「下流老人」の日常を飄々と──岡田睦『明日なき身』を読んだ

 

1932年生まれの作家による私小説を5篇収録。三人目の妻と団地の一戸建てに住んでいた作家は彼の薬物依存が原因で離婚になる。家は妻の所有となり追い出される。行くあてなく生活保護を受給してアパートで単身生活を開始。しかしボヤ騒ぎを起こしてここも出る羽目に。その後沼津にあるNPO団体の施設へ入居する。執筆活動は続けていたが本書の最後に収録されている短篇「灯」を2010年に文芸誌に発表して以降は消息不明との由。

 

書かれているのは家族もなければ金もない「下流老人」の日常。新聞は購読せず、テレビ、携帯電話は持っていない。ガスは使わないので契約をやめた。5年間入浴していない。食事は近所のスーパーのおにぎりか巻き寿司を1個か2個(値段も書いてあるが100円とか200円とかそれくらい)、またはレトルトご飯にふりかけなど。支給日前の数日はそれすら買う金がなくなり絶食して凌ぐ。エアコンは冷風しか出ないが直す金はない。真冬で風邪をひいても外気温と同程度の室温の部屋で布団をかぶって寝るしかない。ベランダの一部が腐食して崩落しそうなので針金で何重にも縛って落ちないよう固定する。トイレの便器から水漏れしてあたりが薄い茶色の水浸しに。下水管が詰まってしまい蓋を開けると凍った糞便まみれ、それを真冬に自力で取り除ける。料金が払えず電話が止まる。同じ理由で電気も止まる。クリニックに通院して抗うつ薬睡眠薬を処方してもらう。腰は常に痛い。前立腺肥大の診断を受けている。

 

悲惨極まる日常。しかしそれを述べる作家の文章に湿っぽさは微塵もない。あっけらかんとした飄々たる文体。これが笑いを誘う。上記した下水管掃除の話など、読んでいて汚なさに閉口しつつユーモラスな描写に声出して笑ってしまった。

 

怖い挿話がいくつかある。元妻の代理人がヤクザのような土建屋で一戸建てから立ち退けと恫喝してくる話は(不動産をめぐるトラブルとしてはありきたりなのだろうが)どうなるかとひやひやする。とても作家一人では抵抗できなかろうと思っていたら出版社の編集長を話し合いの場に同席させて相手を牽制、その発想にも驚くが付き合ってくれる編集長も面白い。作家と編集者の関係ってこんな濃いのだろうか。原稿料を前貸ししてくれる気配りもある。結局念書にサインしたせいで退去せざるを得なくなるのだが。

作家の特異性が際立つのは近所のコンビニ店員への執着。美人らしい女性店員が、作家がレジに来るたび逃げるように奥の事務所へ引っ込んでしまう。偶然か、自分が嫌われているのか、嫌われているとしたらその理由は何なのか(5年も風呂に入っていない客の相手なんてしたくない人が大半と思うが)、確かめたく、レジで店長に話があると直談判する。そのせいで嫌気が差した女性店員は店を辞めてしまい、店長が激怒して出禁にされる。それなのに以降もコンビニに通ってとうとう警察沙汰に。この挿話の作家はストーカーじみていて気持ち悪かった。

一戸建てを追い出された作家はアパートで単身生活に。正月、風邪をひいて寝込み洟が止まらない。エアコンは壊れていて温風は出ない。かんだティッシュを燃やせば暖がとれると思いつき、室内で、段ボール箱の中に入れたティッシュに火を付ける。すぐに段ボールごと燃え広がりボヤに。消防や警察が来る事態となり、本人に怪我はなかったがアパートにはいられなくなる。作家は慶應大学出てるのにどうしてこんな阿呆な真似をしたのか。無事だったからよかったものの自殺行為としか思えない。この場面の描写もとぼけている。

とっさに、一一九番することにした。が、熱い。ダイアルを廻せない。靴下のみで部屋を飛び出し、腰痛なのに走って向かいの家のドアをあけた。

 

