母の誕生日に

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少し前に母が73回目の誕生日を迎えた。プレゼントはもう何年も現金。仕事帰り、コージーコーナーに寄ってケーキを買った。ショーケースを覗くとどれも美味しそうで目移りしてしまいなかなか決められない。結局両親にはベタにショートケーキを選択。四人家族だが弟は家を出ているので3個買って帰宅。

 

母は(たしか)要介護2の身である。2011年の夏に脳梗塞で倒れた。夕方、散歩の途中でまっすぐ歩けなくなり、携帯でその旨を父に連絡したが、迎えに行こうかとの問いに大丈夫だと返事をし、自力で帰宅した。そのあとの夕食の際に箸がうまく使えず、父も変だとは思ったが、その日は日曜だったので、とりあえず今夜一晩様子を見て、明日月曜朝から病院に行ってみよう、ということになった。寝室は二階だが階段を昇るのが危険なので、その夜は一階リビングのソファに横になった。翌朝になると、ソファから起き上がれなかった。救急車を呼び病院に搬送され脳梗塞と判明した。前日の夕方に起きていたのだ。異変に気づいた時点で病院に行っていればもっと軽く済んだかも知れなかったが、親類に脳梗塞をやっている人間がいなかったため緊急を要する異変だとは気づけなかった。結果、右半身に麻痺が残った。今では右手はほとんど動かせないし、歩く時は足を引きずる。舌もうまく回らない。少ししてから脳梗塞の影響なのかわからないが、認知症を発症した。とはいえ軽度なのでコミュニケーションは問題なくとれる。トイレは一人で行けるが、半身が不自由なので風呂は一人で入れず父が補助をして体や頭を洗っている。食事は左手でスプーンを使って食べる。外出の際は杖をつく。その後十年間再発なく現在に至っている。

 

自分が子供だった頃から母はメンタルを患っていて、何かというとすぐ寝込んだ。鬱だったのだろうか。今でもよくわからないし今更聞くつもりもない。あちこちの病院へ行っては薬をもらって来て、それを飲んで、雨戸を締め切り電気も消した真っ暗な寝室で寝ていることが多かった。普通に会話していても突然豹変して、いきなり怒鳴ったり平手打ちしてくることがよくあった。小さい頃はよくビンタされた記憶がある。幼い自分にとって母は脅威だった。怖かった。食事や洗濯など家事の一切は父がやっていた。自営業だったから時間の融通がついたのだ。もし会社勤めだったら…どうなっていただろう。辞めざるを得なかったか、それとも自分たち兄弟がもっと早く自立しただろうか。自分はキッチンに立っている母を見た記憶がない。包丁を向けられたことはあったが。

 

母にまつわる一番暗い記憶は、小学校低学年くらいの頃、前後の経緯はもう忘れてしまったが、二人で居間にいたときに、お母さんと一緒に死のう、と首を絞められたことである。自分の首を絞めながら、母は、お前はお母さんの首を絞めるんだよと言ったが、子供がそんなことできるはずがなく、ただ母が自分の首を絞めている格好になった。様子に気づいた父が飛び込んできて母を張り倒して怒鳴りつけた。叩かれて母は泣き喚いた。自分は呆然としていた。母の手の力はどれほどの強さだったか、もう覚えていない。本気だったのか、それとも魔がさしたのか。今となっては真相はわからない。おそらく母自身にもわからないだろう。ただ、母親に首を絞められた、という事実だけが残った。とはいえ、世の中にはもっと悲惨な家庭がいくらもあるだろう。もっと大変な目に遭っている子供がいくらもいるだろう。だからこの出来事を大仰に書くつもりはない。ただ自分という個人にとって大きな出来事だった、と述べるに留める。虐待されていた、とも思っていない。自分は虐待されてはいなかった。メンタルを病んだ母親とともに暮らしていた子、というだけである。母の母(自分にとっての祖母)はまだ若い時分に自ら命を絶った人だと父から聞いたことがある。自分が物心ついたときにはすでにこの世にいなかった。「あれも可哀想な女なんだよ」とずっと昔に父は漏らした。

 

その後、こちらが成長して体が大きくなるにつれ母への恐怖は薄らいだ。あくまで薄らいだだけである。子供心に植え付けられたイメージを払拭するのは不可能で、だから恐れる気持ちはなくならなかった、と思う。しかし中学生になる頃には暴力を振われることはなくなったし、怒鳴られれば怒鳴り返した。その後の経緯は面倒なので省くが、結局就職して自分が家を出たのは母と一緒にいたくなかったからというのが大きい。母が脳梗塞で倒れたとき、自分は実家にいなかった。だから上の記述は家族からの伝聞になる。病院へ見舞いに行って久しぶりに再会した。

