「下流老人」の日常を飄々と──岡田睦『明日なき身』を読んだ

 

1932年生まれの作家による私小説を5篇収録。三人目の妻と団地の一戸建てに住んでいた作家は彼の薬物依存が原因で離婚になる。家は妻の所有となり追い出される。行くあてなく生活保護を受給してアパートで単身生活を開始。しかしボヤ騒ぎを起こしてここも出る羽目に。その後沼津にあるNPO団体の施設へ入居する。執筆活動は続けていたが本書の最後に収録されている短篇「灯」を2010年に文芸誌に発表して以降は消息不明との由。

 

書かれているのは家族もなければ金もない「下流老人」の日常。新聞は購読せず、テレビ、携帯電話は持っていない。ガスは使わないので契約をやめた。5年間入浴していない。食事は近所のスーパーのおにぎりか巻き寿司を1個か2個(値段も書いてあるが100円とか200円とかそれくらい)、またはレトルトご飯にふりかけなど。支給日前の数日はそれすら買う金がなくなり絶食して凌ぐ。エアコンは冷風しか出ないが直す金はない。真冬で風邪をひいても外気温と同程度の室温の部屋で布団をかぶって寝るしかない。ベランダの一部が腐食して崩落しそうなので針金で何重にも縛って落ちないよう固定する。トイレの便器から水漏れしてあたりが薄い茶色の水浸しに。下水管が詰まってしまい蓋を開けると凍った糞便まみれ、それを真冬に自力で取り除ける。料金が払えず電話が止まる。同じ理由で電気も止まる。クリニックに通院して抗うつ薬睡眠薬を処方してもらう。腰は常に痛い。前立腺肥大の診断を受けている。

 

悲惨極まる日常。しかしそれを述べる作家の文章に湿っぽさは微塵もない。あっけらかんとした飄々たる文体。これが笑いを誘う。上記した下水管掃除の話など、読んでいて汚なさに閉口しつつユーモラスな描写に声出して笑ってしまった。

 

怖い挿話がいくつかある。元妻の代理人がヤクザのような土建屋で一戸建てから立ち退けと恫喝してくる話は(不動産をめぐるトラブルとしてはありきたりなのだろうが)どうなるかとひやひやする。とても作家一人では抵抗できなかろうと思っていたら出版社の編集長を話し合いの場に同席させて相手を牽制、その発想にも驚くが付き合ってくれる編集長も面白い。作家と編集者の関係ってこんな濃いのだろうか。原稿料を前貸ししてくれる気配りもある。結局念書にサインしたせいで退去せざるを得なくなるのだが。

作家の特異性が際立つのは近所のコンビニ店員への執着。美人らしい女性店員が、作家がレジに来るたび逃げるように奥の事務所へ引っ込んでしまう。偶然か、自分が嫌われているのか、嫌われているとしたらその理由は何なのか(5年も風呂に入っていない客の相手なんてしたくない人が大半と思うが)、確かめたく、レジで店長に話があると直談判する。そのせいで嫌気が差した女性店員は店を辞めてしまい、店長が激怒して出禁にされる。それなのに以降もコンビニに通ってとうとう警察沙汰に。この挿話の作家はストーカーじみていて気持ち悪かった。

一戸建てを追い出された作家はアパートで単身生活に。正月、風邪をひいて寝込み洟が止まらない。エアコンは壊れていて温風は出ない。かんだティッシュを燃やせば暖がとれると思いつき、室内で、段ボール箱の中に入れたティッシュに火を付ける。すぐに段ボールごと燃え広がりボヤに。消防や警察が来る事態となり、本人に怪我はなかったがアパートにはいられなくなる。作家は慶應大学出てるのにどうしてこんな阿呆な真似をしたのか。無事だったからよかったものの自殺行為としか思えない。この場面の描写もとぼけている。

とっさに、一一九番することにした。が、熱い。ダイアルを廻せない。靴下のみで部屋を飛び出し、腰痛なのに走って向かいの家のドアをあけた。

 

アパートを追い出されてNPO団体の管理する施設へ。高圧線の下の土地は危険なエリアとされ不動産価値が低く、それだけに安く買ったり借りられる。悪徳NPO団体はそういう土地に施設を建て、狭い部屋と粗末な食事の料金として入居者の生活保護費から12万円を徴収する。「宿泊所ビジネス」、貧困ビジネスだ。外線は携帯電話のみ、それを管理しているスタッフは電話を取り次いでくれないし貸してもくれない。囚人のような生活。入居者は団体にとって金の成る木。不平を言えば「退寮」。そうなれば行き先などないのだから路上をさまようしかなくなる。本書の最後に収録された短篇は沼津の施設での出来事を書いているが、NPO管理の施設に入居していて生活保護も受給していたのに消息不明になってしまうとはどういうことなのだろう。すでに入居していた施設はなくなり、団体は解散したか夜逃げしたかして連絡がとれなくなってしまったとかそういうことだろうか。作家は今年で90歳になる計算だが今どこでどうしているのか。

 

橘玲さんは人間の幸福には幸福を規定する三種類の資本が必要だと述べている。人的資本、金融資本、社会関係資本、それら三つが揃っていればいるほど幸福な人生を送れるだろうと。人的資本は金を稼ぐ能力、金融資本は金融資産、社会関係資本は交友関係。岡田睦さんには前の二つは皆無。しかし電話や手紙で近況を尋ねてくれたり、食料を送ってくれたり、東京から沼津までわざわざ訪ねてきて食事に誘ってくれる友人たちがいる。別れたとはいえ三度も結婚できているし(本人は晩生だと言っているが)、前述したように親身になってくれる編集者もいるし、社会関係資本にはかなり恵まれている。だから悲惨な境遇でもやっていけたのだろう。これで友人皆無の孤独な境遇だったら日々の困難の度は比較にならぬほど増したのではないか。

 

食うや食わずの暮らしなのに不意に花屋の軒先で惹かれてムスカリを買い、孤独なアパート生活の話し相手にする「ムスカリ」(この花も焼けてしまったのだろうか)、沼津の施設で学生時代からの友人夫婦と短い再会を果たす「灯」がとくによかった。この本は単行本が刊行されたときに一度読んでいるが今より15年も若かったゆえか殆ど感銘を受けなかった。どころかちょっと作家の言動に苛立ちすらした記憶がある。年を経、また日本経済も自分の生活もシュリンクしつつある今読むと、問題提起の書として、貧困生活の記録として、感銘を受けた。他人事じゃねえな、という思いもある。