車用のスマホホルダーを買った

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自動車に純正ナビはついているが、ヤフーカーナビアプリの方が使いやすいので頼ることが多い。ナビの画面を見るのにスマホホルダーは必須である。Amazonで検索すると、今の流行なのか粘着テープで装着するホルダーが多い。自分の場合青空駐車なので夏は車内が40度を超える。暑さで落ちたり、剥がしたとき跡が残りそうだから粘着テープのは使いたくない。昔ながらのエアコン吹き出し口に装着するやつはないかと探したがどれがいいのか絞れず、結局Amazonでは買わず、カインズへ行ったついでに探してみた。するとcap styleというメーカーのスマホホルダーがエアコンの吹き出しに取り付けるタイプのを出していた。1300円くらい。親切なことに実物展示があったので持っていたiPhone8を嵌めて実験。問題なし。で、購入。早速取り付けたらえらい便利になって感動。取り付け部分は固定だが、向きはある程度変えられる。マグネットではなく、サイド部分でスマホを挟んで固定する。こんなに便利ならもっと早く買えばよかった。

 

何を買うか決まっているならAmazonをはじめ通販でもいいだろうが、こういう日用品はサイズとか可動域とか材質とか実物を見て判断したいから実店舗で探して購入した方がいい、と自分は思っている。二十年近くAmazonを利用しているヘビーユーザーだがそう思う。実店舗の方が多少値段が高かったとしても、そこはそこ、むしろその値段が普通でAmazonが安すぎるだけ、と思うようにしている。

 

ネット回線の発展・整備により、ネット通販が普及し、今や地方でも何でも買える便利な時代になった。自分もその恩恵を受けている。でも実物を確認してから買いたい場合もある。今回はスマホホルダーだったが、他にも、たとえば本にしても、タイトルだけ見て通販で買うのと、池袋のジュンク堂(新宿の紀伊國屋でも丸の内の丸善でもいいが)で実物を捲って中身を確認してから買うのとでは全然違う。そもそもこの場合は「買わない」という選択もできる。本はAmazonでも実店舗でも値段は変わらないから、むしろ実物を確認できる本屋の方に優位性がある、と自分は見ている。Amazonで買ったら帯が破れた本が届いたことがあったし。たかが帯、でも新刊なのに破れているのが届くとやはり気分はよくない。近所に大型書店がある人が羨ましい。

ネット通販の発達によりそれ以前の時代より遥かに便利になったのは間違いない。だが、物によっては実店舗に優位性があるケースもあるよ、と言いたかった。このスマホホルダーは少し前に書いたパナソニックのボディトリマーに続いて、今年買ってよかったものその2。

 

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二度目の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』をIMAXで見てきた

109シネマズのIMAX、エグゼクティブシート前列中央という絶好の位置で二度目の鑑賞(余談だが109シネマズは、入会費はかかるものの年会費無料の会員になればエグゼクティブシートが通常料金で利用できる素晴らしい映画館である)。緊急事態宣言解除日。平日午前の回で観客は何人くらいだったか…100人いたかどうか。シアター内はだいぶ空席があったが平日にしては客入りがいいと思った。歴史的な観客動員数となった『鬼滅』でさえ——まだ上映しているが——平日午後の日本橋で自分が見たときは結構空いていた。もっとも、このときは公開から1ヶ月が経過していのだが。

 

ノーラン作品をはじめIMAX専用カメラで撮影された映画ならばIMAXの特性を存分に体感できるのだろうが、こう言っては何だが、アニメの場合は関係ないだろう。単純にスクリーンの大きさ、音響の大きさ、それを体感できるというだけのことだろう。集中するとスクリーンの大きさは実はあまり気にならない(自分は近所の映画館の通常スクリーンで『地獄の黙示録』を見た一年後にIMAXで再度見たが、初見の方が圧倒された記憶がある)。ただし音は違う。IMAXの音はやはり迫力が凄い。音が振動となって体に伝わってくる。

 

初見と今回とで感想はあまり変わらない。ただ、ネルフ本部突入以降の展開を忘れていたので、今度は忘れないよう後半集中しようと思いながら見ていた。前回は、人類補完計画ミサトさんの父親の発案だったとか、浜辺で横たわっているアスカが大人になっていたとか、ラストシーンでアスカが反対側ホームのベンチに座っていたとかを聞き落としたり見落としたりしていた。なんでカヲルがネルフの司令官になっていたのかは二度見てもよくわからなかった。加持さんとのやりとりは自分には謎。

 