 

認知症になって母は幼児帰りした。大人の分別が一応はあるけれど(一人で買い物に行ったりする)言動は幼い子供と大差なくなった。基本的には週の半分程度を通いで施設へ行って過ごし、家にいるときはテレビを見ているか(全然集中して見ていないが)、寝ているか、塗り絵や間違い探しをしている。自分が帰宅すると、飲酒する自分と会話する。頭の回路が混線しているのか、時々なんでもないことで笑い出したり、突然不機嫌になって黙り込んだり怒鳴ったりすることもある。老いて体が不自由になった今の母は、自分にとって恐ろしい存在ではなくなった。庇護すべき存在になった。昔なら考えられないが、今では一緒に出かけることもある。出かける時は杖を握っていない方の手を握って一緒に歩く。母は老いたし、自分も歳をとった。時間の経過とともに何事も変化していく。人と人との関係もその例に漏れない。良い方にも悪い方にも。

 

母を見ていて思う。若い頃からどういうメンタルの病いを患っていたのか知らないが、本人もきっと辛かっただろう。けれども(軽度の、という保留はつくが)認知症を発症して幼児帰りした今の母は、その辛さから解放されたように見える。右手は動かない、足は引きずる、舌はうまく回らない、ドライブが好きだったがもう運転はできない(免許は返納した)、という不自由な身にはなってしまった。が、ふとしたとき、「今が一番幸せだ」と言う。不自由な体になってなおそう言う。アメリカの精神科医サリヴァンは「精神医学は対人関係の学である」と言った。生来の器質的な面もあったかもしれないが、母は昔から引っ込み思案で対人関係の苦手な人間だったので、そのストレスから精神の失調を起こしたのかもしれない。いや、逆にそういう人間だから人間関係のトラブルを起こしやすかったのか。とにかく、認知症はそうした他人への拘泥や執着を本人からだいぶ取り去っているように傍目には見える。完全にではない。今でも施設の人間関係について不平を口にし、乱れることはたびたびある。施設で面白くないことがあった日の夕方は大抵調子が悪い。昔から嫌なことがあるとそれを脳内で反芻して怒りや不快感を増幅させる傾向があった。そういうのも一種の自傷行為だと思う。精神的な。

 

身内の恥をこうして書く意味は何だろうか。気持ちの整理か。すでに述べたようにもはや中年となった自分にとって母は脅威ではなくなっており、過去の、特に子供の頃に受けた仕打ちの数々についての恨みや怒りは薄れている。気持ちの整理はとうについている。というか今更どうでもいいという気持ちが強い。憐れみと多少の好意、それが今自分が母に抱いている感情である。繰り返しになるが、時の経過とともに人と人との関係は良くも悪くも変わっていく。自分と母とて現在の関係がこのまま継続するかわからない。しかし73歳の母はもうあまり長くは生きないだろう。できれば自分は今のままの関係を最期まで続けていきたいと願っている。母が死んだら自分はきっと泣くだろう。

東京国立博物館で「国宝 鳥獣戯画のすべて」を見てきた

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4月24日土曜日。女の人を誘い、上野の東京国立博物館の平成館で開催されている「国宝 鳥獣戯画のすべて」を見に行った。東京都は新型コロナウイルス感染拡大による三度目の緊急事態宣言が翌25日から発令されるため、5月11日の宣言期間終了までトーハクは休館となる。休館前日のチケットを買っていたのは運がよかった。

 

13時からの入場組。時間を少し過ぎてから平成館へ行くと、すでに入場待ちの列ができていた。人数を区切りながらの案内。昨年行ったあいみょんのコンサートもこんな感じだったなと既視感を抱いた。中へ入ると会場は第一と第二に分かれていて、第一会場の前にグッズ売り場があった。鑑賞前に買うか一瞬迷ったが、だいぶ混雑していたのと、目当ての図録は分厚くて重いとTwitterで見ていたので荷物になっても嫌だから買い物は後回しにした。600円払い、山寺宏一さんによる音声ガイドをレンタル。音声ガイドを初めて利用したが、待機中とか移動中に解説を聞けるのでとてもいい。本体の液晶で画像表示する機能もあった。今後は、基本、音声ガイドがある時は借りる方針で行こうと思った。ただ悲しいことに今回は不調の機材を引いてしまったらしく、途中から音声が切断・接続を繰り返すようになり、当初はプラグを抜き差しして対応していたが、終盤はイヤホンから音が聴こえず本体から漏れしてしまうようになったので利用を断念した。他の利用者を見ると問題なさそうだったので通信状況ではなく個体の問題と自分は感じたがどうか。残念。まあ、こういうこともある。

