文學界2024年10月号 特集「インターネットとアーカイブ」を読んだ

 

 

創作、鼎談、エッセイ、アンケート「あの人のブックマーク」。

 

創作。宮内悠介「暗号の子」。特集との関連で考えるとこの小説の肝は主人公の行動より1990年代から2000年代、サイファーパンク(「テクノロジー武装した完全自由主義」)による社会変革の可能性を信じていた彼女の父親の独白にあるのだろう。理想に挫折し、彼は昔ながらの共同体主義に回帰する。主人公が父親をテクノロジーの進歩と無縁の人のように見ていたのは誤りで、そう見えた背景があったのだ。かつての彼は今の彼女のようだった。

驚いたのはこの父親が1977年生まれという設定だったこと。俺と同い年。たしかに俺の年齢なら22歳の子供がいてもおかしくない。実際、同級生には今年二十歳になる子供がいるのだ。

結婚したり子供が生まれたりすれば人生の役割(ロール)が「夫」や「父親」に移行するのだろうが独身で実家暮らしだといつまでも「子供」のまま。だから自覚がないが、もうとっくに時代の「脇役」なんだよな、俺は。

2010年代前半くらいまではネットサービスが新しくできればあれこれ試し(Twitterは2009年頃に最初のアカウントを作った。その当時使っていた携帯電話はガラケーだったので主にパソコンからログインしていた)、電子マネーを利用するようになったのも早い方だったと思うが、次々登場するサービスに徐々についていけなくなり、ついていく気もなくなり、今はもう全然。先日、今更PayPayをインストールした。QR決済は何種類かインストールしているがPayPayが一番汎用性が高いのであった方が便利かなあと思い。

 

鼎談。スルーした。

 

エッセイ。pha「インターネットが現実になるまで」と藤谷千明「良くも悪くもスパイダー・ウェブ」の2本。phaさんのが素晴らしかった。2000年代後半、インターネットによって世界が変わると信じられた時期があった。でもこのときさかんに口にされた「ウェブ2.0」は今から見れば楽観的な幻想に過ぎなかった。

1978年生まれのphaさんがインターネットに受けた衝撃とは、

・誰でも無料で全世界に向かって情報を発信できる

・どんなマイナーな話題でもその話をしている人を見つけられる

・地元や学校や職場では出会うことがないような人とネットを通じて交流できる

だったという。でもこれらは今では当たり前のことになってしまったのでそのありがたさがわからなくなっている。

 また、1978年生まれの自分の世代は、思春期にはネットが普及していなくて、二十歳前後でネットの爆発を体験することになった、という点も大きかっただろう。ネットのない暮らしとネットのある暮らしの両方を知っている最後の世代なのかもしれない。子どもの頃は固定電話と郵便しか通信手段がなくて、高校生の頃にポケベルやPHSが普及したという感じで、そんな状況で現れたインターネットは衝撃的だったのだ。

同世代なのでこれは同意。自分がインターネットを利用しだしたのは2000年前後で、OSはWindows Meだった。最初に買ったパソコンはNECLAVIE。ダイヤルアップで接続して現在からしたら刺激に乏しいテキストサイト2ちゃんねるに書かれていることを読むのが面白くて面白くて仕方なかった。「普通の人」による思考や情報を部屋にいながらにして知ることが可能になるなんて、それまでは考えられないことだった。どこの誰とも知らない人の日記をどれだけ読んだだろう。すでにそれらのサイトは消失し、アーカイブでサルベージして読んでも、何が自分をあんなに夢中にさせたのか、もうわからない。思い出せない。

 

2000年前後はテキストサイト2ちゃんねるが隆盛し、2003年にはてなダイアリー、2004年にmixiが登場する。ADSLから光ファイバーへと通信速度が上がりモバイル通信環境も整備される。2000年代半ばにFacebookYouTubeニコニコ動画Twitterなどがサービスを開始する。震災前後の頃はYouTubeよりニコニコ動画の方が比較にならないほどコンテンツが充実していたように記憶している。いつ頃逆転されたのだろう? 電車男なんてのもあった。今読むとやらせにしたってつまらなすぎる内容なのになぜあんなに騒がれたのだろう。と言いつつ俺もまとめを楽しく読んだ一人だが。

 

昔のインターネットはパソコンでの利用がメインだったからオタクやインテリが多かったように思う。少なくともバイトテロをSNSに投稿するような「やんちゃ」な層はほぼいなかった(はず)。スマホが普及して徐々にそういった人たちもネットを使うようになった。人が増えればビジネスチャンスを見出す企業が当然現れる。広告、宣伝、詐欺も増える。そして現在、インターネットを利用していない人の方が数的に少ないだろう。1990年代後半から30年ちょっとを経て、とうとう「インターネットは現実になった」のだ。なってしまったのだ。つまんねえな。