前回の感想の繰り返しになるが、味方も敵もエヴァのデザインはいいと思わない。8号機も2号機も不細工だと思う。特に後者は、ニコイチ型と言っているからパーツを寄せ集めた機体なのだろうけれど、もっさりしていて、どうも…。コード999ではあんなに巨大化したのだったか、でも何の成果も出せない無駄な覚醒だった。アクションシーンもイマイチ。雑魚をいくら蹴散らしても爽快感や高揚感はない。対ラミエル戦や対ゼルエル戦のような手に汗握る強敵とのバトルが見たかった。それも初号機によるものを。結局、エヴァのアクションに関しては旧劇の2号機対エヴァシリーズのバトルが歴代最高の迫力だった。武器と武器が衝突した衝撃でコクピットのアスカが左右に揺れるシーンは今見ても臨場感が凄い。ただ、本作のアクションは『Q』のときよりはよかったと思う。『Q』の13号機対2号機のバトルは、2号機が三回も画面左手前から右奥に吹っ飛ばされるなど単調でつまらなかった。

 

二度目を見て、シリアスなのはシンジがゲンドウを追うシーンまでではないか、との感を強くした。さくらとピンク髪のクルーが、恩人であると同時に仇でもあるシンジに銃を向けるところまで。以降は、量子テレポートとか、ショッカーみたいなリアクションをする12号機(だっけ?)とか、リビングや教室でのバトルとか、変なCGで描かれた綾波の巨大な顔とか、首のない体(インフィニティ?)の行進とか、ラフ画とかの展開で、何と言ったらいいのだろう、いい意味で真面目に見るのがアホらしくなるような、これはフィクションです、アニメです、ということを強調するような、そういう展開になっていったように思う。『シン』のストーリーは基本的に旧劇をなぞっていると思うが(ミサトさんは撃たれるけれどリツコさんは撃たれないなど変更点も多々あるが)、旧劇でヘビーだった箇所がこんなにもユニークな、軽いノリにリビルドされているのに、年月を経た監督の心の余裕あるいは心境の変化が感じられた。旧劇の儀式の場面には生理的嫌悪感を抱くけれど、本作の串刺しシーンは単調な感じで不快感は全くなかった。初号機が自身を串刺しにするシーンも、旧劇や『Q』と比較しても、暴力的な印象を受けない…というか、バックハグの串刺しを見て、アニメなのに、エヴァの中に人が入ってそう、という印象を受けた。串刺しのあと、息子と対面したユイが笑顔のまま何も言わずに見送るシーンはよかった。ラストシーンは、やはり現実をしっかり生きろ、という意味なのか。これからはエヴァのない世界を生きていこう、みたいな。だからこその実写か? よくわからないが、意味はわからないのに明るい肯定的な気分でエンドロールを迎えられるのだから可笑しい。

 

自分は前半の第三村のパートが好きである。黒波との別れまでは人間ドラマとして普遍的なものだと思う。いわば再生の物語。成長の物語。そして別離の物語。『Q』だと不気味な存在として描かれていた黒波が、『シン』では無垢な存在として描かれていて、本当可愛かった。結局制服にするのかよ、とは思ったが。置き手紙とか、小さい十字架と虹とか、切ない。映画館からの帰り、プライムミュージックで宇多田ヒカルのプレイリストを聴きながら運転していたのだけれど、「Flavor Of Life」が、とくにサビの部分が、黒波とシンジの歌のようにも聞けるな、と思ったりもした。

 

今回、二度目を見たことで自分としては『シン・エヴァンゲリオン』に満足してしまった。もう映画館で見なくていい。ブルーレイが出たら買おう、という強い気持ちも今のところない。が、また気が変わるかもしれない。

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松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』を読んだ

 

わたしが行ったさびしい町

わたしが行ったさびしい町

  • 作者:松浦 寿輝
  • 発売日: 2021/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 著者がこれまでに訪れた数多の土地について、さびしさという観点から述べる。街ではなくて町、というタイトルからも窺えるように、観光地的な賑やかな土地ではなく、ふつうの人がふつうに暮らしている土地が対象となる。それはまた著者自身の過去をめぐる回想の旅ともなる。

 

さびしさとは何か。それを人の生の本質だと看做していた詩人、西脇順三郎の「旅人かへらず」からの引用で説明されるが、有限な存在である人間の小ささ、哀れさ、そんなものを指しての形容であると思われる。祭りのような喧騒とは無縁の、落ち着いた、ふつうの人がふつうに暮らしている町、それが本書における「さびしい町」である。「うつつは淋しい/淋しく感ずるがゆえに我あり/淋しみは存在の根本」。西脇の詩にはそんな一節もあった。いわば生の常態としてのさびしさ。

 