 

鳥獣戯画は12世紀から13世紀にかけて複数の作者によって書かれた全四巻の絵巻。鳥獣戯画と聞いて真っ先に連想する兎や蛙や猿が登場するのは甲巻。それに、現実と想像上の動物が描かれた動物図鑑的な乙巻、人物戯画と動物戯画が描かれた丙巻、人物主体の丁巻と続く。四巻すべてが公開されるのは展覧会では初めてとのこと。自分も甲巻以外の鳥獣戯画は初めて見た。全四巻中、やはり甲巻の、現代でも通じるユーモラスな動物のデザインが際立っていると感じた。兎と猿の追いかけっことか、兎と蛙の相撲とか、笑いの表現とか、漫画的表現の元祖になるのだろうか、もっと古いのがあるのか、とにかく普遍的な表現であり時代の懸隔を感じさせない。鳥獣戯画の肝であるこの甲巻を動く歩道で見る趣向は、本展覧会の目玉だったと思うが、とてもよい試みだった。企画展では入り口から自然と鑑賞の列が出来て、前の人が見終わったらケースの前へ移動して、自分が見ている間次の人がすぐ横でこっちがどくのを待っていて…みたいな感じで、人気の企画展であればあるほどゆっくり落ち着いて見るのが難しいと常々感じていたので、押し合いへし合いするでなく、前列の頭越しに見るでもなく、緩やかな速度で初めから終わりまで最前列で鳥獣戯画が見られたのは貴重な体験だった。難しいだろうが、今後他の展覧会でも同様の試みがされるといい。

 

甲巻のような動きの表現はあまりないものの、乙巻も楽しい。絵巻の前半では馬や牛など実在の動物たちが描かれていたのが後半になると麒麟や獏や龍など想像上の霊獣が描かれるようになる。鳥獣戯画は可愛く描かれているので親しみやすく、美術だ、芸術だ、みたいな高尚さをあまり感じさせない。丙巻丁巻も面白みはあるけれど、とくに丁巻のヘタウマ的なタッチはインパクトがあるけれども、やはりユーモラスな動物キャラを期待していた自分としては甲巻が第一、続いて乙巻が素晴らしいと思った。

 

鳥獣戯画を一通り見終わったあとは、この絵巻を保管している京都の高山寺明恵上人に関する展示となる。自分は集中力があまりない人間で、ここに至るまでにだいぶ疲れてしまって、明恵上人の展示部分は飛ばし飛ばしの鑑賞。この人、夢日記をつけていて、夢にいい女が出てきたと思ったらありがたい仏様(だったか?)とか、ちょっと色っぽい夢の話がいくつかあった。ような気がする。明恵の坐像、大事にしていた二つの石、タツノオトシゴのミイラ? 等ゆかりの品々。この人は犬好きだった由。個人的に所持していた仔犬の彫像が本展最後の展示物で、ちょっと首を傾げてつぶらな瞳でこちらを見つめる仔犬像の愛くるしさといったらなかった。

 

総括。本展でとくにいいと思ったのは、動く歩道で鑑賞する甲巻と、兎と猿のレースを描いた断簡(躍動感がすごい)と、最後の仔犬の彫像。やっぱりユーモラスなものや可愛いものはいい。観賞後、入場前と全く変化なく、ソーシャルディスタンス不可能なほど混雑しているグッズ売り場をうろついて物色したが、人が多くて疲れてしまい、図録のみ購入。重くて、この後持って移動する際に難儀した。動物をめぐる鳥獣戯画スピンオフ展示も開催していて、せっかくだからそちらに寄ってもよかったのだが、なんだか人の多さに疲れてしまい、女の人と二人、館外へ出てベンチで休憩。前回ここに来たときは夜で、やはりベンチに座ってジュースを飲みながら、増田みず子の『シングル・セル』についてあれこれ話した(自分が一方的に)記憶がある。結局他へは寄らず出発。展覧会、とてもいいものなのだけれど、大勢の人でひしめく中での鑑賞は、美術を鑑賞する環境として違和感がつきまとう。なんかこう、もっとゆったりゆっくり、展示物と対話するように(というと気障な言い方になってしまうけれど)できないかなあと行くたび思う。以前、群馬県立館林美術館で見た、鹿島茂さんのフランス絵本を展示する企画展は、人が少なめで、展示は多数で、ゆったりゆっくり回れて、箱の素晴らしさも相俟って、とても豊穣な時間を過ごせた充実感・幸福感があった。ああいう時間を過ごしたい。