 

phaさんのこのエッセイは俺が考えていたのと同じことが、いやそれ以上のことが明晰に書かれていて、俺もこんなふうに思考できたらなあ、こんな文章が書けたらなあ、とため息が出た。何箇所か引用する。

 

 Xは本当にろくでもない。炎上や糾弾や怒りや煽りが毎日のように飛び交って、次は誰を吊し上げればいいかをみんな常に探し続けている。それでも、結局ほとんどの人がXを使うのをやめられずにいる。惨状に文句を言いながらも、いつの間にかそれが日常になってしまい、みんな普通に使い続けているのは安っぽいSFのようでちょっと面白い。いや、別に面白くはなくて普通のことか。この現実世界だって本当にひどいことが日々起き続けているけれど、そんな中で小さな楽しみを見つけながらみんななんとか生きていってるのだから。

 

 昔は「ネットにしかない謎の長文」というものがあったな、と思う。自分の人生のディープな話や、あまり人には言えないようなぶっちゃけた仕事の話など、本では読めない変なものがネットでは読める、という感覚があった。

 今、そういう変わった文章を見かけなくなったのは、ネットが現実と別の世界ではなく、現実の一部分になってしまったからなのだろう。あと、ネットの主流のコンテンツが長文から短文や画像や動画へと移り変わった影響もあるだろう。もうみんな、長文なんて読むのがかったるいのだ。

 

 昔は、自分の人生の話をネットに書けば、どこかにいる誰かに届いて繋がれる、という感覚があった。だからみんなこぞって自分のことを書いていた。

 今は、どこかに届くという感覚は全くない。知らない誰かに届くのは炎上したときだけだ。

ろくに文脈や引用元も確認せず恣意的に切り取られた一部を見ただけなのに正義感()に駆られて拡散したり、脊髄反射で反応するバカが多すぎる。あとみんなもっとスルースキルを磨いた方がいい。Xにせよ、はてなブックマークにせよ。悪名でも無名に勝ると考える目立ちたがりのアカウントがいちばん嫌がるのは無視されることなのだから(「インターネットの画期性は「アンチも客になる」ことにある」──川本裕司『裏切られた未来』)。

 

 昔の雑誌に載っていたコラムや、ブログで書かれていた私小説のような文章を読もうとするなら、今一番近いのは文学フリマで売っている同人誌だろう。ブログの黎明期と同じような、ウェルメイドなものではない、インディーズ感のある文章の冊子がたくさん売られている。

(略)

 物理的な冊子のほうが、過剰に拡散して炎上するリスクが低いので、ネットより心理的安全性が高くて自由に書ける、というのも重要な点だ。昔は「リアルで言いにくい話をネットで言う」という感じだったのに、今は逆転して「ネットで言いにくい話をリアルでする」という感じになってしまった。

30年ちょっとでネットとリアルの逆転現象が起きたのは面白い。

俺の生活に即した事例では、美味しいお店の情報を知りたいときはSNS食べログなどのレビューは見ずリアルの知人に教えてもらうことが増えた。昔はネットのクチコミはある程度信用できたけど、今はできない。他にも、SNSで絶賛されているから釣られて見に行った映画が全然「刺さらない」ことが何度かあり、以降、誰とも知らぬ他人のおすすめはすべて無視することにした。何人か信用できそうな人はいるけれど、悲しいかな、フォロワー数が増え、影響力を持つようになると尖ったところがなくなって日和見的になり、それまでのよさが薄れてしまったりする。献本してもらったり試写会に招かれたりすれば人情的に悪く言いにくいに決まっている。それはわかるんだけど、なんだかなあ、って思う。自由に物を言うためには身銭を切る必要があるのだ。

 

先日、DIC川村記念美術館が休館するというニュースを見た。

 

www.nikkei.com

 

このニュースで初めてDIC川村記念美術館を知ったのだけど、ここには世界に4つしかない、マーク・ロスコの絵だけを飾ったロスコ・ルームという目玉の展示がある。佐倉駅から遠い立地のせいか、ニュース前は平日ならこのロスコ・ルームを独り占めできる日もあったようだが、ニュース以後は混雑が続いている様子。俺もミーハーな気持ちから行ってみようかと思ったけれど、大混雑の中の鑑賞では作品との対話も何もあったもんじゃないし、休館まで週末はもうずっとこの調子だろうし、縁がなかったと思って諦めた(平日に有給休暇がとれれば行くかもしれないがそれなら他にも行きたいところはある)。今やネットは一昔前のテレビと同じだ。話題にすれば見た人がそこに殺到する。観光地へ行けば星がたくさん付いた店に行列ができている。同じ情報をみんなが見ている。そして情報はすぐ拡散される。楽しく快適にやるには大勢が見向きもしない道を行く必要がある。現在、そのやり方を模索してる。検索に頼らない、足を使う、沈黙する、偶然に任せる、失敗を恐れない、こんな感じだろうか。

