仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』を読んだ

 

 本書は政治哲学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』と『エルサレムアイヒマン』から全体主義発生のメカニズムと「悪の凡庸さ」について考察する。アーレントユダヤ中産階級の出身で、ナチスによって収容所に投獄された経験を持つ。

この二作を通じてアーレントが指摘したかったのは、ヒトラーアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め、吸い寄せられていく──その過程を、アーレント全体主義の起原として重視しました。

 

全体主義とは何か。定義は複数あるようだが本書で扱う意味としては、

アメリカをはじめとする西側諸国は、自分たちとは異なる体制──近代的自由主義の成果を否定し、諸個人を大きな共同体としての国家に完全に組み込み、自分のためではなく、国家という共同体のために生きるよう教育することを当然視する体制──の異様さを表現する言葉として「全体主義」を使うようになりました。

個人が国家のために奉仕する、一体化する、大体そんなような認識でいいかと思う。アーレントによれば、全体主義はごく一部のエリートが主導して政治を動かす独裁体制とは異なり、生きていくことに緊張や不安を感じた大衆が、積極的に共同体と一体化することを望むことで生じる。そしてこの体制は「大衆の願望を吸い上げる形で拡大」していく。アーレント全体主義の分析対象とするのはナチスである。そして悪の分析対象はホロコーストである。

 

19世紀、西欧は絶対君主制から国民国家へと政治体制が移行した。ナポレオン戦争により西欧の各国にそれまで希薄だった「国民意識」が芽生え、共同体に強い連帯感が生まれた。ドイツにおいては、

 フランスという強い「敵」に遭遇することで覚醒した国民意識は、国民国家形成の原動力となりました。しかし、「敵」との相違が育んだ仲間意識は、それを維持・強化するために、つねに新たな「敵」を必要とします。身近にいる誰かを、自分たちとは違うものとして仲間外れにしないと、自分たちのアイデンティティの輪郭を確認できないからです。

ドイツ国民連帯のための敵として選ばれたのがユダヤ人だった。もともと故郷を持たないユダヤ人は西欧の長い歴史の中で「異分子」と扱われてきた存在だった。彼らの中には金融財閥を築いたり、宮廷に仕えて国家の運営を担うようなエリートたちがいた。その代表ともいうべき存在がロスチャイルド家で、彼らのような富裕な権力者の存在感が増すにつれ、経済的に恵まれない非ユダヤ系ヨーロッパ人たちは、ユダヤ人たちが秘密結社を組織して政治や経済を影で動かしていると妄想して敵意を募らせていった。社会の中で目立っているのはごく一部のユダヤ人でしかないのに、敵意に凝り固まった人間は悪いイメージをすべてのユダヤ人に適用して憎悪や妬みを増幅させていく。その顕著な例が──『失われた時を求めて』中盤の重要なテーマの一つとなる──「ドレフュス事件」だった。

 

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 アーレントの記述から確実に言えることは、国家を同質的なものにしようとすると、どうしても何かを排除するというメカニズムが働くということです。社会の大多数は自分の今の境遇や考え方に共感してくれるような人たちで、自分にとっての敵は、ごく少数の特殊なグループである。そいつらさえどうにかなってくれたら──。そう思うことができれば、不安な気持ちが少し落ち着いてくる、ということはあるでしょう。アーレントより一世代前のドイツの法学者、カール・シュミットは、「政治の本質は、敵と味方を分けることだ」と言っています。それは現代においても同様です。 

敵国の侵略に対抗するために芽生えた国民の連帯感は、内部の異分子たるユダヤ人を排除することでより堅固なものとなる。政治体制が君主制から資本主義へ移行する時代。更なる経済発展のためには版図を拡大する必要がある。そこで登場したのが帝国主義である。植民地政策は、人間は支配する人種と支配される人種に分かれるという意識(優生学的人種意識)を人々に植え付けた。やがて領土をめぐって世界大戦が勃発する。これに敗れたドイツは領土の多くを失い、多額の賠償金支払い義務を負った。さらに世界恐慌が起こり経済状況は破綻寸前。不安と恐怖に晒された大衆は、安心してすがることのできる世界観と、強いリーダーを希求するようになる。

 ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。

ナチスドイツ国民に提示した世界観、それが反ユダヤ主義だった。NHKスペシャル映像の世紀』第4集「ヒトラーの野望」では、ナチスには「心を揺さぶる何か圧倒的なものがありました」というヒトラー・ユーゲント団員の手記が引用される。当時の疲弊していたドイツ国民は、ナチスが再起の希望を与えてくれると錯覚した。しかし上記団員の父親は熱狂する彼女に、「連中の言うことを信じるな。連中は狼だ。ナチスドイツ国民を恐ろしい形で誘惑しているのだ」と忠告する。むろんその忠告は興奮した彼女をはじめナチスに魅了された多くの人々には届かない。熱狂と興奮は全体主義を支える大衆の心理状態として特徴的なものだろう。大衆に支持されたナチスはやがて優生学的人種思想に基づきホロコーストを実行することになる。

 

 

ホロコーストという悪。本書によると一般のドイツ人たちはその事実を終戦後に初めて知ったという。1935年にニュルンベルク法が制定されて以降、ユダヤ人たちが徐々に一般のドイツ人たちの前から姿を消していくにつれ、彼らの行く末など誰も案じなくなった。彼らは自分たちとは異なる存在、だから関心もない、余計なことに首を突っ込まない方が身のためだ──心理としてはそんなところだろうか。第二次世界大戦の盛期、ユダヤ人絶滅という「最終解決」の責任者として多くのユダヤ人を絶滅収容所ガス室へと送る指揮をとったのが、ナチス親衛隊の幹部だったアドルフ・アイヒマンである。彼は終戦後アルゼンチンに逃亡して家族とともに偽名で暮らしていたが、1960年、潜伏していたイスラエル諜報機関モサドによって拘束され、翌年エルサレムの法廷で裁判にかけられる。当時アメリカに亡命していたアーレントは志願して特派員となりエルサレムに赴いて裁判を傍聴した。この傍聴記録が『エルサレムアイヒマン』である。

 

何百万とも言われるユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマンとはどんな人物だったのか。凶暴で残忍な性格の異常者なのか。事実は違った。彼はドイツの平凡な中流家庭に生まれ、地味な学生生活を送り、卒業後は鉱山や石油会社に勤務した、履歴としては特筆すべきところのない、ありふれたドイツの一男性だった。そんな普通の人が、どうして歴史上例を見ないような大虐殺を平然と実行し得たのか。彼がナチスに入党したのは政権をとる直前の1932年。党の公安部としてユダヤ人団体と接触するうちにユダヤ人問題の専門家としての評価が党内で高まり、昇進を重ねて幹部に、そしてホロコーストの責任者の一人となる。彼がホロコーストの指揮をとったのは個人的にユダヤ人に対して恨みがあったとか、憎悪していたとかの理由ではない。彼にユダヤ人への私怨はなかった。それが上からの命令であり、それが法であったから彼はホロコーストを実行したのだ。アーレントは裁判を傍聴するにつれ、アイヒマンがいかに凡庸な、極めて官僚的な人物であるかを見抜いていく。