 

トーハクを出て、休園日の上野動物園を過ぎると上野東照宮の前に出た。相方は御朱印集めが趣味なので、寄って行くか尋ねると行きたいという。入るとぼたん園で春のぼたん祭り開催中とあった。ついでだから寄る。東照宮の観覧料金と合わせて一人1100円(合わせてチケットを買うと別々に買うより100円お得とのこと)。カメラを持って来ていたので撮影していたら突然ファインダーが真っ暗になる。バッテリー切れ。朝、家を出るときは十分にあったような…。もともと大した写真が撮れる腕じゃないので気にしない。花を綺麗に撮れたら楽しいだろうな、と思う。

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東照宮の前は人だかり。でも中へ入る人は少数らしく、自分たち以外には誰もおらず。後から何人か来たが、土曜日なのに閑散としていた。やはりお金を払う、というのがハードルになるのだろう。上野公園へも、上野東照宮へも何度も来ているが、自分も中へ入ったのはこの日が初めてである。絢爛な佇まいは日光東照宮を彷彿とさせる。外の唐門の龍の彫刻は左甚五郎の作だという。

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公園を出て、パンダ橋を歩き、アトレ内のつばめグリルで遅い昼食というか早い夕食というかを食べる。緊急事態宣言発令に伴い、アトレは25日から宣言中は休業するとの表示があった。自分の住んでいる市も25日から「まん延防止等重点措置」の対象区域となり「県境をまたぐ移動自粛」の「お願い」が出たため、連休中に行くつもりだった宿をキャンセルした。今年の連休もまた昨年同様こもって過ごすことになる。部屋のペンキ塗りをしたり、読書したり(「鳥獣戯画のすべて」展の分厚い図録とか)、近場の低山をトレッキングしてもいいだろう。遠出したっていいのではという気もしなくもないが、何かあって後悔するかもしれないリスクを考慮すると大人しくしている方を選ぶ。自分や家族や親しい人に万が一にも何かあった場合を考えると慎重にならざるを得ない。東京、京都、大阪、兵庫の4都府県は、宣言期間中、大型商業施設のほか映画館や公園も休業となり、酒類を提供する飲食店には休業要請するという。政府はいつまでこんなことを繰り返すのやら。

新しい冷蔵庫

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本日、70代の両親と43歳こどおじの三人家族の我が家に(弟がいるが家を出ている)、少し前に購入した冷蔵庫が届いた。三菱電機の360リットルのやつ。3段に分かれていて、上段がメイン、中段が野菜室、下段が冷凍庫。これまでは自分が一人暮らししていたときの150リットルのを転用していた。スーパーが徒歩圏内なので150リットルでも家族三人分を賄えたが、冷凍食品や調味料などを大量に買い置きするのに容量はあった方が絶対にいい。冷蔵庫に関しては大は小を兼ねる。自分が毎朝作る(詰める)弁当のおかずの大半は、唐揚げ、シューマイ、玉子焼き、ブロッコリーなどの冷凍食品である。ほぼ毎晩飲むスコッチには氷を入れる。それらを大量に入れられるようになったのは嬉しい。なるべく一度に買い置きして買い出しに行く回数を減らすことで金銭的にも行動的にもコストを抑えられる。

 

恥ずかしいことだが購入金額の4割は母に出してもらった。残りは自分。二週間くらい前の日曜日に家族三人で家電量販店へ行き、あれこれ見て販売スタッフの説明を聞き、候補を絞ったのちサイズとスペースを確認するため一旦帰宅。問題なく置けると分かったので、月曜日の仕事終わりに再度寄って購入した。ネット通販で調べると実店舗で買うより二割くらい安かった(ポイント還元があるから実質差額は一割くらいか)。合理性で考えればネット通販を利用するのが賢いのだろうが、この差額分は、あれこれ現物を見たり触ったり、スタッフから説明を受けたりした分かなと。家電量販店がなくなってしまっても困るのはこちらであるし、コロナ禍で世間どの業種も大変であろうし、多少の差額は払えるなら気持ちよく払おうと思い量販店での購入にした。最近ちょっとネット通販への信頼が以前ほどなくなってきている、という個人的事情もある。

 

前の冷蔵庫はなんだかんだで12年使えた。壊れて買い換えではないので使おうと思えばまだまだ使えただろう。とすればこの冷蔵庫もこの先10年以上使えるだろう。両親が存命の間はもう買い換えることは多分ないだろう。

 