アパートを追い出されてNPO団体の管理する施設へ。高圧線の下の土地は危険なエリアとされ不動産価値が低く、それだけに安く買ったり借りられる。悪徳NPO団体はそういう土地に施設を建て、狭い部屋と粗末な食事の料金として入居者の生活保護費から12万円を徴収する。「宿泊所ビジネス」、貧困ビジネスだ。外線は携帯電話のみ、それを管理しているスタッフは電話を取り次いでくれないし貸してもくれない。囚人のような生活。入居者は団体にとって金の成る木。不平を言えば「退寮」。そうなれば行き先などないのだから路上をさまようしかなくなる。本書の最後に収録された短篇は沼津の施設での出来事を書いているが、NPO管理の施設に入居していて生活保護も受給していたのに消息不明になってしまうとはどういうことなのだろう。すでに入居していた施設はなくなり、団体は解散したか夜逃げしたかして連絡がとれなくなってしまったとかそういうことだろうか。作家は今年で90歳になる計算だが今どこでどうしているのか。

 

橘玲さんは人間の幸福には幸福を規定する三種類の資本が必要だと述べている。人的資本、金融資本、社会関係資本、それら三つが揃っていればいるほど幸福な人生を送れるだろうと。人的資本は金を稼ぐ能力、金融資本は金融資産、社会関係資本は交友関係。岡田睦さんには前の二つは皆無。しかし電話や手紙で近況を尋ねてくれたり、食料を送ってくれたり、東京から沼津までわざわざ訪ねてきて食事に誘ってくれる友人たちがいる。別れたとはいえ三度も結婚できているし(本人は晩生だと言っているが)、前述したように親身になってくれる編集者もいるし、社会関係資本にはかなり恵まれている。だから悲惨な境遇でもやっていけたのだろう。これで友人皆無の孤独な境遇だったら日々の困難の度は比較にならぬほど増したのではないか。

 

食うや食わずの暮らしなのに不意に花屋の軒先で惹かれてムスカリを買い、孤独なアパート生活の話し相手にする「ムスカリ」(この花も焼けてしまったのだろうか)、沼津の施設で学生時代からの友人夫婦と短い再会を果たす「灯」がとくによかった。この本は単行本が刊行されたときに一度読んでいるが今より15年も若かったゆえか殆ど感銘を受けなかった。どころかちょっと作家の言動に苛立ちすらした記憶がある。年を経、また日本経済も自分の生活もシュリンクしつつある今読むと、問題提起の書として、貧困生活の記録として、感銘を受けた。他人事じゃねえな、という思いもある。

 

 

 

アメリカは幽霊の国──『ゴーストランド』を読んだ

 

 

読み終えたのは一月末だがいい本すぎて感想がなかなか書けなかった。アメリカ各地に残る幽霊話を検証することで彼の国の過去を発掘していく。

私たちは、生者を理解する手段として死者の物語を語るのだ。幽霊話は単なる都市伝説やキャンプファイヤーの余興以上の存在で、私たちの不安の輪郭、集合的な恐怖と欲望の本質、つまりほかの方法では話すことのできない事柄を明らかにする。明るい昼日中に声に出して語るのが一番怖い過去は、暗がりでささやく幽霊話の中にずっと残りがちな過去でもあるのだ。

幽霊話は不動産をめぐる抗争から、富裕な老未亡人に対する反感と不安から、奴隷たちの行動を制限する目的から、そして人目につかない悲しい歴史を保存する必要から生じる。幽霊話とは象徴であり喩えなのだ。引用にもあるように、それを語ることによって人々は別のことを、もっと生々しい現実の問題を語っている。貧富の差、階級差、そういった現実の深刻な問題が幽霊話にも反映している。幽霊は圧倒的に白人が多く、黒人が幽霊として語られるケースは極端に少ないという。幽霊話にも人種問題というアメリカ社会の一面が潜んでいる。