 

絶滅収容所におけるホロコーストは何年にもわたって行われた。仮にヒトラーを筆頭にナチスの全党員がユダヤ人に激しい憎悪を抱いていたとしても、ただ憎悪だけを拠り所に来る日も来る日も虐殺行為を行うことは可能だろうか。まず不可能だろう。人間の怒りや憎しみは大抵特定の個人に向けられる。あいつに恥をかかされただの、騙されただの、舐めた態度をとられただの、そういう恨みが募って殺してやりたいほどの憎悪をかき立てることはあるだろう。しかし顔の見えない大多数を、何々人は劣っているからという理由で憎むことはまず不可能だろう。対象が漠然としすぎている。それに怒りとは基本的に瞬間的な感情である。時間が経過するほどに薄れていく。ゆえにホロコーストを維持していたのは怒りや憎しみといった感情ではない。義務であり、命令である。

 

ミルグラム実験によると、ごく普通の人でも権威者に命令されれば他人に危害を加え続けることができる。「自分は本心では嫌だったが命令されたから仕方なくやったんだ」という言い逃れができるなら良心を眠らせてしまえる。アイヒマンの場合も、たしかにホロコーストの責任者という立場ではあったが、もっと上からの命令、総統や党の意向に従っていただけである。命令されたから義務を果たした。アイヒマンにとってはそれが彼の仕事だったからホロコーストを指揮していたのだ。カフカのなんとかという小説に主人公を殴る人物が登場するが、彼は主人公を殴りながら、「俺は殴るのが仕事だ。だから殴るんだ」みたいな台詞を口にする。アイヒマンも同じである。それが裁判で明らかになった、ホロコーストという悪の正体だった。悪を為すのに怒りも憎しみも異常な攻撃性も要らない。それが義務であり、命令でありさえすればいい。アイヒマンのみならず、ホロコーストに関わった多くの党員が、義務としてそれを果たしていた。徹底的に効率を追求しながら、日々粛々と殺人を続けた。

 自分の昇進におそろしく熱心だったことのほかに彼には何の動機もなかった。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのか分かっていなかっただけなのだ。

 

エルサレムアイヒマン』 

 

アーレントはしかしこの裁判で別の問題にも気づいた。アイヒマンホロコーストは命令に従っただけでなく法にも従った結果だとたびたび口にしたからである。

 彼のすることはすべて、彼自身の見方によれば、法を守る市民として行っていることだった。彼自身警察でも法廷でもくりかえし言っているように、彼は自分の義務を守った。命令に従っただけではなく、法にも従っていたのだ。

 

エルサレムアイヒマン』 

殺人は法によって犯罪とされ罰せられる。しかしアイヒマンは、総統ヒトラーが決定したホロコーストは法であり、自分は法に従うという市民の義務を果たしたのだと主張した。さらに彼はただ法に従うだけでなく、法の精神を理解し、法が命じる以上のことをしようと腐心していた。嫌々ホロコーストに加担していたのではない。遵法精神に則り、いかなる場合も「法に例外があってはならない」とベストを尽すべく努力した。彼は自分の仕事ぶりに誇りすら持っていた。「良心の呵責など封印し、ヒトラーという法に従って粛々と義務を果たしてきただけ」。これがアイヒマンの主張である。

 アイヒマンが粗暴で狂信的な反ユダヤ主義者+ヒトラー信奉者、あるいは、その逆に、命が惜しくてうろたえ、今にも泣き出してしまいそうな情けない男であれば、アーレントにとっても納得しやすかったかもしれません。しかしアイヒマンは、「法」に従い、秩序を守る義務を負った官僚としての自分を演じ続けました。まるで「法」の代理人であるかのように。彼は何となく長い物にまかれて生きている人間ではなく、ある意味、「法の支配」の重要性を知っている人です。そこが哲学者であるアーレントにとって、なかなか納得のいかないことでした。

 

本書はここで法とは何かという問題に逢着する。かつてソクラテスは、青年たちを惑わしたという罪状で死刑判決を下され、自分では裁判官たちの判断は誤りであると確信し、周囲も判決に従わず逃亡するよう勧めたが、これを退け、死刑を受け入れた。

祖国の「法」に従う手続きで死刑判決が出た以上、それを勝手に無視すれば、もはや自分が国家(ポリス)の「法」に従って正しい行為をしていると言えなくなります。これ以降、悪法に対して従うべきか、そういう義務があるのか、というのは哲学にとっての重要なテーマになります。

ちょっと本書の内容から逸れてしまうが、上記引用部分を読んだときソポクレスの『アンティゴネー』を思い出した。ソクラテスは悪法でも法は法だと従い判決を受け入れた。アンティゴネーは地上の法よりも重要な神の法があると主張して法を破った。ブレヒトの『ガリレオ』ではガリレオは死刑判決を逃れるために自説を撤回する。撤回して生き延びて更に沢山の仕事をして科学の発展に貢献した。それぞれ微妙に問題や立場が異なっているから一概にどうこうは言えないけれども、法に従うべきか否かという問題はケースごとに考えるときりがないというか、自分なんかに答えの出しようがないというか。

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話を本書に戻して。アイヒマンの罪とは何だったのか。アーレントにとって彼を死刑に処すべき理由は、「彼に悪を行う意図があったどうか、彼が悪魔的な人間だったかどうかということとは関係がなく、人類の「複数性」を抹殺することに加担したから」だった。

 人間は、自分とは異なる考え方や意見を持つ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができるとアーレントは考えていました。多様性と言ってもいいでしょう。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は、人類の多様性を否定する物であり、そうした行為や計画は決して許容できないというわけです。

 

アイヒマンヒトラーという「法」に服従しただけだったとしても、「政治においては服従と支持は同じ」であり、特定の民族や国民との共存を拒み、人類の複数性を抹殺しようとしたヒトラーを支持し、計画を実行した人間とは、もはや地球上で一緒に生きていくことはできない。それが彼を絞首刑に処す「唯一の理由」であり、それ以上のこと(彼の内面的なことなど)は追求できない──。

この結論はどうだろう。「服従と支持は同じ」という言葉は重い。今日の目からすれば論理的に思えるけれども、まだ虐殺の記憶が生々しく残る裁判当時では、同胞を殺されたユダヤ人にはこのアーレントの結論は到底納得できないものだった。アイヒマン裁判をめぐる彼女の言説はユダヤ人社会から猛烈な反発を招いたという。

