蓮實重彥『見るレッスン 映画史特別講義』を(一応)読んだ

 

 Kindle版が50%ポイント還元対象だったので購入。だが自分が求めている内容ではなかった。関心が持てたのは全体の半分程度。そのあたりを読んであとは適当に読み飛ばした。40分くらいで読了。

 

なぜつまらなかったのか。

一点目。言及される映画の8割が戦前の映画だったりマイナーな映画であるから。

2020年に書かれた本なのに、ゴダールとか溝口健二とか小津とか、マジかよ。しかも文芸映画(ドラマ映画?)みたいなのばっかり挙げられて、著者はジャンル映画は言うまでもなくアクション映画にも興味が薄いようで、自分の好みとかけ離れていた。マーベル・シリーズに若干触れるけれど否定的な文脈で。自分もマーベル・シリーズは知らんが。ジブリ新海誠エヴァ等アニメついては一切言及なし(「後期高齢者」の著者にアニメ映画について語れと言うのは酷かもしれないが)。でもヴィルヌーヴとかポン・ジュノとかコーエン兄弟とかキュアロンはおろか、リドリー・スコットサム・ペキンパーやキャメロンやリンチにも触れない。コッポラ、スコセッシ、イーストウッドタランティーノには少しだけ触れる。代わりに出てくるのがゴダールジョン・フォードや小津や溝口といった往年の大御所か、日本のマイナーなドキュメンタリーを撮っている女性監督だったりして、チョイスのセンスがよくない。押井守監督は『映画50年50本』でチョイスする映画の基準を「マイナーな映画ではなく現在でもレンタルや配信で見られる映画」としていた。そういう読者に対するサービス精神は本書にはない。そりゃフォードやゴダールや小津は偉大でしょうが、何も今更それについて反復しなくてもいいのでは、という教養主義的なチョイスへの違和感と、手軽に見られないマイナーな映画を素晴らしいと言われても読者には見ようがないという困惑。一応濱口竜介監督が好意的に言及されたりもしているが。西川美和監督と是枝監督に対しては冷淡。ボーン・シリーズや『怒りのデス・ロード』や『ジョーカー』や『パラサイト』には触れないなんて。

 

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二点目。言ってることがよくわからない。

たとえば、京都アニメーションの事件後に現場を訪れた人が漏らした「アニメに救われていた」という言葉に対して、映画は「救いではない」「救いとなる映画はあるかもしれないがそれが目的ではない」「映画は現在という時点をどのように生きるかについて見せたり考えさせたりするもの」と主張するのだが、「救いではない」「救いとなる映画はあるかもしれない」「救いが目的ではない」と段々論点がずれていって言いたいことが不明瞭。別に目的じゃなくても映画に救われるってことは普通にあるんじゃないの、という気がするのだが。それは一生の救いみたいな大袈裟なものじゃなくて、ただ二時間の間だけ辛い現実を忘れられるという程度の救いであるかもしれないが。以前読んだ『母さん、ごめん』で、著者は、介護の隙間時間にシネコンで見る映画が心の支えになっていたみたいなことを書いていた。自分も似たような経験がある。『エイリアン2』や『セブン』や今はそうでもなくなってしまったけれど『秒速5センチメートル』が支えになっていた時期があった。まあこのあたりは言葉の定義の問題かもしれない。読書中ずっと、著者の主張の一切は結局個人的な好悪の問題じゃないの、という気がしてならなかった。一例を挙げれば、キャスリン・ビグロー監督に対して著者は否定的で、でも押井守監督はビグロー監督を評価している。そういうのって結局個人の趣味の問題でしかないのでは? という。「私たちは映画を見ることで驚きと安心を得たいのです」と著者は言う。自分はもっとシンプルな、映像と音による快感を得たいと思って見ている。ホラー映画が好きなのは恐怖と驚愕と不快感によるストレスがあるから。お化け屋敷に入ったりジェットコースターに乗ったりするようなアトラクション的な快感、恍惚への欲求。押井守監督が言うところの快感原則。著者は「映画はアトラクションではない」とも述べているので自分とは考え方が全然違うのだろう。求めるものは人それぞれでいい。そういえば自分が恋愛映画にほとんど興味がないのはなぜなんだろう。ホラー、サスペンス、スリラー、そのあたりが好きなジャンルである。SFやミリタリーはあまり。アメコミはまったく。ホラーでもゾンビや幽霊や悪魔よりも人間によるものの方がより好き。『Rec』よりも『スペイン一家監禁事件』の方がいい。あんなの何度も見たいとは思わないが。何かいいホラー映画を教えろと言われたら、ユーモアを求めるなら『CABIN』を、感動を求めるなら『マローボーン家の掟』を勧める。どちらもグロ描写の控えめな、でも怖くて不気味な、いい映画だと思う。

 