端的な感想として感動した。『川の光』くらいまで著者のエッセイや小説(評論は難しくて読めなかった)を読んできたがその後とくに理由なく離れていて、このたび、コロナ禍で外出自粛が「要請」される中、旅の本を読むのも面白そうと思って読み始めたのだけれど、とにかく文章が自分好みの、流麗で、柔らかく、野暮なところのない(植物の蔦を連想する)素敵な文章で、文章を読む、そのことの純粋な愉楽を堪能させてくれた。

 

ガイドブック片手に名所旧跡を訪れて、事前の知識と眼前の現物とを比較・照合して「確認」をするような慌ただしい旅とは少し違い(そういうケースも出てくるけれども)、目的地への途中で寄った町や、足止めを食った町、自身が生まれ育った町などの、落ち着いたささやかな旅の記述が大半を占める。ほとんどが海外で、自分は無論行ったこともこの先行くこともなく、それどころか初めて名を聞く土地ばかりだったが、それでもすいすいと読めるのは文章の素晴らしさゆえだろう。さびしい町を訪問した際のエピソードにも一抹のさびしさと時にはユーモアが漂っていて上質な短篇小説としても読める。

 

時の経過とともに薄れ、曖昧になっていく旅の記憶と二重写しになる自身の過去についての記述は味わい深い。過去の金銭にまつわる苦労の部分は、あまりそういう生々しいことを語る人ではないと思っていただけに意外な驚きを受けながら読んだ。冒頭に、本書は著者にとっての「昔話」だと断りがあるが、年齢を重ねるにつれ過去を率直に語ることに心理的抵抗が薄まったということだろうか(他人が忖度することではないが)。自分が付箋を貼った大部分は哲学的というのか人生論的というのか、そういった考察が述べられた箇所。

空疎な時間と言うが、空疎とは何で充実とは何なのか、六十五歳というこの年齢になってみればもうよくわからなくなってしまったからでもある。結局、空疎も充実もないのだ、時間はただ流れてゆくだけだ。

あるいは、

恐らく人は、そのつど仮初の、とりあえずの、間に合わせの小さな「安住の地」の数々を、飛び石伝いのように伝いつつ、生きてゆくほかないのだろう。もしこれをかぎりの、決定的にして最終的な「安住の地」に辿り着いたなどと得心してしまったら、そのときはもはや、生きることの意味じたいが失われてしまうのではないか。

 あるいは、

 もちろん、永久に片づかないままの案件が多少残るのはやむをえない。しかし、そうしたしぶとい厄介事に関しては、それさえ解決すれば人生はもとの正常な、ないし健常な状態に戻るなどという夢想じたいが実は空しい妄念にすぎないと思い做しておくに如くはない。ぶざまな出っ張りや醜い凹みを自分の生のうちに抱え込みつつ、それを適当に忘れたりときどき思い出して弥縫策を講じたり、そんなことを繰り返しながらあくまで楽天的に日々をおくってゆくのがこの世の生の常態というものだ。

 

読んでいる間感嘆の連続だったというのに、読み終えてしまうともう内容を忘れてしまい、ただ漠然と、いい本を読んだという充実感だけが余韻として残っている。そしてこの本を読んで高揚した気持ちを、この程度の、引用部分を含めて1900字程度の感想にまとめるのさえ難儀している、というかこの書く時間を使ってもう一度本書の気に入った章——ぺスカーラや長春や台南や上田やコネマラの章——を読み返した方が、遥かに有意義で幸福な時間の使い方だと思いながら書いている。先に、上質な短篇小説集のようだと書いたけれど短編のよいところは何度でも気楽に気ままに読み返せるところにあるのだから、本書もそんなふうに繰り返し読みたい。これまでに読んできた著者の本の中で、本書が一番好きである。そして、本書中で述べられているが、いつか著者に映画についての本を書いて欲しい。

 

映画『ミナリ』を見たが…

 

公開初週の土曜日昼過ぎの回で20人程度の観客しかおらず寂しい感じがした。いや、明日までは緊急事態宣言下なのだから呑気に映画など見ている方が異常なのかもしれない(しかしホームセンターもイオンモールもスタバも混雑していて、道路も渋滞していたが)。

 

前知識はYouTubeで予告編を見ただけ。韓国からアメリカにやってきた移民一家が農業で成功しようとする話と予想していた。正直、自分は家族の物語みたいなのはあまり興味がないので見に行くかどうか迷ったが、アカデミー賞ノミネートということで、まあ賞なんてものは映画の出来不出来とは無関係な業界内の政治だろうからどうでもいいのだろうが、食わず嫌いもよくないし、主演があの素晴らしい『バーニング』のスティーブン・ユァンということで見に行った。

 