しかし「ユダヤ人は誰も悪くない」「悪いのはすべてドイツ人だ」というナショナリズム的思潮に目をつぶるという選択肢は、彼女にはありませんでした。そのような極端な同胞愛や排外主義は、ナチス反ユダヤ主義と同じ構造だからです。

たとえそのために同胞社会から非難され、古くからの友人たちから絶縁されたとしても、アーレントは自分が正しいと思ったことを、空気を読まず、忖度せず、率直に表明した。「それを支えたのは、アーレントの強い危機意識と知的誠実さだったように思います」。

 

 

全体主義と悪の考察については以上。以下は、全体主義と悪への対策について。

もちろんこのような問題に明快な対策や回答があるはずもない。アーレントも答えを出していない。しかし全体主義はいつの時代も起こり得るし、ミルグラム実験から誰もがアイヒマンになり得る。本書の著者はその対策として、何事も他者の視点で見ることを意識しろ、複数性に耐えろ、と提言する。

 

アイヒマン裁判のあとアーレントは、ナチスを擁護するのか、ユダヤ人を侮辱するのか、と同胞であるユダヤ人社会から激しく非難された。でもくり返しになるが、誰かを一方的に加害者だと決めつけたり、自分を一方的に被害者だと決めつけたりすることでもしかしたら見誤ってしまう場合もあるかもしれない。

 

強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになる。物語は明快であればあるほど受け入れやすい。しかし複雑な世の中の事象を明快に説明できるものだろうか。そして現代においてはインターネット上に多数のプロパガンダフェイクニュース陰謀論ヘイトスピーチが蔓延している。たとえば昨今の新型コロナウイルスに関して、ただの風邪だのウイルス兵器だのワクチンは毒だの、自分はあまり知らないが知らないなりに周囲の人たちが話してくれるのを聞くと、コロナについて様々な言説が溢れているのだと知れる。中には陰謀論的なものもある。こういう不安やストレスの強い状況こそ、単純な世界観に飛びつくのではなく、立ち止まって冷静に考えることが必要になる。複数性、多様性の維持。全体主義とは多数を共同体と一体化させる運動だった。複数性、多様性は全体主義の急所である。

人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。

いかなる場合であれ選別と排除の言説に加担することだけは絶対に避けたい。世の中のことはほとんど何もわからない自分だが、選別と排除の思想に関しては、それが誤りである可能性が極めて高いということだけはわかっているから。

  

 

『車谷長吉の人生相談 人生の救い』を読んだ

 

著者の本を読むのは久しぶり。一時期好きで結構読んだ。一番よかったのは『赤目四十八瀧心中未遂』で間違いない。短篇の「漂流物」もえぐくてよかった記憶がある。この人の小説は大体どれも似たようなことが書いてあるのだが文章がいいから飽きずに読める。

 

本書は朝日新聞に連載されていた人生相談をまとめたもの。10代から70代までと質問者の年齢は幅広い。赤の他人、匿名の誰かの個人的な悩みとその回答を読む意味って何だろう。教え子に恋をしたとか夫が不倫したとか父親が女性の下着を集めているとか、そんな話を読んでも身につまされるものはない。せいぜい色々な人生があるものだなあと人生の多様さに思いを馳せるくらい。万引きがやめられないなんて悩みは新聞に投書して作家に相談するより心療内科に行った方がいいのではないかと思うが。

 

こちらの素性を知らぬ他者に相談なんてしたところで最大公約数的な回答しか返ってはこない、各々が自分一人だけの生を生きている以上、自分の人生の問題は自分で解決するしかない、そんなことが書いてあったのは福永武彦の『愛の試み』だったか。自分も同感で、だから自分が迷ったり悩んだりしても新聞に投書は言うまでもなく、誰か他人に相談する、あるいはネット上に匿名で悩みを投稿するということ自体したことがない。投稿者の心理としては、回答を得たいというより吐露して楽になりたいという部分が大きいのかな。

 

生きる上での悩みは仕事、人間関係(家族関係)、恋愛(性)、健康、金銭、将来に対する展望、だいたいこれらに大別できそう。本書の醍醐味は著者の回答にある。見知らぬ人の相談に乗り、自身の経験を活かして解決方法を模索したり、説得したり、勧めたりする中に、著者自身の人生が透けて見えてくる。そこに面白さがある。

 

回答のパターンは大体決まっている。生きるとは苦しみの連続だから我慢を学ばなければいけない、見栄や世間体など忘れて本音をぶちまければ楽になれる、小賢しいことを考えず阿呆になってみろ、他人と自分を比較するな、人間の本質は孤独である、自分のことを忘れて他人のために善をなせ、金持ちより貧乏の方が気楽だ、等。一部は仏教的といったらいいのか、原始仏教において釈尊が説いていたこととダブる。著者は仏教徒だという。心を落ち着かせるのに写経や山歩きを勧めている。

 

最初の回答が一番印象に残った。著者の思想のエッセンスはすでにここに凝縮しているように思う。

世には運・不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです。私はそう覚悟して、不運を生きてきました。私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは、虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。この世の苦しみを知ったところから真の人生は始まるのです。

 

真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人です。己れの不運を知った人だけが、美しく生きています。私は己れの幸運の上にふんぞり返って生きている人を、たくさん知っています。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もありません。己れの不運を知ることは、ありがたいことです。

心の持ちようで如何ともなる問題なら大体著者のスタンスでなんとかなりそうな気がする。福田恆存の『私の幸福論』の基調と相通じるものがある。自分が回答者だったら、病気や金銭の問題は別として、メンタルが絡む問題ならばとりあえず栄養とってよく寝ることを勧める。体験上、よく寝れば元気が出て大抵の問題ならその日一日は乗り切れる。辛いときはとにかく目の前の一日を乗り切ることだけに集中する、先々のことまであれこれ考えるからメンタルが落ちる、そう考えて自分は問題を乗り切るというよりやり過ごしてなんとか今日まで生き延びてきた。そんなやり過ごしの結果としての中年こどおじという現状である。

 

夏季休暇終了。視聴した映画の感想など

緊急事態宣言下の夏季休暇。そんなもの無視して出かけるのも一つの考えだろうが、万が一にも感染すれば損を被るのは結局自分である。家族を危険に晒すリスクもある。だから従わざるを得ない。昨年に続き今年もステイホームの夏季休暇。しかし東京都知事はさすがに今年は、来年の夏をコロナなく過ごすために外出自粛を、とは言わなかった(と思う。ニュース殆ど見ていない)。できるかどうか分からない目標や約束は口にするべきでないと学習したようで結構。政府・自治体の対応次第では来年の夏もまだコロナ禍が終息せず、緊急事態宣言が発令されて三度目のステイホーム推奨の夏という事態も十分考えられる。

 