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三点目。文章が無理。

講義形式なので文章ではなく口調というべきだが。蜷川実花監督の作品は全てくだらない、とかディズニーなんてなくなれ、とか東京国際映画祭はやめてしまえといった主張は自分も同感(最後のは知らんが前二つはほぼ同意)なので気にならないが、「溝口映画を見ていない映画ファンは反日」とか「愚かなコロナ騒動」とか確信的に煽ってくるスタイルが生理的にきつい。2020年12月にこういうことを言うんだもんなあ。これも好みの問題か。書き起こした人が下手なのかもしれない。

 

ドキュメンタリー映画は退屈ではない、もっとキラキラしたもの」とか(キラキラって何だよという話だが)、「映画評論家の仕事はまだ見つかっていないフィルムを探すこと」とか、デビッド・ロウリー監督のメールアドレスを探した話とかいいところもあったが、上記三点の理由から得るものの少ない本だった。実質半額での購入、読書時間40分程度なのでよしとする。Kindleだから場所も取らないし。

 

映画『パンケーキを毒見する』『返校 言葉が消えた日』を見た

1ヶ月ぶりに映画館へ。そしてハシゴ。

『パンケーキ』は菅義偉首相の人物、現在の政権の問題点、有権者の意識などをテーマとしたドキュメンタリー。大島新監督の『なぜ君は総理大臣になれないのか』が面白かったので、同じく政治ドキュメンタリーである本作も楽しみにしていたがイマイチだった。

 

予告を見る限りだと菅義偉という人物の為人に迫る内容のように思えたが実際にはその部分は全体の三分の一程度。叩き上げの苦労人というイメージで売っているが実際には秋田の名家の出身であるとか、本質は肝が据わった博打打ちであるとか、非常に利に敏い一面がある等指摘される。国会でののらりくらりの答弁に関しては呆れるのを通り越して笑うしかないようなものだが、今は言葉自体が軽くなってしまった時代なのかなという気もしなくはない。菅首相は自分の言葉を持っていないとかビジョンがないとか言われるが、この映画を見る限りそういう批判精神よりも嘲弄するような調子を感じて、現首相および現政権を擁護するつもりは微塵もないが、なんとなく居心地の悪さを感じた。嘲弄という言葉が強すぎれば馬鹿にしたようなでもいい。そういう意味で「政治バラエティ」を謳っているのかな。

 

アニメの部分は不要だったと思う。庁と蝶のダジャレとか、子供が政治家の真似をして先生に口答えするのとか、下らなくて白けた。変な賭場の演出は何の意図だったんだろう。こういう部分は削って、議員へのインタビュー(多くの議員に拒否された模様)をもっと多くした方が良かったのでは。村上誠一郎議員の話、もっと聞きたかった。先輩たちと比較して現在の議員の志の低さに最後涙していたのが印象的だった。自民党内の派閥の話で、戦後傍流だった派閥が安倍さんが首相になったことにより権力を得て、追いやられてきた過去に報復しているとの見方には、そういうものなのかと驚いた。冒頭の江田憲司議員だったか、政治家は皆当たり前のように嘘をつくという話があったが(クレタ島のパラドクスのようだ)、小川淳也議員の「永田町で正気を保つのは容易なことじゃない」という話と重なって、いかに政治の世界が複雑怪奇で異常な世界なのかを窺わせて怖くなった。かつて森元首相の「寝ててくれればいい」発言があったが、有権者が政治にうんざりして無関心な方が自民党にとっては都合がいいのだろう。そして政治に関心がなくても参加しなくても今はまだなんとかなっているから投票率も低いままなのだろう。ブレヒトの『ガリレオ』に「英雄を必要とする時代は不幸だ」という台詞があったが、政治に関心が集まる時代はもしかすると不幸、というか国民にとっては不遇な時代なのかもしれないと思ったり。

 

 

『返校 言葉が消えた日』はたぶん初めて見る台湾映画。戦後の中国国民党による思想・言論統制時代の高校を舞台にしたホラー。序盤はサイレントヒルめいた廃校をさまようだけでも緊張感に溢れて怖いのに、さらに大きい音でびっくりさせてくるのでいかにも怪しそうなシーンに差し掛かると身構えた。中盤以降、徐々に謎が明らかになっていく。密告には私怨によるものが多くを占めていたのだろう。自分にとって不都合な人間を排除するための手段。人間の暗部を見るようでおぞましい。

 

この映画はホラーの体裁をとっているけれどテーマは歴史の検証である。過去の保存装置としての映画。幽霊も恐ろしいが人間の悪意はそれ以上に恐ろしい。抑圧、暴力、陰謀。ストーリー的には主人公二人の夢が混ざり合っていたのかとか、でかいモンスターの正体とか、最後の方の展開とか、チャン先生はイン先生とできてたのに主人公を誘惑したのかとか、色々疑問に感じる部分が見終わっても残り、消化不良感強め。原作のゲームをやれば氷解するのだろうか。最後の手紙は切ない。ホラーとしての出来はイマイチ。「忌中」の貼り紙とか麻袋とかは大量に出してしまうと派手になって怖さが薄れてしまう。ああいうのはさりげなくピンポイントで用いた方が怖さが増す。