で、見ている最中、そして見終わって実感したのは、やはり自分は家族の物語には関心が持てず、好みでもない、ということだった。最後まで眠くならずに見られたのだから特別退屈ともつまらないとも思わない。しかし全く心に残るところがない映画だった。ご都合主義的な展開がなかった点はよかった。冒頭から終盤まで夫と妻の不和は解消せず、はじめはユーモラスだった祖母が脳卒中発症後は別人のようになってしまうのもリアルでいい。ただ、リアルでいい、と言っても、例えば家族と不和だったり、家族に病人がいたりすればリアルでいい、などと言って終わりにはできないわけで、やはり映画には夢が欲しい、希望が欲しい、という思いがある。この映画では、夫婦関係にも祖母の病状にも希望が示されずに終わってしまう。セリが残ったのはおばあちゃんの手柄だなどと言ってハッピーエンドを装っているが、え、これで終わり? という消化不良感が凄い。

 

それとも人生の全ては天の配剤だとでもいうのだろうか。映画では終始、正直なところプロパガンダかと疑いたくなるほどキリスト教のモチーフが登場する。祖母が卒中を起こしたのは寄付金をくすねたからか(倒れた後の彼女が箪笥を見つめていたのは、中に寄付金を隠していたからではなかったか)。主人公が雇った農夫は襤褸をまとった善意の人で(ドストエフスキームイシュキン公爵を思わせる)、十字架を担いで歩いたり、悪魔祓いめいたことをする。監督はキリスト教を本作の重要なモチーフとしたのだろうけれど、その意図が自分のようなキリスト教に疎い者にはわからない。物語の筋に寄与していないのに宗教が何度も登場し言及されるのには少々鼻白んだ。アメリカ人が見れば違和感を感じないのだろうか。そのへんの事情は自分には見当もつかない。

 

農場の成功を求める主人公と、彼に振り回される家族の物語かと思いきや、エンドロールでは「すべてのおばあちゃんに捧ぐ」とある。ということは、フォーカスされるべきは主人公ではなく祖母なのか。たしかにこの映画でもっとも存在感があるのは彼女である。でも彼女は中盤で倒れて以降は前半の輝きを失ってしまい、舞台の中央から去る。何が言いたい映画なのかわからない、というのが、自分の端的な感想である。心臓が弱くて走れない、という息子の設定も、なるほど、高度情報化社会に生きる我々にとってもっとゆっくり生きろとか、農業で成功するには牛歩で進む肚が必要だとか、そういう暗示かなと思って見ていたが、そんな様子でもなく、ラスト近くで祖母のために無理をおして走ることの感動を演出するためにあったようで、拍子抜け。映像的に記憶に残る場面もなかった。よかったのは、この映画を見た多くの人も笑っただろう(自分も声出して笑った)祖母の飲尿シーン。ここのユーモアは最高だった。クライマックスの炎上は、『バーニング』の「ビニールハウスを燃やしている」という台詞を思い出して妙なアイロニーを感じた。

 

パナソニックのボディトリマーを買った

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品番ER-GK60。これで剃る。要らん箇所、邪魔な箇所の毛をひたすらに剃る。

 

以前はフィリップス製のを使っていたが、新しく買ったこちらは刃が丸くなっているのでアタッチメントなしでダイレクトに肌に当てられる。比較にならないほど使い勝手がいい。実際、ドライ状態で剃ってもT字で剃るのと同じくらいしっかり剃れる。T字だとすぐに詰まってしまうが、こちらは一枚刃なのですいすい剃れる。ただし敏感な箇所に関してはセーフガードのアタッチメント必須。全剃りのほか3ミリまたは6ミリに揃えることも可能。毛のない脛、いいものである。たとえおっさんであっても。コロナ禍により以前は毎週のように通っていたスパ銭=サウナに行かなくなったので大胆にいった(あんまりトゥルトゥルだと人の目が気になる)。これは現在、今年唯一の、「買ってよかった」一品。すごい便利。重量140グラム。全身を剃るのに20分くらいかかったが、軽いので辛くなることはなかった。8時間充電で40分使用可能。素晴らしい製品だが一つだけ難点を挙げるとすれば、充電が完了した表示が何もないこと。充電するとランプが点き、完了しても点いたままなので完了したかどうかは時間を計測するしかない。これはいささか不便。

 

映画『あのこは貴族』で、山下リオ水原希子に、もしこの先二人とも結婚できなかったら、いつか一緒にあそこの毛を脱毛しようと持ちかける。曰く、老後、介護される際に清潔でいられるからと。今から老後の話か、と水原は呆れるものの同意する。まるで、夏休みに一緒に髪を染めようと約束した高校生の頃のようだ、と笑いながら。このシーンはよかった。

 