読書当時のツイートから引用。サーシャとザマニとはスワヒリ語話者たちの文化による死者の区別。サーシャは最近亡くなったばかりでまだ生前を記憶している人々によって回想される「生きた死者」。もはや生前を知る者がいなくなると彼らは概念としての死者ザマニとなる。セレモニーや記念碑などはザマニの領域に属する。ザマニは時に生者によって政治的に利用される。夜中に寂しい通りを一人で歩いていて殺された女子大生が幽霊になってその通りに出るとなれば、幽霊話は夜中に一人で出歩くのを控えるべきという警告の意味を含むようになる。いや、この場合は警告のために幽霊が創造されたのかもしれない。

 

ある物件コンサルタントは「幽霊屋敷とは、一つの知覚」だと述べている。「もしある物件に幽霊が出ると知覚されれば、そこには幽霊が出るのです。幽霊が出ると思わなければ、出ないのです」。このコンサルタントは幽霊の存在を信じていないが、幽霊の噂や血生臭い過去が家の転売価格に影響することは認めている。幽霊話を売りにしたダークツーリズムから維持費を捻出している施設の話も出てくる。その本質上、幽霊は人間の生々しい営みと無縁ではあり得ない。

 

映画『インシディアス』に家に住み着いた幽霊を科学機器を用いて調査するシーンがある。映画らしいエンタメ的表現かと思いきやアメリカには実際にハイテク機器を使いこなすゴーストハンターたちがいて彼らが出演するテレビ番組まであるという。幽霊は恐怖を喚起する極上の娯楽でもある。本書の最後はテクノロジー時代の幽霊についての興味深い考察。

IoTによる幽霊話。今後はこういう幽霊、こういう呪われた家が増えていくのかもしれない。幽霊が生者によって創造される以上、その定義は生者の社会環境によって常に更新されていくのだろう。

 事実上自らの制御で作動し、自動化されて生命を吹き込まれ、生きている居住者によるインプットをもう必要としない家──そんな奇妙な新しい住居に、幽霊屋敷の未来が垣間見える。

 

魔女裁判で名高いセーラムから始まって、銃で有名なウィンチェスターの屋敷、奴隷制KKK、さらにはハリケーンカトリーナ、9.11、衰退したデトロイトまで、幽霊話を追ってアメリカ各地の歴史を調査するにつれ見えてくるのは、人が生きるとはいかなることか、というテーマ。ポーの詩「アナベル・リー」は体験ではなく創作だったとか、びっくりするようなことも書いてある。

生者を幽霊に変えるのはその人を空っぽにすること、きわめて重要ななにかを奪うことだ。だが、死者を幽霊として生かし続けるのは、その人を思い出と歴史で満たすこと、そうしなければ失われてしまうものを生かし続けておくことなのだ。

 

矢部嵩『魔女の子供はやってこない』『〔少女庭国〕』を読んだ

 

 

 

独特の文体と唯一無二な世界観。『魔女の子供はやってこない』は小学生女子と魔女の日常物語。その出会いとなる第一話からぶっ飛んでいる。小学生たちが流血の惨劇の犠牲者に。カニバリズムも。一転して第二話はジュブナイルファンタジー的に。片想いの切なさもある。第四話の重病患者を魔法で助ける話、第五話の家事が忙しくて自分の時間が持てない主婦を助ける話、これらが凄い。特に第五話は、人の善意を利用して嫉妬心から他者の幸福を破壊する、という人間の悪意のひとつの究極を描いていると思う。いや、あれは悪意じゃなくあの人の天然なのかも。本物のサイコパスだったらああいう行動をするのかも。この人に美術の才能があるというのがまたなんとも…。人間として重大な欠陥があろうと芸術的才能とは無関係だといわんばかりで気分が悪くなる。第四話の病気の描写もなかなかにくるものがあった。ここでの悪意は、最後の、ひらがなで呟かれる台詞に凝縮されている。怖い。ホラーとしては第四話で一気に上昇して第五話がピークと思うが、最終話の誘拐の話も読んでいる最中動悸がした。郊外、団地、国道。自分も似たような環境で小学生やってたし、女子が放課後に変なのに声をかけられる事件がたびたびあったのを思い出して(「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」が起きたのも自分が小学生のときだった)厭なノスタルジーを覚えてしまった。「ちっちゃい頃って異常ですよね。色々したんです悪いこと。悪いとかって思ってないこと。馬鹿だからなんも考えてなくて」という主人公の台詞、自分の子供時代を振り返ってもそうだった。