 

 

ソポクレス『オイディプス王』『アンティゴネー』を読んだ

 

 

 

ソポクレスによるテーバイもの三作のうちの二作。『アンティゴネー』を読みたくなったのだがその前日譚たる『オイディプス王』もついでに読んだ。以前岩波文庫で読んだときは結構よかった記憶があった。今回は古典新訳文庫で読んだがいまいちだった。怪訝に思い、岩波のギリシア悲劇全集3巻で再度「オイディプース王」を読んだら、今度は感心した。なんだろう、訳文とかフォントとかレイアウトの好みか。新訳文庫のは盛り上がりに欠けたまま最後まで行ってしまった印象。読みやすさで言うと全集>岩波文庫>新訳文庫。

 

先に『オイディプス王』の話になってしまったが、本来は『アンティゴネー』が読みたかった。ブレヒトによる改作版を新訳文庫で一度読んでいる。この悲劇の筋は、オイディプス王の二人の男子であるエテオクレースとポリュネイケースがテーバイの王権を巡って争いになり、一騎打ちの末相果てる。テーバイの王クレオーンは祖国を守ろうとしたエテオクレースは丁重に葬ったが、反逆者であるポリュネイケースの死体は野晒しにして何人も葬ってはならないとの御触れを出す。妹であるアンティゴネーは兄の死体が朽ちていくのに耐えられず、死者を葬るのは国家の法に勝る神の法だと主張して兄を密かに埋葬する。反逆者の死体を埋葬した罪でアンティゴネーは逮捕される。国家の法と神の法の衝突。あるいは国家対個人とも言い換えうるかもしれないが、クレオーンとアンティゴネーはどちらが正しいのか。この問題はブレヒトが改作で訴えたように国家の法が強力に市民を拘束するとき我々は唯々諾々とそれに従うべきか否かという問いをも含んでいる、と自分は考える。コロナ禍の今、時宜に適っているテーマと思う。だから読みたかった。

 

結論から言うと『アンティゴネー』を読んだからと言って国家対個人の問題に答えなど出ない。この悲劇に答えのようなものはない。この悲劇の結末は、アンティゴネーを捕らえて地下牢に閉じ込めたこと(餓死させようとの企て)、および骸を不浄のまま放置させた咎により神の怒りに触れ、災いが降りかかると予言されたクレオーンが、それを回避するため改心するも時すでに遅く、アンティゴネーは牢で縊死し、クレオーンの息子はそれを悲しんで自害、息子の死を嘆いてクレオーンの妻も自ら死を選ぶ、という救いのないもの。結びでは神を畏れること、傲慢にならぬことこそが思慮であると説かれる。国家の法すなわちその代表者たる自身の権力を傲慢に振りかざしたクレオーンは神の法を遂行したアンティゴネーに敗北した。しかしアンティゴネーもまた死を選び、これによりオイディプスの四人の子のうち三人が死に、最後に残った末娘のイスメーネーは姉から埋葬の協力を求められても拒否するような小人物なので、これではアンティゴネー(神の法)の勝利と言えるのかどうか。神の法を貫くのも文字通り命懸けで、アンティゴネーがどちらの法を選択しても結局詰んでいた、という気がする。ブレヒトクレオーンをヒトラーになぞらえ、絶対的権力者または独裁者に対する個人の抵抗の劇として『アンティゴネー』を改作した。アンティゴネーは正義の遂行者か、それとも秩序への反逆者か。見方によってどちらにも見える。

 

オイディプス王』の方は『アンティゴネー』以上に運命が人間を支配する話。不吉な予言を逃れたつもりが実は逃れていなかった、予言は必ず成就する。運命は神の摂理だけれどもそれをなすのは人間であるのが怖いところ。スピンクスの謎歌は解けても自分の出生の謎は解けない。目が見えるのに真実は見えない。国を襲う災いの元凶は先王殺害者の罪が咎められていないためとの神託により犯人を捜索する過程で、オイディプス自身の呪われた素性が明らかになる展開は緊迫感に溢れ面白い。でも自分の母親を娶るって、オイディプスとイオカステの年齢差ってどのくらいだったのだろう。古代ギリシアだと女性は何歳くらいで母親になったのだろう。二人の年の差が初読のときから気になっている。オイディプスもそうだが娘のアンティゴネーも激情的な性格で、そういう性格が悲劇を招く原因になっている。イスメーネーのような世間的な常識人には悲劇は起きようがない。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は「現代は悲劇の時代である」から始まっていたが、2021年の今でも悲劇の時代だろうか。

 

新訳文庫の『オイディプス王』は解説でイオカステがいつオイディプスがかつて捨てた我が子だと気づいたかについてかなり頁を割いているが、正直そんな学究的な問題は一般読者は気にしないと思う。それより成立史とかテーバイ伝説とか古代ギリシア人の運命観とかについて書いた方が読者にとって有用だったのではないか。すでに散々他の本に書かれているので反復になるのを避けたのかもしれないが。