実際、ナチュラルのままでは不潔過ぎる。見た目もよろしくない。自分は部屋に抜け毛が落ちているの嫌さに剃るようになった。自分もあと何年かして、45か、それとも50には、ムダ毛の永久脱毛をしようと考えている。むろん老後のために。ガワンデの『死すべき定め』で、老人が、一人で用を足せることのありがたみについて語る箇所があったが、自分もいつかは誰かに介助してもらうようになるのだろうから、そのときに備えての脱毛である(自分なんかのために誰が介助してくれるのだろう)。同じ理由から中高年の脱毛希望者が増えていると何かで目にしたような…いや、ステマか? 自分は男にしては体毛が薄い方だが、35を過ぎたあたりからホルモンの変化か濃くなってきた。何から体を守ろうというのか。その頃から、反対に頭髪は細くなってきた。あるはあるが細くなった。白髪は全くないのだが…。頭髪は薄くなり、体毛は濃くなる皮肉。プログラムの欠陥。

 

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江戸東京博物館「古代エジプト展 天地創造の神話」と、すみだ北斎美術館へ行ってきた

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3月12日金曜日。朝一で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見たあと、両国駅へと向かった。表題の展覧会を見るためである。

 

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 美術館や博物館へたびたび行くほどの文化資本の持ち合わせはない(こちとらブルーカラーだぜ)。年に一回、行くか行かないか、その程度である。行くのはやはり上野が多い。というかほとんど上野である。近年で記憶に残っているのは東京都美術館で開催されたブリューゲルの「バベルの塔展」と、ムンク展である。前者は、細部の拡大図から精緻さが窺えて面白かった。後者は、福永武彦の小説『死の島』の新潮文庫版の表紙の絵(「浜辺にいる二人の女」)が見られて嬉しかった。

 

古代エジプト展の開催は偶然Twitterのタイムラインで知ったのだったか。特別古代エジプトにロマンを感じているわけではないし、『とーとつにエジプト神』は一話しか見ていない人間だが、「死者の書」の公開があると知り、興味を持った。昔の人の死生観や、彼らが想像した死後の世界に関心がある。女の人を誘うと、行くと言うので一緒に出かけた。緊急事態宣言中であるが、平日ならば館内も途中までの交通機関も人は少ないだろうと予想した。電車は空いていたが、後述するように館内はそこそこ人がいた。

 

午後2時頃、両国駅到着。西口を出て、すぐ右側に国技館。その前に大きく江戸東京博物館の案内看板あり。徒歩3分程度で着く。入場する前に、アニメキャラ化したアヌビスが巨大モニタでエジプト神話の解説をしてくれる。曰く、初めに海があった。そこから全ての生命が生まれた。が、やがて世界の終わりが訪れ、全ては海に沈んでいく。「ただいま混雑」の表示があり、入るとたしかに人が多い。平日だからがら空きだろうとの見込みは甘かった。館内撮影可なので、一部展示はスマホを構えた人が撮影順番待ちの列をなしていた。入ってすぐに冥界の神アヌビスの小さな像。山犬が座っているだけのようにも見える。当時は墓地周辺に山犬が多かったから、転じて冥界の神は山犬の頭を持つデザインになったとか何かで以前読んだ記憶がある。もう少し行くとバステト神の像。本展覧会でもっとも列の長かった展示。座っている猫のデザイン。「癒しの女神として人気があった」との解説。まあ、そうでしょうね。

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ほかにも神々の像や彫刻など。ホルスもいた。続いて少し開けたスペースでは棺の陳列。紀元前のものにしてはサイズが大きく感じた。160cmくらいの身長でも入れそう。死者の内臓を取り除いてミイラにして、胸にスカラベの細工を置き、死者の書を持たせて葬る。死者は冥界の入り口で42柱の神に会ったあと、アヌビス神によって心臓を天秤に乗せられ、真実の羽と量られる。罪によって羽より重いと怪物に食われてしまうが、軽いと(バランスが取れていると?)死後の理想郷へと行くことができる。この秤にかけられる時にバランスを取る役目を果たすのが死者の書だったとか、あれ、書かれている呪文が大事なんだったか? そのへん、アニメで解説してもらったがもう忘れた。

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死者の書のデザインは素晴らしい。紀元前のものとされるが、人物画は今日の目でも見てもキャッチー。上の左側の女性が死者だろうか、ミイラの包帯を巻いているように見える。右側にいる座っているのが、死後の国を統治するオシリスか。下の方が死後の経過がわかりやすい。42柱の神々の元を過ぎたあと、アヌビスによって秤に心臓を置かれ量られる。右端の白い衣装の人が死者で、左端にいるのがオシリスか。その前にいる獣が、罪に汚れた心臓を食う怪物アメミトか。当時の人たちにとっては呪物、あるいは世界を説明する物語だったのだろうが、今日の人間はアートとして死者の書を鑑賞する。展示のそばにある最小限の解説を読むだけではわからないことだらけなので、今後は積極的に音声ガイドを利用したい。写真は絵の部分しかないが、実際の展示は大半がヒエログリフのまさしく書物だった。今回の展示はベルリンの博物館の所蔵品だが、来月は渋谷でライデンの博物館の所蔵品が展示される古代エジプト展がある模様。こちらはミイラ推しっぽい。