今年の夏は新型コロナに加え六日間連続で雨が降ったためほとんど出かけられなかった。買い出しと食事に行く程度で不要不急の外出はせず。休暇前は近所の低山を登るつもりでいたが断念。ニュースを殆ど見ていないので詳細は知らないが、前線が停滞し続けて九州では観測史上最多雨量を記録するほどの大雨になっているという。近年、夏の豪雨被害が深刻になっていると感じる。もう少しすれば台風シーズン、これもどうなるか心配である。

 

夏季休暇中はステイホームでいつもの休日と同じく映画視聴と読書をして過ごした。『ドント・ブリーズ2』を見に映画館へ一度だけ行ったら結構混雑していた。

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最近、自宅で映画を見るのにも飽きつつある。飽きたら途中で見るのをよして、昼寝したり読書したり。本は六日間で四冊読んだ。自分にしては多い。『残酷物語』『エセー抄』『車谷長吉の人生相談』『悪と全体主義』。 

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午後三時を回ったら酒を飲み始めた。朝食はヨーグルトとコーヒー、昼は適当に近所のチェーン店(松屋とかマックとか)、夜はスーパーの惣菜だったり、カップ麺だったり、テイクアウトだったり。さほど量を食べていないのに体重は一向に減少しない。中年ボディの燃費のよさ、素晴らしい。以下、休暇中視聴した映画の感想。

 

 

カポーティ

U-NEXTで。『セント・オブ・ウーマン』でフィリップ・シーモア・ホフマンを見て、懐かしくなって視聴。『冷血』執筆時のカポーティの話。冒頭の農家や殺人現場のショットが素晴らしいのでワクワクしたが、そこから先は単調な展開でつまらなかった。事件を追ううちにカポーティが犯人の一人に自己投影していく様子はいまいち伝わってこなかったし、彼に友情を感じながらも本を発表するために早く死んでほしいと願う矛盾した感情の葛藤も切実さは感じられなかった。殺されたクラター家がなおざりにされて、犯人側、とくにカポーティが自己投影したペリーにばかりフォーカスしているのに違和感を覚えた。カポーティが描いたのとは違う真実、クラター家にフォーカスしたこの事件のドキュメンタリーがあるようだが日本では見られず残念。カポーティの『冷血』は20年くらい前に読んだけれど内容すっかり忘れている。つまらなくはなかった。映画『冷血』を続けて見るつもりでいたが、こちらがつまらないのでよした。

 

『ヴィジット』

U-NEXTで。ぜんぜん期待せずに見たら凄い怖かった。序盤はだるい。別に異常も感じない。POVなのにテロップ入って編集済みじゃねえか、とかそんなこと見終わって考察サイトを見るまで全然気にしていなかった。というかそういう粗を気にして見ると冷めてしまって楽しめないと思う。こまけえことはいいんだよという大らかな心で見た方が楽しめる。自分、迂闊な阿呆でよかった。床下の追いかけっこ、その去り際の婆ちゃんの後ろ姿が映るシーンから祖父母に違和感を覚え始めた。この映画、恐怖と笑いが紙一重なところがある。怖いんだけどちょっと見方を変えると笑える、みたいな。最終日のゲームの最中の婆ちゃんのクッキードカ食いとか石化とか、怖いんだけど笑えるといえば笑える。隠しカメラのシーンでは驚きのあまり思わず大声を出してしまった。映画館で見ていたらやばかった。あの夜の一連のシーンは怖い。その後の展開はまあまあ。主人公の姉弟がどちらともいいキャラで見ていて楽しかった。しっかり者のお姉ちゃんとワルぶってる弟。でも二人とも過去の出来事で傷を負っている。祖父母の家での体験によって過去の傷を克服する展開は感動的。ラストシーンの、何これ? 感もいい。

シャマラン、な。

 

『ヴィレッジ』

『ヴィジット』が素晴らしかったので続けてシャマラン監督のこれを見ようと思ったらU-NEXTでもアマプラでも見られず、これを見るためだけにdTVに加入。無料期間終わったら解約するが。これはすげー退屈でつまらなかった。19世紀風の暮らしをしていたけれど実は現代だった、という。なんかこういうの見たか読んだことある。箱庭の向こうの世界という設定は『進撃の巨人』と通じる部分があるか。結構ツッコミどころが多い。ガッツリ刺されたのに生きているホアキン・フェニックスとか、盲目の女性一人に森を抜けさせようとするとか、特に後者は不可能でしょ。目が見えていても迷うのが森なのにあり得ない。全体的に展開が単調で眠くなってくる。音楽もよくない。『ヴィジット』の感動が一気に冷めてしまった。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

アマプラ見放題だったのでエヴァを知らない女の人と、タイトルから最初の農業パートまでだけ一緒に見た。いわく、すごいいい、とのこと。一人で楽屋パートを適当に流し見していたら、あのあたり思いっきり旧劇のセルフパロディやってたんだなと今更気付いた。映画館で映画を見ている時って多少なり興奮して舞い上がっているらしく冷静でない。見落としが多い。

 

『8mm』

U-NEXTで。20年くらい前にレンタルで見た。結構怖かった記憶があったが今見ても怖かった。上級国民と庶民との対比(上級国民は自分の快楽のために庶民の生命まで搾取する)とか、怪物のような男の正体が冴えないこどおじだったりとか、設定が古びていない。ポルノ写真やビデオの闇販売所みたいなところを案内する若きホアキン・フェニックスが「いずれネットが取って代わる」と言っていたのはまさにそうで、ファイル共有ソフトからの漏洩事件とか昔あったなあと懐かしくなった。このホアキン演じるエロ本屋がエロ小説のカバーをつけて読んでいるのが『冷血』。主人公ニコラス・ケイジの妻役が『カポーティ』でネル役だったキャサリン・キーナー(この人全然変わらない)。暗合が可笑しい。ノーマン・リーダスもチョイ役で出ている。終盤のダークヒーロー的展開は爽快感はあるけれど実際あれやったら即逮捕されるだろう。

 

『エル ELLE』

U-NEXTで。冒頭からわけわからん展開。普通もっと感情的になるだろうにそういうのが一切ない主人公。彼女の行動原理が謎。のこのこ地下室についていくとかあり得ない。過去の事件がトラウマというか彼女の人格形成に影響しているらしいが、それで辻褄が合うだろうか。ユーモアは結構ある。生まれてきた赤ちゃんの肌の色とか、90歳くらいの母親が若いツバメと再婚するとか。でも最初から最後までどういう心理・行動原理で主人公が生きているのかが見えてこなくて困惑し通しだった。落ちをどうつけるのか、それが知りたくて結局最後まで見てしまったが、最後まで見ても腑に落ちない。解説している動画とか見て知見は得られたけれど納得はしていない。これ、そんな話題にするほどの映画かなあ。イザベル・ユペールがあれだけモテる設定は無理がある。40代後半くらいの方がストーリー的に無理がなかったのでは。向いの家の奥さん役の女優を見たことあると思ったら『シンク・オア・スイム』のコーチ役の人だった。