国営武蔵丘陵森林公園へ花を見に行った

よく晴れた春の土曜日。ネモフィラが咲いたと知り、森林公園へ見に行った。朝、整形外科でリハビリを終え、そのあと女の人と合流し、カフェで遅めの朝食をとり、二時間ほど駄弁る。駄弁っているうちに正午近くなり、出かけるのが億劫になったが、今週はなぜか月曜からずっと気分が低調で、金曜日もTGIFな気分になれず、帰宅してからも楽しい気持ちになれなかったので、こういうときは気分転換をした方がいいと思い、大儀なのをおして出発。歩けば少し気が晴れるかもしれないとの期待もあった。

 

時間節約のため高速を利用。東松山ICで降りる。森林公園へは何度か来ているので道はわかっている。14時頃到着。中央口駐車場は空きがあった。直営? の駐車場は650円、すぐそばの私営駐車場ならその半額ほどだったが、直営に停めた。午後の陽射しが強く、サングラスを持ってきてよかった。入場料は大人450円。

 

公式ツイッターによると、目当てのネモフィラはちょうど見頃のようだった。入るとすぐにチューリップがお出迎え。チューリップは好きな花である。以下の写真はE-M10 MarkⅡとiPhone8で撮った。

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山田大沼。コイが泳いでいた。カモがいた。水のある景色はいい。

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沼のほとりを歩き、広場を過ぎると最初の花畑に到着。日陰で咲いていた紫の花はムラサキハナナというらしい。そのそばには咲き始めのルピナス。ミツバチが一所懸命に花粉を集めていた。立派に働いている。キットのズームレンズで限界まで寄ってみたら思った以上に寄れた。

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道中の看板表示に従い進むこと、どのくらいか。あれこれ喋りながらだったから覚えていないが15分くらい歩いたか。ネモフィラ畑に到着。2017年のGWに国営ひたち海浜公園ネモフィラを見に行ったが、比較するとこちらはだいぶ規模が小さい。その代わり人の混雑もないのでトレードオフ。自分としては森林公園の規模で十分に満足である。ちょうど見頃らしく花は元気だった。ネモフィラはやはり群生してこその花だろう。見ると白一色のも混ざっていたがこれはこれから変わるのか、そういうのなのか。ここでもたくさんのミツバチが頑張っていた。

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ネモフィラ畑を一周し、撤収しようかと思ったら、同行者がアイスランドポピーも見て行こうという。なのでまた歩き出す。このあたりで6000歩弱くらいだったか。空腹もあり、若干の疲労を感じ始めた頃合いだった。ネモフィラ畑からアイスランドポピー畑まではどれくらいあったか。20分程度歩いたような気がする。この頃になるとお互いだいぶ口数が減った。ともに体力がない。途中にあった樹が、光の具合なのかいい感じに思え、なんとなく写真に撮ったが、写真で見ると肉眼で見たのと印象が異なる。肉眼で見たときのオーラが失われている。プルーストの『失われた時を求めて』の序盤に、少年時代の語り手が馬車から偶然見かけた鐘塔に感動してその感動を文章で表現し、読み返して出来に満足を覚える、というシーンがあった。そういう満足は写真でも得られるものだろうか、とか歩きながら考える。肉眼で見ていいと思って撮った写真なのに、帰宅して見返すと思ったほどいい出来でなく、落胆することが多い。単純に技量の問題か。

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アイスランドポピー畑は林の中の坂道を下った先にある。暗い林を抜けて一気に視界が明るく開け、そこに一面の花畑が飛び込んでくるのでちょっと感動する。こちらはネモフィラとは比較にならないほど規模が大きい。人も多かったが広いので全然気にならない。ただポピーは茎に毛があったり蕾がだらんと下がっていたりで、そのフォルムが自分は苦手である。

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ここは広いのでさすがに一周する気になれず。閉園時間が迫っていたこともあり、少しベンチで休憩して出発。森林公園は(エリアによるようだが)ペット同伴可能なので犬を連れて散歩している人たちをよく見かけた。ボーダーコリーともすれ違った。可愛かった(以前飼っていた)。結局一万歩とちょっと歩き、帰りは少し疲れがあった。日中はだいぶ陽射しが強く暖かったのに、帰る頃は肌寒かった。低調な気分が晴れ晴れするほどの変化はなかったが、歩いて、花を見て、喋って、少し気が軽くなったようだった。低調なのは季節の変わり目だからだろうか。加齢による体調の変化だろうか。花畑で笑いながら写真を撮り合っている若い女性グループの陽気さが眩しかった。若いってだけでも楽しいよな、とか年寄りくせえことを思ったりした。