 

江戸東京博物館から総武線の線路沿いに10分くらい歩いて行くと、すみだ北斎美術館がある。せっかく両国まではるばる来て、次またいつ来られるかわかったものではないから、こちらにも行った。最初、どこから入ればいいのやら分からず、建物の周囲をぐるぐるした。斜めの切り込みの間を通って入るとき、沖縄の斎場御嶽を連想した。現在、筆魂展というのをやっているようだったが、常設展のチケットを買った。JAF割引のおかげで二名600円程度で入れた。

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常設展の展示フロアまではエレベーターで上がった。フロアは決して広くはなかったが、自分たちを入れても客が10人くらいしかいなかったので快適に鑑賞できた。北斎の年譜と並行する形で作品が展示されている。と言ってもここにあるのはすべてレプリカらしい。北斎といえば知らない人でも知っている富嶽三十六景。これが完成したとき、彼は70歳を過ぎていたという。もっと若い頃の作品だと思っていた。江戸時代に90歳まで生きたというから驚く。しかも生涯現役。引越し回数90回以上とか、吉良上野介の家臣が曽祖父だとか、健康のために自作の漢方を作って飲んでいたとか、豆知識の表示も面白かった。タッチパネル式のガイドでは北斎漫画や富嶽三十六景が見られる。後者は部分拡大も可能。「下野黒髪山きりふりの滝」で滝が樹の根のように表現されていたり、大胆な余白があったり、山や森を黄や青で描いていたり、今日の目で見ても斬新。「北斎仮宅之図」を再現した模型もあった。紙屑が散らかった部屋の中、こたつから上半身だけ出して畳の上で描いている年老いた北斎と、父親の様子を火鉢に寄りかかって眺めるお栄の模型。北斎の手の甲の質感が気持ち悪いくらいリアルだった。展示は40分くらいで見終わった。ショップで赤富士デザインのハンカチを土産に買った。

 

外へ出たら東京スカイツリーが靄の向こうに見えた。

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映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

 

途中からネタバレあり。 

3月12日金曜日。有給をとって朝一8:30の4DXにて鑑賞。エヴァをアトラクション的に体感したかったわけではなく、むしろ初見4DXだと体感の方に気を取られて内容についていくのが疎かになるかもと思ったのにあえて選択したのには理由がある。通常シアターに比べて収容人数が少ないこと。前後の座席の感覚が空いていて後ろから蹴られる心配がないこと。揺れるので飲食する人が少ないこと。鑑賞料金は割増になるが、ユナイテッド・シネマは金曜日サービスデーなのでよしとする。平日朝一の回に来るのは熱心なファンだろうからマナーはいいと思うが、横でポップコーン咀嚼音聞かされたり、後ろから蹴られるのは避けたかったので。自分は他人の挙動が気になるケチな人間です。

 

普段はメガネ着用だが、マスクで曇ると思ったのでコンタクトにした。特別な日だし、身なりはちゃんとしておこうと、髭を剃り、コロナ禍以来初めてかもしれない久しぶりにワックスで髪を整え、CK1を付けて、ジャケットを羽織って映画館へ向かった。

 

映画の感想の前に、自分とエヴァについて少しだけ書いておく。リアルタイム世代だが自分はリアルタイムでは見ていない。テレビ放映当時か終了後だったか、高校の友達か同級生かがタイトルを口にしているのは聞いたことがあったが興味なかった。アスカ・ラングレーというヒロインの名前が、昔父親が乗っていた車と同じだったので記憶に残った。その後しばらく経ってからテレビ版のVHSをレンタル屋で借りた。なぜ見ようと思ったのかはもはや覚えていない。4巻くらい借りたところで飽きて見るのを止めてしまった。使徒と呼ばれる敵が出てきて、なんだかんだあって撃退する。そのパターンが単調に感じられた。全話を視聴し、劇場版の「終劇」を見届けたのはもう何年か経ってからだった。見終わったのにわからないことだらけだった。専門用語もさることながら、テレビ版の「おめでとう」と旧劇の「気持ち悪い」が全然意味がわからなかった。当時の自分は、あれが、現実に戻れ、というメッセージだと理解すらできなかったのだ。その頃はWindows Meの頃だったか(違うかもしれない)、疑問点をネットで検索して個人HPとかで読んでみたがわかるようでわからなかった。結局自分事ではなかったのだ。旧劇で描かれた夥しい死の描写がもっとも強く印象に残った。