 

アイ・アム・レジェンド 別エンディング』

U-NEXTで。序盤の、戦闘機の上でゴルフやるシーンまでは素晴らしい。本当素晴らしい。世界から人が消え、誰もいなくなった大都市で犬とともに孤独に生きる男。大きな家に住み、レンタル屋で映画をAの棚から順番にレンタルし、野生動物を狩る。ドライブとか釣りとかもきっとしてるんだろう。ダークシーカーが出てきてからはどこかで見たことあるパターンになってしまってつまらない。ビルの暗がりでダークシーカーが集まっていたシーンは彼らの生態を描いていてちょっとよかったが。蝙蝠みたいなもんだな。相棒のシェパードは殺さなくてよかった。最後まで生きていても全然いけたでしょうに。ダークシーカーなんて出さず終末後のサバイバル生活だけを描いてくれればそれでよかったのに。

 

 

少し家族と会話し、少し女の人と会話し、あとは買い物以外他人との接触がなく六日間引きこもっていると、物忘れが多くなったり、言葉が咄嗟に出てこなかったり、どんどん阿呆になっていく気がする。自分一人だけの世界に閉じこもるともともとあるかなきかの社会性が更に失われて、人前で平気で独り言言ったり、気に入らないことがあればすぐ怒鳴りつけるようなヤバい人間になりそうな気がして恐怖を覚える。さっさと労働から解放されてえと思っていたが、会社を辞めても社会とは何らかの接点を持つようにしないとマジであたおかな人間になってしまいそう。金があればいいとか趣味があれば大丈夫とか、多分そういう問題じゃない。

モンテーニュ『エセー抄』を読んだ

 

箴言の宝庫のような本。各章まずテーマが示され、それについて自身の経験や読んできた本の引用などが続き、やがて話題が少しずれていく。とりとめないというか融通無碍というか、そんな「ふんわり」さが魅力のまさに随想。何年も前に一度読んでいるが、今の時勢にぴったりの一節があった記憶があり、それを確かめるついでに何となく再読。

それにしてもわれわれは大変な愚か者なのである。だって、「彼は人生を無為にすごした」とか、「今日はなにもしなかった」などというではないか。とんでもないいいぐさだ。あなたは生きてきたではないか。それこそが、あなたの仕事の基本であるばかりか、もっとも輝かしい仕事なのに。

 

人間にとっての名誉ある傑作とは、適切な生き方をすることにほかならない。統治すること、蓄財すること、家などを建てることといった、それ以外のすべては、せいぜいが、ちっぽけな付属物とか添え物にすぎないのである。

ステイホーム推奨がもう一年以上も続く昨今、旅行に行く気にはならないし、外出せずにいるうちにそれが習慣になってしまって家にいても何をするでもなくだらだらとネットをしたり映画を見たり読書をしたり、それらもつまらないと思えばすぐ途中で放り出して昼寝してしまったり、と何とも自堕落な休日を送り続けているとだんだん気が滅入ってきて、何をするにも億劫になって何もしたくなくなる。外界と接触する機会が減少して刺激がなくなり退屈のあまり憂鬱になってくる。最近は些細なことが原因で苛つくことが増えたように思う。この夏季休暇中も、コロナ禍と毎日の雨に閉じ込められ、休暇前は、どうせ緊急事態宣言のせいで遠出できないから何か料理を一品覚えてレパートリーを増やそうと計画していたのに、結局面倒くさくなってしなかった。

しょうもない奴。ベッドに寝そべってこんな休日休暇がいつまで続くのだろうと考えているうちに、モンテーニュがなんかいいことを書いていたっけとふと上記引用部分を思い出して、本書中もっとも長い「経験について」の章から読み始めた。本題から逸れて寄り道するような文章が続くので、関心が持てる部分は読み、まだるっこしい部分は飛ばしながら。

魂の偉大さとは、高みにのぼったり、前に進んだりすることよりも、むしろ、自分の場所にいて、境界線を守ることにある。それは、十分なものならば、それで偉大なのだと考えるし、傑出したものよりも中庸を愛することによって、崇高さを示すのだ。人間としての義務をわきまえてふるまうことほど美しく、正しいことはないのだし、この人生に、しっかり対処して生きていくことほど、むずかしい学問はない。

別の章にはこうある。

精神の価値とは、高みにのぼることではなく、秩序正しく進んでいくことにある。魂の偉大さは、高い場所ではなしに、むしろ月並みさのなかで発揮される。

元祖書斎人というべきモンテーニュだが、この人は裁判官として勤務し、職を辞して引きこもったのちも求められてボルドー市長を務めるような実務面で有能な神様のような人だから、自分などが「モンテーニュもこう言っているから」と慰めとするには畏れ多い。でもこんなことも書いている。

わたしとしては、キケロのなかよりも、自分のなかで、しっかりと自分を理解したい。わたしがよい生徒ならば、自分の経験そのものから、自分を賢くしてくれるものをたくさん見つけられるはずだ。過去において、あまりに怒りすぎたことを、どれほど逆上してしまったのかを、きちんと記憶にとどめている人間ならば、この情念のみにくさを、アリストテレスを読むよりも、しっかり納得できるし、この情念に対して、より正しい嫌悪感をいだくことができる。 

 

われわれにとっては、カエサルの生涯も、われわれの生涯にまさる手本にはならない。皇帝の人生であれ、庶民の人生であれ、それはいつでもひとつの人生なのであって、人間の身に起こるすべてのできごとがかかわっているのだ。自分の人生にだけ耳を傾けようではないか——人間は、自分にとりわけ必要なことは、すべて、自分に向かって話すものなのだから。(中略)わたしはあやまちの種類とか個々の実例を、あたかも自分がつまずいた石のように見ることはしない。むしろ、どこでも歩き方に気をつけなくてはいけないことを悟って、きちんとした歩き方をしようと努力する。ばかなことをいったとか、したとかわかっても、それだけでは仕方ない。自分がおろかな存在にすぎないことを悟る必要がある。このほうが、よほど豊かで、たいせつな教えだと思う。 