 

帰りは奮発してロイヤルホストで夕食。自分はアンガスステーキサラダを注文。肉が美味しくて感動した(その分いい値段したが)。ここでも二時間近くだらだら喋り、夜になってから帰宅した。

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映画『サンドラの小さな家』を見たが…

滅多に見る機会のないアイルランド映画。MOVIX昭島にて鑑賞。見ようかどうか迷ったが、映画のついでにモリタウンのバーガーキングへ寄るのもいいかと思ったので行ってきた。予告編をYouTubeで見、Twitterで少しだけ情報を集めた。DV夫から娘二人を連れて逃げたシングルマザーが自分の住居を自力で建てるというストーリー。ケン・ローチ的との評に期待が増した。邦題だと、herselfという原題の政治的あるいは社会的ニュアンスが薄く感じられる。興行的な判断だろうか。

 

映画のトーンは基本的に暗い。夫の暴力は彼女のみならず(直接には振われていない娘たちにも)被害を及ぼす。暴力シーンは主人公のトラウマとして作中で何度もフラッシュバックする。一方で偶然から彼女に力を貸してくれる人たちもいる。自分の土地を提供するドクター、体が悪いのに週末に協力してくれる建築士、何人かのボランティアたち。主人公が娘たちと一緒に暮らす目的で建てようとしている家とは、住居であると同時に彼女の居場所というシンボルなのだ。アイルランド的な共助の精神、ということが作中で言われるが、社会的弱者が厳しい現実をサバイブするための社会関係資本の重要性を言っているのだと自分は受け取った。終盤で彼女は、完成間近のその家を失うことになるだろう。しかしシンボルとしての家は失われない。ラストは爽やかで、まあお約束的な希望のエンドと言ってしまえばそうかもしれないが、素直に感動した。どれだけ暴力を振るおうが、人から希望を奪うことはできない。子供たちの作業姿は可愛らしい。

 

シングルマザーの苦境や暴力の被害については、アイルランドも本邦もさして変わらない普遍的な社会問題と思う。善意の協力者が多すぎて現実味に乏しいが、あくまで共助の精神を描くための、一種の理想イメージだろう。社会問題に目を向けさせる、訴えるという点では成功していると思う。けれど映画として楽しめたかというと微妙。全体的に説明不足で、なぜそうなるのかがよく分からない部分がいくつかあった。特に前半の住居をめぐる福祉の問題はもう少しきちんと描いてほしかった。それと夫の母親はもっと早く謝罪しろ、と思った。

 

単調なテンポの映画だったからか一晩経って記憶にあまり残っていないのだが、よかったシーンは裁判のところと、主人公がこちらに背中を向けてベッドに座っていた終盤のシーン。後者はハンマースホイハマスホイ?)のような静謐さが漂っていていいなと思った。辛いシーンでもあったが…。建築中のBGMでやたらとハードな音楽がかかるのに違和感が凄くて可笑しかった。

 

2021年の桜

2017年の春頃、オリンパスのE-M10 MarkⅡを購入してしばらく使っていた。が、だんだん持ち出すのが億劫になり放置して久しい。ちょっとしたものを記録撮影する程度の用途ならiPhoneで十分事足りる。ミラーレスとはいえ一眼をぶら下げると首がだるくなる。ぶつけないように気をつけるのも面倒くさい。

…だったのに久々に持ち出して写真を撮る気になった。理由はコロナウイルスパンデミック最中の桜の写真が、いずれ記録として(自分にとって)価値を持つかもしれないと考えたから。少し前に書いた記事にまだ建設途中だった東京スカイツリーの写真を載せた。2011年当時はなんとなく撮っただけの写真が、10年経って見返してみると人生の記録として(自分にとって)意味あるものになっていた。端的に言えば、写真を撮っておいてよかったと思った。なら2021年の桜も記録として撮っておいてもいいかもしれない。どうせ撮るなら綺麗に撮った方がいい。それでカメラを使うことにした。調べたら一眼で最後に撮影したのは2019年7月だった。

 

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3月27日土曜日。

晴れ。朝8時頃にカメラを持って近所の公園へ自転車で向かう。まだ満開には間があったが、気温が上がるとの予報だったので午後から一気に咲くかもしれなかった。久しぶりのカメラなのに事前にファインダーを覗きもせず、いざ撮ろうとしたらえらく画角が狭いので戸惑った。着けて来たのは40-150mmのキットレンズ。操作を忘れていてもたつく。散歩しながら適当にそれっぽい感じになるよう撮影すること30分。朝の時間帯だったが人出は割合に多く、とくに高齢者のグループがヨガをやったりゲートボールをしたりとアクティブに活動していた。