 

四連休にしたこと、というか連休中視聴した映画の感想

この四連休、梅雨明けで暑い日が続いたというのもあり四日間ほぼエアコン付けっぱなしにして引きこもっていた。外出はスーパーへの食材買い出しと、最終日の今日歩いて近所のマクドナルドへ行ったくらい。引きこもって、映画を見るか、読書するか(ソポクレスを二冊読んだ)、slay the spireをやるか、ネットをして過ごした。サラダとペペロンチーノを毎日のように作っていた。東京五輪が始まったらしいが、今度の開催に際しての不祥事の連続で五輪アンチになったので見ていない。というかテレビ自体点けていない。一日の流れとしては、朝6時頃に起きて、二度寝して、朝飯は抜き、コーヒーを飲んで昼を食べて、上述の何かをして過ごして、日が暮れたら酒を飲んで、夜食べて。途中昼寝もする。結構よく寝られたのは有意義だったと思う。普段は週末女の人とどこか近場に出かけたりもするが、今年は彼女が法事で帰省したためそれもなく。これだけ暑いと出かけるのが億劫になる。定年後の予行演習の気分だった。

 

 

 

 

 

この四連休、近所の映画館ではろくな映画をやっていなかったので見に行くこともなく。代わりに自宅で結構映画を見た。ざっとその感想を書いておく。

 

 

『ババドック 暗闇の魔物』

U-NEXTで。心理的なホラーでかなり怖かった。前半の、発達障害? ADHD? の息子の言動にストレス感じまくり。母親役の女優もやつれ過ぎてて正視できないというか、見ちゃいけないような怖さがあった。睡眠不足とか金銭的な不安とか育児ストレスとか、そこに魔物は潜んでいると示唆する。母子のキャスティングが不快で素晴らしい。ただ犬を殺して、しかもそれをエンディングでスルーしているのはよろしくない。犬を殺す映画は自分にとってクソ映画である。ゆえに本作も素晴らしいがクソ映画である。

 

パンズ・ラビリンス

U-NEXTで。押井守監督の映画の本にデル・トロ本来の仕事の一つとして挙げられていたので興味を持った。『パシフィック・リム』は退屈だったがこれは素晴らしかった。内戦時代のスペイン、少女、というとエリセの『ミツバチのささやき』を連想する。どちらの少女も夢見がち。ペイルマンのシーンにあった無数の靴は戦争の犠牲になった子供たちの暗示か。この映画は幻想と現実の扱いが巧みで、正直自分は終盤までファンタジーだと思っていた。でも違った。ファンタジーなんて存在しなかった。魂は王国に帰ったとか、そんなの聞かされても納得できない。女の子が不憫過ぎて映画見て久しぶりに涙が出た。彼女には現実で幸せになってほしかった。

 

クリムゾン・ピーク

U-NEXTで。『パンズ・ラビリンス』が素晴らしかったから続けてデル・トロ見たけどこれはつまらなかった。美術は凄い。とくに屋根の隙間から雪が降ってくる城の造形は斬新で感心したが、ハリボテというか、掘削機なんて思わせぶりなくせに何の役にも立たないし、セットに内容が負けている。ストーリーがめちゃくちゃで、そもそも母親の亡霊がなぜ忠告したのかわからない。男は今までたくさんの身寄りのない金持ち女を餌食にしてきたが主人公に会って改心するとか都合よすぎ。他にも色々突っ込みどころがあったような気がするがもう忘れた。姉がジェシカ・チャステインなのは途中まで気づかなかった。この人、自分が見る映画によく出てくる印象がある(ジェレミー・レナーもそう)。気のせいだろうが。時間の無駄とまでは言わないが見なくていい映画だった。金払って『シェイプ・オブ・ウォーター』見る気がなくなった。

 

シシリアン・ゴースト・ストーリー』

U-NEXTで。広角で撮影されたショットが美しい。実際にあった事件を元にしているとのこと。ヨーロッパ映画的な説明不足で展開する筋に理解が追いつかず。主人公は、湖で溺れて死にかけたときビジョンを見たから、もう一度見ようとして毒を飲んだのか。画がいいから最後まで見られたけどつまらなかった。

 