 

X、卒業したい。

アカウント削除したい。

と常々思っている。情報源としてまだ有用だから思いきれない。でもTwitter時代と比較するととんでもなく劣化している。災害情報を検索すれば偽情報のコピペが並び、バズったポストのコメント欄にはインプレゾンビがツリーを作っている。フェイクニュース、詐欺紛いのビジネス誘導、対立煽り、晒しと炎上、幼稚な大騒ぎ…。地獄のようなゴミ溜めだ。なるべく近づかないに越したことはない。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

今は読む専。もう自分からポストはしない。せめてものできることとして過去ポストの大半を削除した。ついでにこのブログの2017年から2019年の記事のほぼすべても削除した。しょうもない内容だったので。いずれこのブログ自体、消すかもしれない。

 

昔はネットに書かれたあらゆる記事がデータとして永遠に残ると思ったものだが間違っていた。ウェブ上の記事なんてあっさり消滅してしまう。10年前の新聞記事の多くが今もうネットで読めないんじゃないか。個人ブログは検索に引っかからないからその多くが誰にも知られず書かれ誰にも知られず消えていく(そもそもブログ自体がとっくにオワコンなんだろう)。ネットは広大だと草薙素子は言った。空間的には広いかもしれないが時間的にはそうでもないようだ。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

アンケート「あの人のブックマーク」。各人がブックマークしているサイトを紹介して語る。現存するサイトもあればもう消失してしまったサイトもある。

俺がひとつ挙げるなら「第弐齋藤 土踏まず日記」(現存せず)だ。ブログは見れなくなってしまっているけれどXのアカウントは現在も続いている。このサイトを知ったのは当時放映していたアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』に関連してだった。登場人物の一人が読んでいる本を(主に)表紙から推理して特定する、「なに読んでるの?長門さん」というシリーズ記事がとても好きで何度も読んだ。思いっきり表紙が映るのですぐわかる回もあれば背表紙が少ししか映らない回もあるのに全話特定していて感嘆した。書いている方はかなりの本読みでSFに詳しいようだが、「射手座の日」の『スタープレックス』の原書なんてどうやって特定したんだっけ? うまく言えないが「なに読んでるの?長門さん」を読んで、アニメを現実と地続きのものとして楽しむ見方を教えてもらったように思う。「聖地巡礼」的な楽しみ方と通じる。このアニメを作った京アニももちろんすごくて、京アニと第弐齋藤さんと両者あっての記事の面白さだったと思う。そういえば「長門有希の100冊」ってリストもあった。

 

dic.nicovideo.jp

 

もう20年経つのか。当時はリストに挙がってる本を全部読もうと思ったけど(未知の言語で書かれた本も含まれるため全部は読めないんだが)結局全然読まなかった。読まないまま死ぬんだろう。読もうと思って読まずじまいになる本が俺の人生に何百冊あることか。

 

インターネットなしでは生活が成り立たないから利用しないわけにはいかないけどなるべく利用頻度を減らしてやっていきたい。ここはもう俺が好きだった遊び場じゃなくなってしまった。いつまでもしがみつくな。新しい遊び場を探しに行こう。

 

 

 

 

本記事の関連書籍。

2000年代のテキストサイト隆盛期、管理人たちのシェアハウスでの日々を描く小説。実体験じゃないの? と疑いながら読むのが楽しい読み方かも。登場人物全員程度の差こそあれムカつくんだけど、ムカつきながらどんどん読んでしまう。文章がいいせいだ。2000年代の『人間失格』だと思う。

 

ウインドウズ95の登場から能登半島沖地震発生までのインターネット30年の歴史。

当初は楽観的だったインターネットの未来が、炎上、犯罪、偽情報、陰謀論の温床となっていく「裏切られ」ようを網羅的に述べている。

 

 

1989年から2019年までのインターネットの歴史。

宇野さんの発言に頷くことが多かった。

 インターネットが証明したことって、結構残酷な真実があると思うんですよ。

 それは、インターネットが誰もに発信の権利を与えても、「発信に値する中身」を持っている人って、ほんの一握りしかいないということ。そんな中、「いま、こいつには石を投げてOK」というサインが出てる人間に石を投げたり、人をいじめたり、自分にとって都合のいい情報を拡散したりする。これってものすごくハードルの低いことで、発信に値するものを何も持ってない人にとっての自己実現なんですよね。その悪魔の誘惑を与えてしまった面があると思うんですよ。

 

 

 

以下、関連記事。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com