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ソメイヨシノ。傘のようになっているのより、幹から小さく生えた枝にひっそりと咲いているのの方が健気で好ましい。咲き誇る桜はその鮮やかさ、賑やかさで見る側を圧倒してくる。気圧されて酩酊するというか、燥いでしまうので、桜は怖い花だと思っている。だからちょっと苦手である。坂口安吾梶井基次郎の桜をモチーフにした小説は怖い小説だった。以前具合が悪くて寝込み、病み上がりで出勤する際、会社の周囲に大量に植えられた赤いツツジをなんとなく見ているうちに、その色のどぎつさに当てられて気分が悪くなったことがある。こちらの体力が弱っているときには植物の旺盛な生命力に負けてしまう、そんなこともあるのだとそのとき知った。

 

 

3月28日日曜日。

朝から曇り。一日曇りで夕方から雨との予報。見頃はこの日いっぱいだろう。ということで、昼頃、昨日と同じ公園に再び出かけた。曇天の桜は味気ない。桜には燦々たる陽光が似合う。何枚か撮影してつまらなくなって止した。人出が多くなる時間帯だったためか、昨日の朝と比較するとだいぶ家族連れや若い人たちの姿が目立った。煙っぽい匂いがすると思ったらバーベキューをやっていたり、大型犬がリズミカルなステップで散歩していたり(可愛かった)、きょうだいらしき子供が全力で駆けっこしていたり、春の長閑な日曜の午後の風情が漂っていた。

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人の世に疫病が蔓延して混迷を極めようが、自然はそれと無関係に存在し、冬のあとには春が必ず巡って来る。季節のサイクル。自然のリズム。何が確かかといってそれ以上確かなものはこの世にない。それに安堵する。頼もしいと思う。

 

 

映画『ノマドランド』を見た

土曜日昼過ぎの回で観客は30人いたかいないか。『ミナリ』のときも書いたけれども、コロナの影響もあってか、今週公開の新作としてはさびしい。『シン・エヴァンゲリオン』の入場と同じタイミングだったが、そちらの客入りもだいぶ落ち着いた様子だった。

 

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内容については『たまむすび』で町山さんの紹介をあらかじめ聞いていた。高齢の車上生活者たちの過酷な生活。車で各地を放浪して期間労働に従事する彼らをノマドと呼ぶ。年金だけでは生きていけない、しかし就業機会は限られている。Amazonでは彼らのような従業員のために契約期間中は駐車場を開放しているという。経済資本に乏しい人間はその代替として社会関係資本を持たねば野垂れ死ぬしかない。はじめは渋っていた主人公も、結局誘いに応じて同じノマドの集会に参加する。そこでは炊き出しが行われ、物々交換があり、情報の交換もある。印象的だったのは、ライフラインとしての車の強調。パンク対応のため絶対に予備タイヤを積んでおけ、タイヤ交換くらいできないでどうする、安全のためGPSを搭載しておけ、等。それをアドバイスするのが末期がんで余命数か月のノマドであるところに重みがある。タバコやライターを譲ったり、好きな相手でなくても病気で寝込めば看病してやったり、共助の精神なくしては彼らの生活はより困難になる。他人の助力なく生きていけるのはその人が強者だから。弱者であればこそ助け合わねばならない。そんなふうに見えた。

 

アメリカ各地の雄大な自然は日本にはないスケールで圧倒される。アメリカってめちゃくちゃでかい。エンドロールにはネヴァダネブラスカアリゾナ、カリフォルニア、そんな地名が出ていたように思う。どこがどこだか知らないが、国立公園のある荒野の景色がとくによかった。主人公が男に奇妙な形の石を渡され、その穴から風景を覗き見るシーンがこの映画でもっとも印象的だったシーン。森の中で大樹に抱きついたり、全裸になって川に浸かったり、ノマドには物質主義からの解脱、自然との交感、そんな面も強調されていただろうか。『森の生活』の現代版としてのノマドライフ。

 