 

…というように自分は熱心なエヴァンゲリオンのファンではない。呪縛されているものではない。でも新劇場版は『序』から『Q』まで劇場に足を運んだ。もしかしたら『破』でようやくエヴァンゲリオンを面白いと感じ、好きになったかもしれない。ユーモアありアクションあり、エピソード中もっとも盛り上がるゼルエル戦はテレビ版以上に熱い展開で、2号機の裏コードなんてサービスもあり、楽しく鑑賞した。確か劇場で三回は見た。同じ映画を複数回見たのは、『破』が初めてだったかもしれない。その後東日本大震災があり、自分は会社を辞め、一年近く無職期間を過ごしたのち現在の会社に就職した。『Q』はちょうど再就職してすぐの公開だった。公開日が土曜日で、初日に行った。多くの人がそうだったように、見て戸惑い、暗い展開と暗い色調に気が滅入った。内容が意味不明で、アクションシーンはつまらなく、あんだけ待たせてこれかよ、そしてまた勿体ぶった意味ありげな用語の多用と投げっぱなしの展開かよ、と落胆した。一部の、これでこそエヴァだ、みたいな声には、これがエヴァならやっぱ自分はついていけねーわ、と思った。それでももう二回劇場で見た。三回見て、やっぱつまんねーわ、と結論した。完結編を待つ間にBSプレミアムでテレビ版と劇場版二篇が放映されたので録画して、もう一度最初から最後まで見て、挫折せず最後まで見られるくらいには面白いし、映像的にかっこいい作品だとは思うけれど、呪縛されるほどにははまれない、というのがエヴァに対しての自分の評価だった。

 

自分にとっては、「あの」エヴァが遂に終わる、ということより『Q』の時は入社したばかりだった会社に今も在籍し続けて、こうしてその続編を見に行ける境遇にいる、ということへの感慨の方が強かった。9年も同じ会社にいる、というのは人生で初めての経験である。その労いとしての鑑賞、そんな気持ちゆえの当日朝の高揚だった。もちろん作品自体も、『Q』からどうやって終わらせるのかを楽しみにしていたから、公開日の月曜からずっと映画に関する一切の情報を見ないよう気を付けて、何の知識もないまっさらな状態で当日に臨んだ。アマプラで冒頭の12分が期間限定公開されていることも知らなかった。知っていたらそれくらいは見て行っただろう。

 

で、話を戻す。開館間もない映画館のロビーに入ると、客は50人くらいいた。発券機に15人くらいの列、カウンターに30人くらい、コンセに5人くらい。『Q』公開時のようなお祭り感はなかったのは、平日なのと、コロナウイルスによる緊急事態宣言中であるためだろう。『Q』の公開初日はスタッフがコスプレしていた。もぎりに並ぶと、自分の前の待ちきれない客が、前の客がまだ検温・チケット確認をしているのに、ディスタンスの足型表示を無視してすぐ真後ろに並んでいた。落ち着け。気持ちはわかるがルールは守ろう。シアターに入れば、別の待ちきれない客が手すりと手すりの狭い隙間をショートカットして自席へ向かおうとした。落ち着け。映画は逃げやしない。自分の横には誰も来ず、安堵。中央ブロックの最前列中央を予約していたのでどのくらい席が埋まっていたかはよくわからないが、たぶん客の入りは半分くらいだった。

 

以下、ネタバレあり。

見終わって感じたのは、まずは無事『エヴァンゲリオン』という巨大な作品が完結したこと、それを見届けられたことの嬉しさだった。改めて、新劇場版が「リビルド」であることを意識させる映画だった。『Q』にはなかったユーモアが随所に見られ、庵野監督の余裕が感じられた。饒舌に意図や内心を説明・吐露する人物たちを見ていて、ああ本当に終わるんだな、と思った。自分は序盤の農村シーンが最も見ていて楽しかった。消息不明だった同級生たちの登場は嬉しかった。彼らは立派に大人になり、親になり、共同体の中で居場所を見つけている。なのにシンジは14歳のまま、カヲルの喪失や自分の無力を嘆き、拗ねている。でも旧劇の「もっと優しくしてよ」という他責は、「なんでみんなこんなに優しいんだよ」という自責に変化していた。泣きながらレーションを食うシーンに、TVドラマ『カルテット』の、「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」というセリフを想起した。黒波はぽか波のような可愛いキャラになり、それゆえ彼女の喪失は悲痛だったけれども、それを乗り越え、自ら志願して戦いに赴くシンジからはメンタルの成長が感じられた。ミサトさんの、「行きなさいシンジくん」→「あなたはもう何もしないで」も動機が説明された。最後に髪型を戻したのはサービスだろう。終盤の、マイナス宇宙(精神世界?)のあたりからは展開が難しくて、楽屋裏のバトルとか、綾波の巨顔とか、失笑してしまったシーン以外はもはや忘れている。セルバンテスは、自作『ドン・キホーテ』が人気を博して贋作が作られるのに嫌気が差し、続編が作られないよう主人公を死なせて終わりにしたが、本作も同じように、もはや続編はないことを示すように全てのエヴァが廃棄される。全てのエヴァといっても、その七割くらいがポッと出の知らない機体なので感動はなかったが。旧劇をポジティブなトーンでなぞっている印象。「あの頃はあんたのことが好きだったんだと思う」というアスカの台詞は、時の経過を感じさせた。我々だって、かつて恋愛感情を抱いた人にいつまでも焦がれているわけじゃない、時間が経つうちに、気持ちは褪せ、別の人を好きになっていく。それが自然の道理だ。このあたりの機微は、新海誠監督の『秒速五センチメートル』と比較すると、ちょっと面白い。

