ソポクレス『オイディプス王』『アンティゴネー』を読んだ

 

 

 

ソポクレスによるテーバイもの三作のうちの二作。『アンティゴネー』を読みたくなったのだがその前日譚たる『オイディプス王』もついでに読んだ。以前岩波文庫で読んだときは結構よかった記憶があった。今回は古典新訳文庫で読んだがいまいちだった。怪訝に思い、岩波のギリシア悲劇全集3巻で再度「オイディプース王」を読んだら、今度は感心した。なんだろう、訳文とかフォントとかレイアウトの好みか。新訳文庫のは盛り上がりに欠けたまま最後まで行ってしまった印象。読みやすさで言うと全集>岩波文庫>新訳文庫。

 

先に『オイディプス王』の話になってしまったが、本来は『アンティゴネー』が読みたかった。ブレヒトによる改作版を新訳文庫で一度読んでいる。この悲劇の筋は、オイディプス王の二人の男子であるエテオクレースとポリュネイケースがテーバイの王権を巡って争いになり、一騎打ちの末相果てる。テーバイの王クレオーンは祖国を守ろうとしたエテオクレースは丁重に葬ったが、反逆者であるポリュネイケースの死体は野晒しにして何人も葬ってはならないとの御触れを出す。妹であるアンティゴネーは兄の死体が朽ちていくのに耐えられず、死者を葬るのは国家の法に勝る神の法だと主張して兄を密かに埋葬する。反逆者の死体を埋葬した罪でアンティゴネーは逮捕される。国家の法と神の法の衝突。あるいは国家対個人とも言い換えうるかもしれないが、クレオーンとアンティゴネーはどちらが正しいのか。この問題はブレヒトが改作で訴えたように国家の法が強力に市民を拘束するとき我々は唯々諾々とそれに従うべきか否かという問いをも含んでいる、と自分は考える。コロナ禍の今、時宜に適っているテーマと思う。だから読みたかった。

 

結論から言うと『アンティゴネー』を読んだからと言って国家対個人の問題に答えなど出ない。この悲劇に答えのようなものはない。この悲劇の結末は、アンティゴネーを捕らえて地下牢に閉じ込めたこと(餓死させようとの企て)、および骸を不浄のまま放置させた咎により神の怒りに触れ、災いが降りかかると予言されたクレオーンが、それを回避するため改心するも時すでに遅く、アンティゴネーは牢で縊死し、クレオーンの息子はそれを悲しんで自害、息子の死を嘆いてクレオーンの妻も自ら死を選ぶ、という救いのないもの。結びでは神を畏れること、傲慢にならぬことこそが思慮であると説かれる。国家の法すなわちその代表者たる自身の権力を傲慢に振りかざしたクレオーンは神の法を遂行したアンティゴネーに敗北した。しかしアンティゴネーもまた死を選び、これによりオイディプスの四人の子のうち三人が死に、最後に残った末娘のイスメーネーは姉から埋葬の協力を求められても拒否するような小人物なので、これではアンティゴネー(神の法)の勝利と言えるのかどうか。神の法を貫くのも文字通り命懸けで、アンティゴネーがどちらの法を選択しても結局詰んでいた、という気がする。ブレヒトクレオーンをヒトラーになぞらえ、絶対的権力者または独裁者に対する個人の抵抗の劇として『アンティゴネー』を改作した。アンティゴネーは正義の遂行者か、それとも秩序への反逆者か。見方によってどちらにも見える。

 

オイディプス王』の方は『アンティゴネー』以上に運命が人間を支配する話。不吉な予言を逃れたつもりが実は逃れていなかった、予言は必ず成就する。運命は神の摂理だけれどもそれをなすのは人間であるのが怖いところ。スピンクスの謎歌は解けても自分の出生の謎は解けない。目が見えるのに真実は見えない。国を襲う災いの元凶は先王殺害者の罪が咎められていないためとの神託により犯人を捜索する過程で、オイディプス自身の呪われた素性が明らかになる展開は緊迫感に溢れ面白い。でも自分の母親を娶るって、オイディプスとイオカステの年齢差ってどのくらいだったのだろう。古代ギリシアだと女性は何歳くらいで母親になったのだろう。二人の年の差が初読のときから気になっている。オイディプスもそうだが娘のアンティゴネーも激情的な性格で、そういう性格が悲劇を招く原因になっている。イスメーネーのような世間的な常識人には悲劇は起きようがない。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は「現代は悲劇の時代である」から始まっていたが、2021年の今でも悲劇の時代だろうか。

 

新訳文庫の『オイディプス王』は解説でイオカステがいつオイディプスがかつて捨てた我が子だと気づいたかについてかなり頁を割いているが、正直そんな学究的な問題は一般読者は気にしないと思う。それより成立史とかテーバイ伝説とか古代ギリシア人の運命観とかについて書いた方が読者にとって有用だったのではないか。すでに散々他の本に書かれているので反復になるのを避けたのかもしれないが。