この人は、当時西欧人が新大陸の先住民を「野蛮人」と呼んだことに対して、彼らは自然に従っているだけであり、戦争に明け暮れる西欧人の方こそ野蛮なのではないかと書くような、当時としては驚くほかないほど広い視野を持つ寛容な考え方の持ち主だった。分断やヘイトを煽るような攻撃的なYouTube動画が蔓延り、そんなものの登録者数が100万だか200万だかを越えているらしい昨今、そんな害しかないものを見る時間があるならモンテーニュの一章(短いものなら数ページしかない)でも読んだ方がよほど人生の豊かさにつながるんじゃないの、という気がするが、自分も人生の限りある時間を無駄に過ごしてばかりで有効活用できているわけではないから偉そうなことは言えない。自分も人格卑しい人間だし。寛容という徳は地味だから人に訴える力が弱いが人類が共に生きていく上でとても重要なんだぜ、と書いたのはヴォルテールだっけフォースターだっけ。

 

「年齢について」「なにごとにも季節がある」「後悔について」「経験について」の章には自身の老化や生活習慣について述べていて、本書も中年本または老齢本として読むことができる。

 

ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』を読んだ

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ヴィリエ・ド・リラダン・コレクションの第一弾。『未来のイヴ』『クレール・ルノワール』と続くとの告知。小説を集めたコレクションであるようで「生活なんてものは召使いにさせておけ」の台詞で知られる戯曲「アクセル」が収録される予定があるかどうか微妙。読んでみたいのだが。

 

リラダンは斎藤磯雄訳で『未来のイヴ』のみ一度読んでいる。1886年発表のこの小説は、人造人間にアンドロイドという呼称を用いた最初の作品だという。リラダンを知ったきっかけは押井守監督の映画『イノセンス』のエピグラフだった。「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」。この『未来のイヴ』からの引用、映画で知ったときは哀切な訴えのように思えたのだが、実際に小説を読むとどうやら作者は諷刺・嘲弄の意図で述べている様子だった。

 

リラダンはその淵源を11世紀に遡る貴族の出身だったが、彼が生まれたときはすでに家運は衰え、「マルタ騎士団の財宝探しの夢に錯乱した父ジョゼフ=トゥーサン=シャルル侯爵のために家族は困窮状態にあり、ブルターニュ貴族の血統への矜持をほとんどおのれの存在理由のごとく抱懐しつつも、ヴィリエは経済的問題に生涯苦しめられることとなった」(訳者解説)。自らの血統への矜持、当時の新興勢力であったブルジョワへの侮蔑、自身を認めようとせぬ社会への怨嗟、そういったものが彼の文学の底流にあるように思う(生涯女性関係に苦しんだゆえのミソジニー傾向も窺われる)。再び訳者解説から引用すれば、「『残酷物語』全体を通じて提示されるメッセージは明確であり、すなわち第二帝政から第三共和制にかけての時代の、実証主義に基づく物質万能主義に毒されたブルジョワ社会に対する批判である。(中略)効率性や金銭を崇拝し権力者によって容易に扇動される一般大衆と、社会から疎外され孤高を保つ精神的貴族との二項対立が、作品集全体に通底する基本図式となって」いる。本書には怪奇小説歴史小説、SF、諷刺小説、詩などバラエティに富んだ作品が収録されているが、とくにSFや諷刺小説に上記リラダンの批判精神が顕著と見る。

 

数えると28もの作品が収録されている。が、正直に言って楽しく読めたのはそのうちの数篇しかなかった。「ヴェラ」「最後の宴の会食者」「人間たらんとする欲望」「断末魔の吐息の科学的分析」「追剥」「王妃イザボー」くらいか。最後に収録の二篇のみ退屈すぎて途中で読むのをよしてしまった。幾つかのSFも今日の目で読むと斬新さは感じられず。世の趨勢が変わるごとに支持を変える浮薄な市民を諷刺した「民ノ声」も、普通に読めるは読めるがこれを小説として今更読んでもなあ…という思いがある。極論すれば本書で本当にいい小説だと感心したのは「ヴェラ」のみである。そしてこの有名な怪奇小説は本書以外にも収録している本が複数ある。

 

新婚の妻ヴェラが亡くなる。彼女を深く愛する伯爵は彼女の死を認めず、彼女が生きているかのように振る舞い続ける。すると次第に言動が自身を欺き、本当に彼女が生きているかのように錯覚する。しかし妻の一周忌の日、突如伯爵は我に帰る。妻は死んだと今更ながら悟り、彼女に再会したいと乞い願う。ラストは一種の開かれたエンディングで複数の解釈が可能になっている。筋だけならポーの死んだ妻だか恋人だかを主題にした幾つかの短篇や『死都ブリュージュ』とか、無知な自分は知らないがほかにもいくらでもあるだろうようなものと大差ない。「ヴェラ」が素晴らしいのはその叙述にある。妻の死を認めず、あたかも生きているかのように「演じる」(リラダンは劇作に執心していた)ことで現実と空想の境界が曖昧になっていく過程、一旦は蘇った二人だけの小世界が一周忌で突如夢から覚め、途端に目に映る一切が色褪せていく描写、それらが、多少気取ったようなまだるっこしいところはあるにせよ、装飾的な叙述と内容がよくマッチしていて、もとより自分が怪奇な話を好むというのもあり、いいものを読んだという充実を与えてくれる。すでに死んでいる妻のベッドに向かって「自分が死んだつもりでいる」と声をかけるのだから可笑しく、そしてまた恐ろしい。

 

リラダンのはモーパッサンチェーホフのような筋の面白さで引っ張っていく短篇とは違う。翻訳だからその片鱗しか味わえないが文体にかなりのこだわりがあったようで、そのあたりの機微がこの作家を特徴づけるものだと思う。文学愛好者には読まれ続けるかもしれないが一般的には忘れられつつあるのも無理ない作家かな、というのが正直な感想。だがこのご時世にリラダンの作品集を出すという企画を応援する意味も込めて、続く二冊も購入の予定でいる。

 

 

水声社の本はアマゾンでは取り扱いがないので代わりにこちらを貼っておく。

 

映画『ドント・ブリーズ2』を見た

緊急事態宣言下であるが映画館ならば換気あり対面なしなのでいいだろうとイオンシネマ板橋にて鑑賞。途中東上線の乗り継ぎを間違えた。電車は月に一度乗るかどうかなのでよく間違える。雨の日、傘を持って電車に乗って映画館へ行くのはだるい。

人は少ないだろうと予想していたら案に相違してかなり多かった。以前の緊急事態宣言の際はロビーが冊みたいなので囲われて一箇所しか入り口がなく、スタッフによる検温を経なければ入れなかった。しかし今日はロビーは通常通り開放され、検温ももぎりで実施と従来と特に変わらぬ対策のみ。案内板を見ると子供向けのアニメ映画が何作かかかっているようで表示には完売または残少がちらほら。一席開け販売で普段の半分程度しか劇場に入れないせいだろう。この時は知る由もなかったが本日の都内の新型コロナ新規感染者数は5773人と過去最多、埼玉県も1696人で同じく過去最多となった。病床逼迫のニュースも聞かれるようになり、かなり切迫した状況という印象。結局今年の夏も昨年同様遠出できずに終わる。来年の夏もこんなんじゃないかという諦めと、なんら有効な対策を打てない、そのくせ五輪は開催する、感染拡大は五輪とは無関係だと主張する、五輪はやったが国民の帰省や旅行は自粛を要請する、といった自分たちが言ってることが支離滅裂だと自覚すらできていない政府への怒りを覚える。このままずるずるお願いベースの感染防止策しか打てないなら倒産する企業や困窮する人を増やすだけでしかないだろう。