『葛城事件』

U-NEXTで。面白かった。『アウトレイジ』を見て三浦友和って格好いいから悪人やらせても綺麗すぎる…と思ったのだが、この映画だとかなり汚いオヤジを違和感なく熱演していて、凄い俳優だと感銘を新たにした。役所広司と同じくらい凄い俳優。本作のストーリーは実際にあった幾つかの事件を元にしている由。冒頭は和歌山の事件だろうし、次男が起こすのは大阪の事件のようにも見え、犯行時の彼のオーバーサイズめのジャケットは秋葉原の事件のようでもあると思った。南果歩の自分というもののない妻、気弱な新井浩文の長男、どっちも素晴らしかった。長男は、公園に捨てた吸殻を拾いに戻るくらい気弱で善良で、家出した母と弟を発見したら父親に連絡する従順な性格。アパートで父親抜きの家族三人が団欒するシーンは、あり得たかもしれないこの家族の幸福を示唆するようで切ない。切ないといえば、新築祝いのシーンもそう。強権的な父親だけれど、彼には彼なりに夢というか理想というかがあったのだろう。わずかなズレが歳月を経るうちに取り返しがつかないほど大きくなっていく。「どうしてここまで来ちゃったんだろう」という妻の台詞が示すように。この映画で一番気持ち悪いのは田中麗奈。自分の理想に夢中で周りが見えていない。彼女が施設で突然キレるシーンは最高に気持ち悪かった。面会室であなたと生きていきたいと言いながら昔の彼氏とのセックスについて長々喋るとか、どう見てもやべー女で、これだけ嫌悪感を誘うのは並の女優では無理と感心。三浦友和は、スナックで偉そうに土下座するシーンも良かったけれど、やっぱり最後の首吊りからの無言の蕎麦すすり、これが最高だった。田中麗奈を襲って家族になってくれるかのシーンは、それまでのキャラとの乖離を感じ違和感があった。この父親の気持ち悪さを演出するにはいいかもしれないが、そんな性的な感じのキャラじゃなかったように思って見ていたのだが…。もう一度見たいかと問われれば、いや大丈夫っす…と答えるけれど、見てよかった。いい映画。

 

ビューティフル・デイ

U-NEXTで。『レオン』とか『LOGAN』みたいなおっさんと少女の話と思って見たが違った。『タクシードライバー』もどきだった。主人公はアフガニスタンかなんかでトラウマを負ったのか。子供の頃の家庭環境もトラウマになってそう。でもそういう背景の説明は一切なく、思わせぶりなフラッシュバックで示すだけ。ストーリーも雑。知事がロリコンなのはまあいい。でも買われた少女の両親はそれで自殺するだろうか。知事の指示なのか殺し屋が執拗に主人公の周辺を狙ってくるが、あんなにめちゃくちゃやるかね。あれじゃマフィアじゃん。法治国家だぜ。リアリティがない。防犯カメラの映像を使うのはいいアイデアだと思った。おっさんと少女には期待したような心の交流は特になく。レストランでの自殺の妄想は『バッファロー66』っぽい。全体的に二番煎じばかりの雰囲気映画という感想。『ガルヴェストン』もこんな感じだった。あっちの方がいくらかマシだったが。

 

『ハイテンション』

U-NEXTで。フレンチホラーの代表的四作のうちの一作。言っても仕方ないが悪趣味過ぎる。冒頭のトラックのシーンもそうだし、キャビネット使って殺すのも、母親の手首を切り落とすのも、最後のチェンソーも。二重人格というか妄想の話なんだが、だとするとトラックの荷台のシーンとかカーチェイスのシーンとかの整合性が取れなくないか。まあ厳密さを求める映画ではないが。ラスト近くの車のエンジンがかからないのはイラついた。昔はお約束だったけれど、2021年の今あんなシーンを撮ったらそんな監督は見限っていいと思う(本作は2003年)。この映画は怖くない。不快なだけ。怖さでいえば『ババドック』の方がずっと怖い。あと、犬を殺しているのでこの映画もクソ映画認定。そう考えると『アングスト』は殺人鬼の話なのに犬を殺さなかったので本当に素晴らしい。『クリーピー』もそう。

 

『ロスト・バケーション』

アマプラで。期待せずに見たらとてもいいパニック映画だった。まず全編通じて画が美しい。ときどきCGが露骨になるのは目をつぶる。ストーリーはシンプル、登場人物は最低限なのも好印象。主人公は何度となく負傷してリアリティもある。実際にはサメがあんなに人間に執着するとかありえないんだろうが…。主演女優が美人だから彼女一人で最後まで持たせられる。カモメがマスコットとしていいアクセントになっていた。ラストのアクションがどうなってるのかよくわからなかったので、倒したときの爽快感がイマイチだったのが惜しい。自分の中で『ジョーズ』『ディープ・ブルー』と並ぶ名作サメ映画。いや、ほとんどサメ映画を知らないが。

 

石牟礼道子/伊藤比呂美『死を想う われらも終には仏なり』を読んだ

 

伊藤比呂美さんから石牟礼道子さんへのインタビュー的な対談集。テーマは主として死について。

 