フィクションではあるが主人公以外は実名で登場していて、インタビュー的な場面もあり、半分フィクション半分ドキュメンタリーのようなちょっと珍しい構成。でも演技に不自然なところはなかった。最後まで退屈せずに見られたのでいい映画だが、惜しいと思った点があって、それはこの映画でもっとも肝心な、主人公がノマドである理由が判然としなかった点。冒頭では炭鉱が閉鎖され、街は消滅し、家の資産価値はゼロになり、仕事が見つからないから各地を転々としながら期間労働に従事していることが匂わされている。しかし、中盤、主人公とは正反対に堅実に暮らしている姉が登場して、主人公は昔から風変わりな子供だった、と語られる。姉の家にせよ、主人公を好いてくれる男の家にせよ、彼女は定住の地を得ようと思えば得られるのに、ノマドであることを選択する。経済的な理由からノマドであることを強いられているのではなく、昔から風変わりだった彼女が好きでやっている、そういうふうに見えてしまう。確かに、若いノマドも自身のことを定住できない質だから、みたいに述懐するシーンがあるが、それだとノマドたちは自由意志でそういう生活を送っている、みたいに観客の目には映らないだろうか。無論そういう人もいるだろうが、中には定住したくてもできずやむを得ずノマドをしている人もいるのではないか。この点について監督自身の見解がいまいちよくわからなかった。ロマンを盛って美化していないか、と思えてしまった。車内でバケツに排泄する生活、なかなか大変な生活だと思う。車中泊できる駐車場ばかりでもないし。姉の家のシーンは、主人公が、彼女と対照的な堅実な生活者たちと対話する唯一のシーンだったのに、軽く不動産について意見を交わすくらいで終わってしまったのは残念。ここで双方の意見の相違を浮き彫りにした方が主人公の独自性やノマドの思想性みたいなものが明確になったはずだから。

 

いい映画だと思うがもっとノマドの厳しい一面も描いてほしかった。排泄シーンは、ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』で主人公が配達時間に追われてペットボトルに排尿するシーンの方が切実さがあった。クロエ・ジャオ監督はノマドをロマンチックな感じで描きたかったように見える。雄大な自然の風景とか、マジックアワーの空とか、画が美しくて、ノマドの悲惨さは霞んでしまっていた。それともこれは、「ノマドは悲惨なはずだ」という自分の偏見の表出に過ぎないのか。ラスト近くで、ノマドの指導者が、路上でいつか死者たちにも再会できるだろう、というのはわからなかった。路上で、いつか喪失したものを埋める新しい何かに出会うだろう、というのならわかるが。なんというか、いいんだけど、これじゃない…俺が見たいのは…というのが観賞後の印象。

 

 

で、以下は全然この映画と関係ない話。

この映画、だいぶ空いていたため当然自分の右隣は空席だったのだが、上映中に右後ろの席の女性が、八回くらい自分の右隣の座席を蹴ってきたため度々集中が切れて苛々した。映画館のシートって列で繋がっているから、真後ろのみならず隣の席を蹴られても振動は伝わってくる。そんなに足を組み直すなら(いや、どういう風にして蹴っているのか見てないから足を組んでたのかどうか知らんのだが)足組まないでほしい。金払って、時間使って映画館に来ているのに後ろから蹴られると(一回や二回ならなんとも思わないが、何度も)本当怒鳴りつけたくなる。後ろからの蹴りはいつされるか予想できないから驚くし、繰り返されると身構えてしまって鑑賞が疎かになってしまう。でもこういうのって満席でも何もないときもあれば、がら空きでも蹴られたりビニール袋ずっとガサゴソやられたりとかあって、いわばガチャだから諦めるしかない。二年くらい前、早稲田松竹で後ろから何度も蹴られて、とうとう我慢できなくなり、振り向いて「蹴るのやめてもらえますか」と言ったことがあった。後ろの男はその後も蹴り続けてきた。今思えば自由席だから移動するか、帰るかすればよかった。見ていたのはカーペンター監督の『ゼイリブ』で、面白い映画じゃなかったし。金払って不快に耐えてつまらん映画見て、馬鹿みたい。それで思い出すのが、『メイドインアビス』のレイトショー。50人くらいいたのに観客全員、不気味なほど物音一つ立てず、前の方にいたポップコーン持っている客は無音でポップコーンを食べていた…という奇跡のような体験。起こり得ないことが起こるから奇跡というならあれこそ奇跡の上映回だったと今改めて思う。それともあれは夢だったのか? 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、外伝も劇場版もどちらもとてもマナーがよかった記憶がある。『エヴァ』とか『鬼滅』ほどビッグではない劇場版アニメがマナーいいのかもしれない。話題の邦画とか、マーベル作品とか(マーベル作品見たことないが)、ジブリやディズニーとかは普段映画館に行かない人が来るから荒れがちかもしれない。『ノマドランド』でなぜ蹴られたのかは不明。他人が何考えて行動しているかなんて考えてもわかるはずないので考えるだけ無駄。もらい事故みたいなもの。運が悪かった、それだけ。