 

と、映画と全く無関係なことを書いてしまったが、一応本日の記録、日記として残しておく。映画についての感想は端的に言って以下。

前作の面白さって、盲目だと舐めていた爺さんが実は超人だった意外さと、彼のイカれっぷり、そして彼から逃げるには一切の音を立てられない緊張感にあったと思う。音を立てる=死というスリル。中盤の、なんとか逃げ切った! からの絶望という展開もよかった。前作は基本的に追いかけてくる殺人鬼から逃げるというオーソドックスなホラーだった。今作はというとかなりアクション要素が強め。ほとんどアクション映画と言っていいと思う。今作は前作とは監督が違う模様。

 

前作にも増してスポイト爺さんは盲目なのに不自由なく動き回る。前作はまだ壁に手をついたり手探りする素振りを見せたりしたが今回はそういう仕草はほとんどなかった。前作は盲目でも勝手知ったる自宅だからあれだけ立ち回れたと思おうとすれば思えたが、今回は殴り込みに行って内部を知らないホテル内を自在に動き回るからもう盲目設定はほとんど活きてない。視覚以外が超人だから目が見えなくても問題ない。つまらなくはないんだけど、これわざわざドント・ブリーズでやることか? という思いは付きまとう。

 

スポイトの異常さは分かっているから彼がヒーローになるわけがない、とは見る前から予想がつく。彼の女への執着は娘への歪んだ愛情ゆえ。とすれば予告で出てくる少女はスポイトに監禁されている被害者であり、敵対するグループは彼女を救出に来た傭兵か何かか? と思いきや序盤で一般人を殺したり、犬を殺すクズっぷりを披露するのでよくわからなくなる。人相も悪いし。予想は半分当たり、半分外れといったところで、結局今作も前作同様クズとクズが潰し合う話といえばそう。あのホテルはどう見てもヒーローの根城じゃない、むしろ笑ってしまうほど悪の巣窟オーラを醸している。車椅子の女は本当にムカつくいいキャラだった。ツッコミどころは数え切れない。移植手術とか、もう一人の盲目男の立ち回りとか、ラストのハートウォーミング志向とか。一番の違和感としてはスポイトの飼い犬(シャドー)は別に殺さなくてよかった。初めから登場させずスポイトは敵グループの犬と行動する、でよかった。なんで犬を殺すシーンを入れるのか。犬を守れない奴は何やってもダメ、とは押井守監督のジョン・ウィック評だっけか。でもスポイトが自分を襲ってくる犬を一切攻撃しなかった点は褒めていい。それと比較して敵グループはあっさり飼い犬を見殺しにするクズどもだから皆殺しにあって当然。因果応報。でも犬が殺されるから自分にとってはこの映画はクソ映画である。無印はたまに見たくなるけれどこの2はそういう感じでもない。無印の出来がよすぎたからハードルが上がってしまった面もあるが。

 

連休中に視聴した映画の感想

金曜から月曜まで有給も使っての四連休。埼玉県の新型コロナ新規感染者数が1000人を超え、今月いっぱいは緊急事態宣言が適用される。当方未だ一回目のワクチン接種もできていない状況。というわけでせっかくの夏の連休であってもステイホームせざるを得ず。昨年の夏もこんなだった。昨年の今頃、東京都知事は来年はコロナのない夏を過ごすために移動自粛に協力をと呼びかけていたような記憶があるが、今年の夏は五輪開催の影響もあってか東京では新規感染者がとうとう5000人を超える日も出、結局一年前と同じように帰省やら県境を跨ぐ移動自粛のお願いをしているていたらく。無能無策にも程があるが、政府および自治体がどの程度まで新型コロナ対策に本気なのか疑わしい現在、「五輪やってるんだから俺だって好きにやる」と嘯いて行動するのも自由だろうが、それでコロナに感染しても苦しむのは自分なわけで、さらには家族にも感染させるリスクがある以上はやはり大人しくしているのが最適解ではないかと思う。

 

そうだ、本日東京五輪が閉幕したのだった。テレビ中継は一切見ず、少しネットニュースで知ったくらいで、自国開催なのにこれまでの人生でもっとも関心の持てない五輪だった。IOCをはじめとする関係組織の横暴と守銭奴っぷりを知ることができたのが今度の五輪開催の最大の意義だった。今後五輪を積極的に見ることはないだろう。五輪憲章が聞いて呆れる。

 

で、引きこもってやはりU-NEXTで映画ばかり見ていた。映画館でいいのがやっていれば行ったのに今週は近所のシネコンでろくなのがやっていない。最近はこのブログに自宅視聴の映画の感想しか書いていない気がする。なんだかんだ言ってプロジェクターとスクリーン(70インチと小さいが)とネックスピーカーを買って、なんちゃってホームシアター環境を整えたのは正解だった。これらがなければ映画を見るとしても21インチのiMacか19インチのテレビしかないから。映画を見るのに大きい画面、大きい音は正義である。しかし見まくっているせいで何を見たのか三日前の記憶がもう薄れている。幸いU-NEXTは視聴履歴が残るようになっているのでそれを見て思い出しながらこの記事を書いている。

 

フッテージ

期待せずに見たら結構怖くて面白かった。画面全体が終始暗めなので見ていていい具合にストレスがかかる。冒頭のヌルヌルなカメラワークは何だったんだろう。不思議な感じがした。オチは貞子的な呪いだった、でいいのかな。謎自体は解明されなかったような。子供たちがジョーカーメイクしていたのは笑えた。いきなりアップでイーサン・ホークの横に来たときはビビったが。急に大きい音出すビックリ演出嫌い。

 

アイデンティティー』

大雨によりモーテルに閉じ込められた見知らぬ男女が一人ずつ何者かに殺されていく、という展開は『かまいたちの夜』を連想させて懐かしく、ああこういうシチュエーション好きだなあと感慨に耽りつつ視聴。男女の素性について中盤あたりから見当がついてくるので解明しても驚きはなく。そこから先は退屈だった。ラストに関しては納得よりもくだらねえとしか。

 