石牟礼さんの戦中・戦後の体験から様々な死について述べられる。空襲が来て防空壕に飛び込んだら先にいた人たちが後から来たのを追い出したり、飢えに苦しんで作物を盗んだり、状況が逼迫したとき露わになる人間の本性、浅ましさについてはそんなものだろうと思いつつも、やはり体験した人の証言は重い。もっと状況が逼迫すれば殺し合いをはじめるだろうと予感された、それが銃後の民の本当の姿だったと。5歳のときに目撃した隣家の殺人事件の現場の記憶も物凄い。畳にぐっしょり染み込んだ血がぽとり、ぽとりと縁から垂れて表戸から路上へと、未舗装の時代だから乾いた泥の中に少しずつ染み込みながら溜まっていった。被害者は若い女性だったという。戸板の上に粗筵を掛けられた姿で外に運び出されるのを眺めていた近所の人たちは「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)、南無阿弥陀仏」と拝んだ。この記憶を巡っての二人のやりとりが印象的だったので引用する。

伊藤 その「南無阿弥陀仏」って言っていた大人たちは、その気持ちはなんだったんでしょうね。「南無阿弥陀仏」じゃなくて、ふつうの言葉に直したら。

石牟礼 ふつうの言葉にはならなかったので、「南無阿弥陀仏」って言ったんじゃないでしょうか。

伊藤 ああ、なるほど。

石牟礼 この場合、ふつうの言葉では何を言っても、表現できないんです。「可哀そうに」というのももちろんあるでしょうけど、哀れというか、殺されてしまってとか、いろいろあるでしょうけれど、何を言ってもやっぱり「南無阿弥陀仏」が一番ふさわしいんじゃないでしょうか。

 

石牟礼さん自身の自殺未遂についても語られる。若い頃、代用教員をやっていたときに学校の理科室で塩化水銀を手に入れてそれを飲んだのだという。直接的な原因が何かあったのではなく気質ゆえの行動だったと回顧されるが、そのときの臨死体験も興味深い。

ただ自分の意識では、真っ暗な出口のないトンネルの中に入っていく気がして、真っ暗で出口がない。明かり一つ見えない出口のないトンネルの中に吸い込まれていくというのが、一瞬、ちょっと怖かったですね。

 

この対談当時石牟礼さんは78歳。パーキンソン症候群に冒され、視力も弱り、日常の些細な所作ひとつ行うのにも難儀している状況だった。自分が死ぬことについては怖くない、人生に名残りもない、ただ痛みがあるのは嫌だと心情を吐露する。尊厳死が可能なら望むとも。ここでトイレの話が出る。自分で用を足せなくなったら生きているのは嫌だ、トイレに自力で行けるか否かの問題は大きい、と。似たような発言が、アトゥール・ガワンデの『死すべき定め』にもあった。

 

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本書でもっとも印象に残ったのは第三章終わり近くのやりとり。石牟礼さんは生きることが苦しいと言い、「人間は生きていくことが世の中に合わない」「(人間が)生きているということには無理があるなぁという気がします」と続ける。

生きている間は、どうも世間とうまくいかない。何かお互いに無理をしているなぁという気が。思い過ごしかもしれないけど、そうは人様はお思いにならないかもしれないけど、私の主観では、お互いに無理があるなっていう気がします。それで言葉も、することもなすことも、なんとなく掛け違うんじゃないかって。

 

それでお互いに、なるべく波風立たないように、お互いに不必要に苦しまないように気を遣って、努力はしていると思うんですよ。私だって。それでも無理がある。だからなおさら、無理が来るということも言えます。もう、生きていくって大変。

 アメリカの精神科医サリヴァンは「精神医学は対人関係論である」と言い、「人格は対人関係の数だけある」とも言った。先日読んだ吉田豪サブカル・スーパースター鬱伝』の中で、リリー・フランキーは「単純に話が通じないとか心が伝わらないとか、そういう人間が身近にいたりとかするから(鬱になる)」「ほとんどの人も仕事で鬱になってるんじゃなくて、仕事をきっかけに人に対しての不信感や喪失感や疎外感を持つんじゃないのかな」と述べている。いや本当に、人間と関わるってのはとにかくメンタルが疲弊するし、相手も程度の差こそあれ同じように感じているだろうし、お互いに気を遣い合って嫌になるのだから、石牟礼さんの言う通り人間が生きていくってのはなかなかにしんどく、無理めではある。意識があるから苦しむんだろうが。でも救われるのも他人によるところがあったりして、だからなおのこと難しい。以前読んだ松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』にはこんな一節があった。「人間というのは愛すべきものであり、また疎ましいものでもある。しかしどちらかと言えば疎ましいものである」。自分も基本的にこのスタンスである。

 

第四章は主に話題が『梁塵秘抄』なので読み飛ばした。本書もまた荻原魚雷『中年の本棚』で知った。

 

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ここ最近、配信で視聴した映画

『REVENGE リベンジ』

U-NEXTで。荒唐無稽なバイオレンスもの。前半はだるい。武器を手に入れてからの展開はまあまあ。裸足でガラス片を踏んで、悶絶しながらそれを抜き取るシーンがめちゃくちゃ痛そうで変な笑いが出た。ラストバトルは臨場感あって楽しめた。何もかも過剰に悪趣味。メキシコのビールとか通販番組とかはスポンサーだったのかな。頭空っぽにして見たい映画。監督の、男女問わない尻へのこだわりが可笑しい。