 

結局、現実に帰れ、あるいは現実を生きろ、そういう話だったのだろうか。ラストには驚いた。スーツにネクタイ姿のシンジがマリと一緒に駆け出して終わり。そんなことを鑑賞前の自分に言っても絶対信じなかっただろうに、見てしまうと、まあそれはそれでありかな、という気がしてくるのが、現実の強さ、凄さだろうか。しかし…なんでマリなのかな。新しい世界への出発を象徴するのに、新劇場版から加わった新しいキャラがふさわしいと判断したのか、それとも他の理由があるのか。二人が親しくなっていく過程の描写なんてなかったので唐突すぎて違和感がすごい。これはドラクエ5で、公式が、ビアンカでもフローラでもなくデボラを選んだようなものだろう。いっそ最後に手を差し伸べるのはカヲルでよかったのでは、と思えてくる。シンジが心の中のカヲルと会話するシーン、自閉的かもしれないが、自分はいいと思った。 

 

全編を通じて説明過多なのは、わかりやすかったので好印象。でも、アクションシーンがことごとく何をやっているのか見づらいのはマイナス印象。これは自分が前に座り過ぎたせいかもしれないが。左右の端に人が映る構図が何度かあったが見づらかったので、もう少し後ろの席にすればよかった。もう一度、今度はIMAXで見ようとは思っているが…。エヴァの機体も敵も、みなデザインがイマイチだった。アスカの邪眼解放コード999は霊体化して大暴れするのかと一瞬ワクワクしたが全然そんなことはなくがっかり。ただの噛ませじゃないか。最後にかっこよく立ち回る初号機が見られなかったのも残念。シンクロ率無限大という熱血設定があったのだからゼルエル戦以上の男の戦いが見たかった。ラスボスたるゲンドウには、しょーもねえなあ、という感想しかない。アスカやシンジが自分の過去の恋愛感情にきっちりケリをつけたのに対して、いつまでも死んだ妻に執着し続けているのは対照的で、しかもそれが28歳の息子がいるほどのいい歳のおっさんだというのは滑稽。「大人になれ、シンジ」とか言っていたゲンドウが、実は一番ガキだったのではないか。「大人になったな、シンジ」じゃねーだろ。お前こそ大人になれや。過去を振り返らず前を見てしっかり生きろや。本作を見て、ゲンドウは自分の中でこれまで以上にしょーもないダメ男キャラとして更新された。アディショナル・インパクトとか、連発されるそういうエヴァ用語も、途中から厨二的な恥ずかしさなしには聞いていられなかった。一方で、リツコさんは印象がいい方に一変した。問答無用でゲンドウに発砲したの最高。旧劇ではダメな男に引っかかってヒステリー起こしているみたいなキャラだったからあまりよく思っていなかったが、本作ではメンタルが強く、最初から最後まで頼もしかった。冒頭のパリ攻防戦、陽電子砲の直撃を恐れない仁王立ちの貫禄。冬月もよかった。チートキャラ。

 

『スカイウォーカーの夜明け』を見たとき、監督はとにかくシリーズを終わらせることだけを考えて作っているように見受けられ、大変そう、と思ったものだが、本作でも似たような印象を受けた。しかし、とにかく、終わったのだ。あのエヴァンゲリオンが、とうとう。それはやはりめでたいことだし、監督はじめスタッフの方々には感謝と労いの気持ちしかない。本当にお疲れ様でした。本当にありがとうございました。エヴァンゲリオンは完結したけれど、自分の人生はこれからも続く。『Q』から『シン』までの9年間が続いてきたように、『シン』の後もまだ。

 

 

 

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