アメリカは幽霊の国──『ゴーストランド』を読んだ

 

 

読み終えたのは一月末だがいい本すぎて感想がなかなか書けなかった。アメリカ各地に残る幽霊話を検証することで彼の国の過去を発掘していく。

私たちは、生者を理解する手段として死者の物語を語るのだ。幽霊話は単なる都市伝説やキャンプファイヤーの余興以上の存在で、私たちの不安の輪郭、集合的な恐怖と欲望の本質、つまりほかの方法では話すことのできない事柄を明らかにする。明るい昼日中に声に出して語るのが一番怖い過去は、暗がりでささやく幽霊話の中にずっと残りがちな過去でもあるのだ。

幽霊話は不動産をめぐる抗争から、富裕な老未亡人に対する反感と不安から、奴隷たちの行動を制限する目的から、そして人目につかない悲しい歴史を保存する必要から生じる。幽霊話とは象徴であり喩えなのだ。引用にもあるように、それを語ることによって人々は別のことを、もっと生々しい現実の問題を語っている。貧富の差、階級差、そういった現実の深刻な問題が幽霊話にも反映している。幽霊は圧倒的に白人が多く、黒人が幽霊として語られるケースは極端に少ないという。幽霊話にも人種問題というアメリカ社会の一面が潜んでいる。

読書当時のツイートから引用。サーシャとザマニとはスワヒリ語話者たちの文化による死者の区別。サーシャは最近亡くなったばかりでまだ生前を記憶している人々によって回想される「生きた死者」。もはや生前を知る者がいなくなると彼らは概念としての死者ザマニとなる。セレモニーや記念碑などはザマニの領域に属する。ザマニは時に生者によって政治的に利用される。夜中に寂しい通りを一人で歩いていて殺された女子大生が幽霊になってその通りに出るとなれば、幽霊話は夜中に一人で出歩くのを控えるべきという警告の意味を含むようになる。いや、この場合は警告のために幽霊が創造されたのかもしれない。

 

ある物件コンサルタントは「幽霊屋敷とは、一つの知覚」だと述べている。「もしある物件に幽霊が出ると知覚されれば、そこには幽霊が出るのです。幽霊が出ると思わなければ、出ないのです」。このコンサルタントは幽霊の存在を信じていないが、幽霊の噂や血生臭い過去が家の転売価格に影響することは認めている。幽霊話を売りにしたダークツーリズムから維持費を捻出している施設の話も出てくる。その本質上、幽霊は人間の生々しい営みと無縁ではあり得ない。

 

映画『インシディアス』に家に住み着いた幽霊を科学機器を用いて調査するシーンがある。映画らしいエンタメ的表現かと思いきやアメリカには実際にハイテク機器を使いこなすゴーストハンターたちがいて彼らが出演するテレビ番組まであるという。幽霊は恐怖を喚起する極上の娯楽でもある。本書の最後はテクノロジー時代の幽霊についての興味深い考察。

IoTによる幽霊話。今後はこういう幽霊、こういう呪われた家が増えていくのかもしれない。幽霊が生者によって創造される以上、その定義は生者の社会環境によって常に更新されていくのだろう。

 事実上自らの制御で作動し、自動化されて生命を吹き込まれ、生きている居住者によるインプットをもう必要としない家──そんな奇妙な新しい住居に、幽霊屋敷の未来が垣間見える。

 

魔女裁判で名高いセーラムから始まって、銃で有名なウィンチェスターの屋敷、奴隷制KKK、さらにはハリケーンカトリーナ、9.11、衰退したデトロイトまで、幽霊話を追ってアメリカ各地の歴史を調査するにつれ見えてくるのは、人が生きるとはいかなることか、というテーマ。ポーの詩「アナベル・リー」は体験ではなく創作だったとか、びっくりするようなことも書いてある。

生者を幽霊に変えるのはその人を空っぽにすること、きわめて重要ななにかを奪うことだ。だが、死者を幽霊として生かし続けるのは、その人を思い出と歴史で満たすこと、そうしなければ失われてしまうものを生かし続けておくことなのだ。