『ぼくのエリ 200歳の少女』

Kindle unlimitedが1ヶ月無料なので今利用しているのだが、ラインナップの中に『1日1本、365日ホラー映画』というのがあって(これ電子書籍というよりPDFに近く、事典的な内容なのに検索不可能というダメな本なのだが)その中で著者が『ぼくのエリ』を絶賛していた。押井守監督も『映画50年50本』でやはり褒めていたので少し前に一度見始めたのだが、幹線道路そばで人を殺して逆さ吊りして血を抜き取るとか、街中で安易に人を襲って血を吸うとかの展開がリアリティに甚だしく欠けていて馬鹿馬鹿しくなり、途中で見るのを止めていた。今回改めて最後まで見たけれど、まあ最後まで見られるから悪い映画ではないだろうが、自分の琴線には触れなかった。これ小説にも言えることだが冒頭少し見るなり読むなりしてつまんねーなと思ったものって、我慢して見続け読み続けても途中から圧倒的に面白くなったりすることってほとんどない。面白い映画や小説は最初からある程度面白いのだ。押井守監督の本に両性具有であることを示すシーン云々とあったけれどそんなシーンあったか? 「入っていい」と言わないとバンパイアってどうなるんだか。そもそも北欧でバンパイアって珍しい気がする。日光に当たると燃える設定はキャスリン・ビグロー監督の『ニア・ダーク』へのオマージュか。あの映画は今見ると色々古臭くて辛いが(『エイリアン2』のファンなら楽しめるが)ジェニー・ライトの美貌を見るだけでも一見の価値はあると思う。この人、若くして女優を引退してしまったそう。

 

『セント・オブ・ウーマン 夢の香り』

『ボディ・スナッチャーズ』というしょうもない映画でガブリエル・アンウォーを久々に見、ああこの人90年代めちゃくちゃ好きだったなと思い出して、10分しか出ていないけれど彼女といえばやはりこの映画のタンゴを踊るシーンだろうということで見返した。150分と長いので一度しか見ていないがいい映画だった記憶があった。でも見返すとそこまでとは思えない。終盤のホテルで大佐が自殺するのしないのと主人公と言い合うシーンとか長すぎてだれる。アル・パチーノはあの庶民的な家が全然似合ってないし。金持ちの盲人という設定でもよかったんじゃないの。この映画、友人を裏切るか否かという人格の高潔さをめぐってクリス・オドネルフィリップ・シーモア・ホフマンが対照的に描かれるのだが、本来フォーカスすべきはそこじゃなくて、悪さしたくせに我が身可愛さに名乗り出ず、友人二人に辛い思いさせている三人組こそ非難すべきじゃないのか。最後の演説も別に…という感じ。この映画はガブリエル・アンウォーの美貌に酔うための映画。彼女が出演する10分のためだけに残りの140分があると言っていい。あのタンゴのシーンって実際ストーリー的には何の必然性もないのに、そのシーンが一番いいのだから映画って不思議だ。

 

『ディセント』

あのゴラムみたいなビジュアルの地底人ってどうやって生きてきたんだろう。どうせ満足いく説明できないんだからあんなもの出さず地底の怖さだけで勝負してよかったような。この内容で登場人物6人は多すぎる。4人でいい。終盤の体育会系バトルは退屈だった。ラストの幽霊はビックリさせる意図しかないのでやめてほしい。続編も見たいのだが配信では見られないようで残念。

 

プリズナーズ

これ、アト6で宇多丸さんがロジャー・ディーキンスの撮影による雨の中のパトカーのシーンが素晴らしいと絶賛していたので見た。すごい面白かった。キリスト教が絡む善悪の問題がテーマだったとは見終わって幾つかの考察サイトを見て知った。役者の演技とか犯人と犯行のショッキングさとか素晴らしい画に気を取られてしまって、一度見ただけだと内容的に不明瞭な箇所が残るのだけれど、考察サイトの指摘する通り作中でかなり丁寧に謎について説明や示唆がされているんだな。ただし神父が殺人犯を殺していたというのは状況だけで明確な説明はないのでそれだけが残念。それも説明していたらさらに長くなってしまうからカットされたのか。終盤、ケラーは大人しく手錠はめないで抵抗しろや、とちょっとイラついた。ロキは有能なような無能なようなでも有能な妙な刑事。彼が叔母の家に到着して以降のシーンが最大の山場だろう。少女に注射している犯人の影が大きく壁に映るシーン、その後の豪雨の中の疾走シーン、圧倒される。開かれたエンディングも粋でいい。

 

『ボーダーライン』

一度見ているがヴィルヌーヴつながりでこちらも。冒頭、死体発見から爆発と、一気に引き込まれる。証人の護送シーンは南米の麻薬抗争の怖さがよく出ていて緊迫度が半端ない。護送車が渋滞中に襲撃されて応戦するシーンの迫力も素晴らしい。山場はここと終盤のトンネルのシーンか。ナイトビジョンの画面だから没入感がある。ベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリンがどちらもムカつくところがこの映画の魅力になっているように思う。デル・トロの顔ってなんか見ていて不快なんだよな、別に嫌いじゃないんだが、何でだろう? 音楽の使い方が『メッセージ』と似ているように思った。ヴィルヌーヴは『メッセージ』とか『2049』みたいなSFより『プリズナーズ』や本作のような事件ものの方がいいように思う。

 

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

たぶん20年ぶりの視聴。POV形式によるモキュメンタリーの走り。公開当時、たしか失踪した三人の学生の情報提供を呼びかけるホームページが作られるなどリアルっぽさを出していた。序盤のインタビューは悪くない。そのあとの探索がダラダラしていて辛い。森で迷ううちに三人が険悪になって以降は悪くない。最後の夜、カメラに向かって謝罪するシーンはいい。ラストの廃屋のシーンは無数の手形とか叫び声とかでかなり怖くて素晴らしい。今となってはYouTubeに投稿されるスマホ撮影の動画よりも画質は悪いが、それがいい意味で味になっている。今日でも十分鑑賞に耐える。

 

ゼロ・ダーク・サーティ

押井守監督絶賛の作品。別にキャスリン・ビグローがいいというわけではないようだがこの作品はとてもいいと。二回くらい見たけれど途中で眠くなってやめてしまっていた。今回初めて最後まで見た。上の方で、最初がつまらないと最後までつまらない映画であることがほとんどと書いたけれど本作は稀有な例外。中盤までは尋問・拷問・ミーティングばかりですげーつまらない。アフガニスタンの基地で同僚が死ぬシーンは無警戒過ぎてアホかと冷める。面白くなってくるのはアルカイダの連絡係を特定できて以降。ブラックホークによる暗殺作戦実行がクライマックス。この作戦シーンは緊迫感あって凄くいい。ラストの涙は、ここに至るまでの年月の長さと、やりきったけれど達成感はなく虚無感だけがある、みたいな感情からだろうか。それにしても高卒でCIA入局は凄い。ジェシカ・チャステインって失礼ながら美貌とは思わないんだけれど、見入ってしまうオーラがある素晴らしい女優。