 

『RAW 少女のめざめ』

U-NEXTで。期待せずに見始めたら冒頭の事故のシーンでなんかよさそうな予感がした。荒唐無稽な大学の風習や寮生活が、リアルに即してはいるが本作はあくまでファンタジーであることを強調するかのよう。それでも違和感なく、いやむしろ納得しながら見入ってしまうのは、全編に漂う祝祭的なムード、鮮やかな色彩による美しい映像、俳優の鬼気迫るような演技の賜物だろう。映画の魔術とでもいえばいいか、見ていて圧倒されてしまう。音楽もとてもいい。失神から醒めたあとの姉の涙や、「娘が二人いると心配が尽きない」「人間の味を知った犬は危険だ」という父親の台詞とラストまでアップにならないその風貌などが伏線になっているのに見終わって気づき感心した。主人公を演じた女優は素晴らしかった。序盤は芋っぽかった彼女が真の自己に目覚めて以降徐々に美しくなっていく。サッカーをしているルームメイトを物凄い形相で見つめるシーン、鏡の前で踊るシーンが印象的だった。異端であるがゆえの葛藤、悶えるような恋愛感情、肉親への愛情など描かれているテーマは王道。アリストテレスは悲劇の特徴として恐怖と憐憫の二要素を挙げた。この映画にはそれがある。主人公の名前ジュスティーヌってやはりサドからとったのだろうか。

 

マーターズ

ビデオマーケットで。おそらく国内で配信で見られるのはビデオマーケットのみ。この映画のためだけに無料登録した。フレンチホラーでもトップクラスにヤバいと名高い本作。内容についてはすでに知っていたので展開に驚きは少なかったが、かなり暴力的で過激な映像の連続なので、先が予想できていても緊張しながら視聴した。日曜朝の平穏をぶち破る襲撃シーンの迫力は凄い。ただ、目的を達したあとも家に長居するからさっさと逃げればいいのに、と苛々した。中盤の幻視は気持ち悪いし、本人は喚いてばっかりだしでややうんざり。地下室に潜るシーンは不気味で良かった。組織の人間は死後の世界について知りたいなら他人で実験せず自分の身で試せ。上級国民だから自分ではしないのか。それがこの映画で一番気分が悪いところ。終盤の描写はホラーが極まるとギャグに転じるの見本というか。スプラッタ表現って外科的な感じ。手術に慣れたベテランの外科医ならこういう映画を見ても嫌悪感とか苦手意識とかあまり感じないのだろうか。自分は暴力表現より日本のホラー特有の、じめっとした、なんかいそう、いる、みたいな空気感の表現の方により恐怖を感じる。だから日本のホラーは怖くてあまり見ない。ロジェ監督作品は『ゴーストランドの惨劇』の方がエンタメしていて好み。

 

アザーズ

アマプラで。以前に一度見ているが内容すっかり忘れていた。『ねじの回転』的な話だったとは記憶していたが。ニコール・キッドマンがとにかく美しい。彼女を見ているだけで満足。2001年の映画だが演出とか撮影の手法が古く感じた(少し前に『ゆりかごを揺らす手』を見たときにも感じた)。2001年はもう20年も前なのだ。最後に出てきた奥さんをどっかで見た気がして、検索したらキャトリン・スターク役の人だった。個性的な顔立ちだから記憶に残っていた。

 

クリーピー 偽りの隣人』

アマプラで。ツッコミどころが多すぎる楽しい映画。民家なのに玄関を入ったらコンクリ打ちっぱなしの通路が現れ、その先は秘密基地。即効性が高い洗脳できる注射。「近所付き合いするな」と言われてもシチュー(しかも昨日の残りもの)を隣家に持っていく竹内結子東出昌大は不法侵入したり、危険なのに単独行動したり。借金とはなんだったのか。川口春奈の生存理由は最後まで不明なまま。西島秀俊が時折見せる妙な言動は、彼も一種のサイコパスだったことを示唆していたのか。笑ったのは落とし穴。コントやん。セット感丸出しのドライブシーン。ラストの「行こうマックス」はあんなに元気よくどこへ駆け出していったのか…。あの女の子もよくわからん存在だった。自主的に香川照之に協力していたのか、洗脳されていたのか。最後になって解けたから罵倒した? 母親の処理をしたときの感情も不明で、この子けっこう不気味だった。「本当のお父さんじゃない」と言いつつそれ以上は教えない、とか。竹内結子の絶叫はようやく我に返って自分のしたことの恐ろしさに気づいたという、女の子との対比か。あんなに跡が残るほどいつ注射を打たれていたのだろう。竹内結子は妙に色っぽかった。西島秀俊東出昌大はちょっと演技に違和感。香川照之はまあ想像通りな感じ。この映画は香川照之竹内結子を見る映画だろう。怖くはない。犬を殺さなかったことは評価したい。

 

吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』を読んだ

 

 

中年本の一冊として。なぜサブカルは四十を過ぎると鬱になるのかをめぐるインタビュー集。リリー・フランキー大槻ケンヂ杉作J太郎松尾スズキユースケ・サンタマリアなどが登場する。まず、自分はサブカルが何なのかよくわかっていない。著者が冒頭でマガジンハウス系とコアマガ系がどうしたとやたら語っているのだが、門外漢としてはそんなのどうでもいい。冒頭部分はミラン・クンデラ『冗談』の終わりに出てくる女子学生のような冷めた気持ちで流し読みした。

 

サブカル中年が心を病みやすいのは、日に当たらない不規則な生活と運動不足のせいではないかと著者は推測する。自己管理を徹底し、規則正しい生活を送り適度に運動する…これである程度の健康を確保できそうな気もする。本格的な病いに関しては無効だろうが、ちょっと滅入ったくらいのレベルであれば。本書に登場する人たちは皆中年の危機を四十前後で迎えており(もう少し早く経験した人もいる)四十歳が鬼門になっている。もう若者ではなく、さりとて老人でもない狭間の年代。若い頃のような体力はなく、かといって枯れきってしまったわけでもない。余力があるからこそ却って辛い、そんなところか。唐沢俊一はこう語る。

サブカルの基本はフットワークと情報収集でしょう。それがこの年になるとある程度惰性になってきますからね。古書店古書市に通い、古本を集めることもある時期から…つまり四〇代後半になると、自分があと何年生きるかっていう情報収集の期限が見えてきちゃう。幸いにも多少老眼は入っているとはいえまだ本も読めるけれども、六〇代の先輩に聞いてみると、字を読むこと自体かなり苦痛になってくるらしいんですよ。

自分の場合、四十代になってからは若い頃のようなイケイケで仕事に取り組むことはまずなくなった。ブルーワーク、まず体に負担がかからないこと、怪我しないことを第一に考える。もちろんシングルタスク。多少経験を積んだことで得た知識、それを活かして適度に頑張り、適度に手を抜く。やるべきことはきっちりやるが、余計なことには進んで関知しない。若い頃のペースで四十過ぎても仕事したら体がもたない。まだ今の会社で定年まで20年近くあるが、自分がどの程度のクラスまで行けるのか、目安はすでについている。たいしたところまでは行けない。己の限界が見えてしまう中年の悲しさ。いや、出世願望ないからいいんだけど。長と付く立場になると病みそうだし。

 

本書に登場する人物のうち本当の(と言ってしまっては失礼かもしれないが)鬱病を発症したっぽいのはユースケ・サンタマリアのみで、他の人は鬱っぽいか、あるいは何らかの病気だったのかもしれないが、起きられない、食事が喉を通らない、激痩せする、というレベルの鬱病となると一人だけのように思える。杉作J太郎がかなり具合が悪かったときアイドルに救われた、アニメに救われたというのを読んでいい話だなあとは思ったけれども、多分本当に鬱病だったらアイドルやアニメを見る気力さえ出ないのではないか。そういう意味では本書に登場するのはバイタリティ旺盛な人が多い、と言えるだろう。体力の衰えのほか、親の介護問題だったり、金銭問題だったり、家庭の不和だったり、仕事の内容や職場の人間関係だったり、中年が病む理由は無数にある。

 

本書のインタビュイーは皆口を揃えて40歳になる頃が一番危険だと言う。しかし自分の場合、40歳になってもとくにメンタルに大きな変化はなかった。心を病むこともなく、大きな病気をするでもなく、43まで無事来た。だから本書を読んでもあまり身につまされる部分がなかった。2017年前後の日記が少しだけ残っているので読み返してみたが、40前後で変化はなく、記憶している限りでもこれといった心身の衰え・失調はなかった(35くらいのときちょっと変になったことがあるので自分は40前に済ませてしまったのかもしれない)。42歳のとき四十肩になったくらい。これは一年以上経つ今もまだ治らない。独身こどおじだから生活に変化がなく、金の問題に悩まされずに済み、両親ともまだ健在だから介護の問題もなく、だから病まずに済んでいるのかもしれない。あとは体調の変化というと、老眼が始まった、食が細くなった、痩せにくくなった、性欲が減衰した、0時前には眠ってしまい朝は5時過ぎに目覚めるようになった、など。似た話は下の記事にすでに書いた。

 

インタビューする相手は豪華なのにページ数が少ないからいまいち話の内容が薄いのが本書の残念な点。以上、そんなところ。

 

 

『鬱伝』を知ったのは荻原魚雷『中年の本棚』による。この本は本当にいいガイド。

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中村光夫は失禁の悲しさについて赤裸々に書いていた。それくらい突っ込んだ話を『鬱伝』でも聞きたかった。

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『鬱伝』にも登場する杉作J太郎の本。文庫化すればいいのに。今となっては遅いか。

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この本、あるあるの連続で面白かった。

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