇の上演を担当することになる。彼は、「チェーホフは恐ろしい。彼のテキストは演じる者を飲み込んでしまう」と言い、チェーホフのテキストの持つ魔力と格闘することに疲労と恐怖を感じており、今度の演劇祭では主役のワーニャは演じず、演出家としてのみの参加となる。代わりに主役のワーニャを演じることになるのが岡田将生演じる若い俳優。彼は、演出家の妻が脚本を書いたテレビドラマに出演したことがあり、それが縁で彼女と知り合った。彼女に恋をしている様子。この俳優役の岡田将生が素晴らしくハマっていた。一見優等生的な美男子なのに、どうも危険というかヤバそうというか、内に何か凶暴なものを秘めていそうな不気味な男をいい感じに演じていた。こういう役合うなあ。

 

「ワーニャ伯父さん」に出演する俳優たちの国籍は様々。日本人はもちろん、韓国、中国(アメリカ在住だったかな)、ロシア。そして言語も様々。この俳優たちの中で一際輝いていたのが手話の韓国人女優だった。演出家が審査するオーディションの最後に彼女は登場する。演じるのは「ワーニャ伯父さん」のラストシーン。失意に沈むワーニャを手話で慰める(セリフは韓国人コーディネーターが日本語で読み上げる)彼女の演技を見ていたら、不意に涙が出てきた。このシーンの、彼女が演じるソーニャという人物のセリフは哀切極まるもので、労るような傷ついたような表情で、腕の動きを用いて、声以外の方法で言葉を、思いを、一所懸命に相手に伝えようとする姿に、これが映画であることを忘れて、ああなんて美しいのだろうと胸がいっぱいになってしまった。この女優はとても存在感があった。有名な人なのかな。

ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。

 

(本作で使用されている浦雅春訳。光文社古典新訳文庫『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』)

 

様々な国籍の人たち、様々な言語の俳優たちが共同で「ワーニャ伯父さん」という劇を作り上げる。そのメンバーには上記の女優のようにハンディのある人もいる。ここに自分は、昨今の分断だとか断絶だとか、そういう人と人との対立に対して「否」をつきつける監督の意図を見たように思った。対立ではなく宥和を。これは今年見た岨手由貴子監督の映画『あのこは貴族』にもあったテーマである(こちらではもっと直截にセリフで語られた)。同時に、ラストシーンのソーニャのセリフは、コロナ禍や自然災害をはじめとする災厄に見舞われたとしても、それを乗り越えて生きていこうという呼びかけと受け取った。

 

演出家と妻はかつて幼い娘を亡くした過去を持つ。冒頭、妻はセックスの最中にまるでトランス状態になったかのように饒舌に「降りてきた」物語を語り始める。娘の死という喪失を乗り越えて生きるために、彼女は物語を必要としたのだろう。セックスの最中にのみ物語が「降りてくる」というのは一見奇妙なように見えて意味深だ。セックスによるオーガズムとは生の陶酔、だからこそその最中にのみ、生きるための物語を語ることが可能になる。予告動画でも使われている、「帰ってきたら話がある」という思いつめたような妻の言葉。彼女はあの夜、夫に何を言おうとしたのだろう。予想することはできるけれど何が本当かは彼女が死んでしまった後では永遠に謎のままだ。演出家は若い俳優に、自分は妻を愛していたと言い、彼女もまた彼を愛していると言ってくれたと言う。でもどうしても覗き込めない真っ黒い穴のような場所が彼女にはあった、と続ける。どんなに愛する相手であっても、他人のことは絶対にわからない。せいぜいが信じることしかできない。なぜなら他人だから。人と人との間にあるこの断絶について、語られなかった「物語の続き」を媒介にしながら問答し合う夜の車内のシーンは、岡田将生の鬼気迫る演技と「物語の続き」の怖さが相俟って見応えがあった。プルーストの「逃げ去る女」を連想したりもした。でも他人のことが絶対にわからない、というのは絶望であると同時に希望でもある。最初から何もかもわかるならそこには自分も他人もない。わからないからこそ、人は他人をわかろうと努力する。コミュニケーションする。この、車内で男二人が問答し合うシーンもまた、本作の宥和というテーマと関わっているようでもある。

 

三時間と長いがテンポがいいので見ている最中はあまり時間を感じない。ちょっと稽古のシーンがだれるくらい。何年ぶりかで見ている最中トイレに立ってしまったが…。『寝ても覚めても』のようなユーモアはあまりなかった。ロケーションが素晴らしく、それを撮影した画も見ていて飽きない。舞台は広島。瀬戸内海が目の前に見える宿や、いい塩梅に栄えた地方都市の風景。海辺の国道をひた走る真っ赤なサーブ。小物としてのタバコがいい味を出している。あんなに格好いい画を見ると、影響されて夜のドライブに出かけたくなる。夏の終わり、好きな音楽をかけながら夕暮れの高速を当てもなくひたすら走って、夜になったらSAに入って、ベンチでコーヒーを飲みながら通り過ぎる知らない人たちをぼんやり眺めて…。まあ実際には仕事から帰宅したら即ビールを飲んでしまうから夜のドライブなんて平日にはできないけど。それにしても広島から北海道まで、途中フェリーも利用するとはいえ車で行くのにはびっくりした。無表情なドライバーが最後の最後で見せた笑顔は、彼女もまた悲しみや怒りや自罰感情を乗り越えて生きていくことを示していたのだろう。いい笑顔だった。ラストは観客がそれぞれ好きなように想像できる開かれたエンディング。三浦透子さんが『天気の子』で「グランドエスケープ」を歌っていた人だったとは見終わってから知った。

 

本作は『あのこは貴族』と並んで現時点で今年のベスト。劇場でもう一度見られたら見たい。

 

 チェーホフの戯曲は有名な四篇すべて一度読んでいるけれど「桜の園」以外昔過ぎて内容を覚えていない。「桜の園」が悲劇じゃなく喜劇だと言うのがチェーホフのセンス。短編小説では「大学生」「すぐり」がよかった記憶がある。