「悪いことした人むかつきませんか。私天国行ったらやな人きっといると思うんです。どうでもいいかもですけど。同じつもりでいちゃきっとよくないと思うんですよね。それでいいと思うんです。自分が糞みたいな人間だってなるべく忘れないようにして、それで地獄落ちれば」

 

 

『〔少女庭国〕』の設定は映画『CUBE』のよう。トラップこそないが密室、加えてバトルロイヤル。軽いノリでパーティやったあとで少女たちは次々と死んでいき最後に残った一人が「卒業試験合格」…というだけの話なら女子中学生によるデスゲームもの、で終わり。本編に続く「補遺」によってこの小説の途方もないスケールが示される。次から次へと女子中学生たちが登場してこのデスゲームをサバイブするさまが描かれる。大抵はスタンダードなタイマンの殺し合い。しかし中には突然変異的な行動をとる女子が出てくる。彼女ら一部の開拓者によってこの迷宮(でいいのだろうか?)の構造が少しずつ明らかになっていく。生き残るための手段も複雑化していく。試行錯誤の末に少女たちは迷宮に文明を築く。当初デスゲームものだと思っていたのにこんな壮大な展開になるので驚いた。これはプログラムによるシミュレーションみたいな話なのだろう(全員が同じ中学に通っている3年生なのに何千人ものただ一人として知り合いではない)。プログラマーはこの世界の外にいる、いわば神。女子中学生たちはプログラムで、何度も試行されている。全滅するたびにリセットされ、神が再びサイコロを振る、それが延々繰り返される世界、「庭国」。終盤の文明世界は天文学的な確率で成功したパターンだったのだろう。しかしそれもいつかは滅びる。そもそも女子中学生しかいない世界なのだ。いつか世界は終わるに決まっている。

思考実験としてとても面白いけれど終盤の方は無理が感じられた。地下世界に広がる町とか文明とか、かなりシビアな環境・条件内での奇跡だからあり得なくはないのだろうが、どうもやりすぎな感が。本編が始まったときは開けなかった扉の向こうに何があったのかが明かされるのは感動的だった。卒業試験の意図もきちんと解明されたが時系列がこんがらがって腑に落ちなかった。理想を持って開拓の旅に出発したのにあっさり死んでしまったり、せっかく制服のポケットに植物の種を持っていたのにそれを活かせず枯らしてしまったりするのは悲しい。そんな甘い、あるいは優しい物語じゃないのだ。この小説のように地球の現代文明も何度もリセットされた挙句の今かもしれないと想像してみたり。歴史の過程で次々に死んでいく少女たちの姿に「生き物の実態はむしろ死に物じゃないか」という『ご飯は私を裏切らない』の独白が重なった。ローグライク、またはロマサガ2もちょっと連想した。

 

この二冊は新宿のブックファーストで開催されている「木澤佐登志書架記フェア」の冊子で知った。買ったのは『反穀物の人類史』。ダークウェブ、哲学、思想、心理学関連には興味ないけれど、オカルトや陰謀論には関心があるので何冊か紹介されているそのジャンルのを今後読もうかと。文芸の好みは結構重なる部分があった。選書フェアは100冊かそこらでは数が少なすぎて選者の個性が出ず面白くない。このフェアみたいに600冊以上とかでないと。王道的名著ではなくマイナーめな選書に選者の個性が出る。それを拾うのが面白い。

映画『ストレイ 犬が見た世界』を見た

トルコのイスタンブールでは犬の捕獲および殺処分が法律で禁止されている。そのため街中に野良犬が溢れて10万匹が人間と共存している。残飯漁りや一部の人たちの餌やりによって命を繋いで。大型犬が車道だろうと線路だろうとお構いなしに歩き回る姿はユーモラスだが、胸や脚が筋肉質で、自分は犬好きだけれどそれでもちょっと怖く感じて接近するのに勇気が要りそうに思った。野良犬たちと共に生活をするのはシリアからの難民の若者たち。彼らは路上や取り壊しを待つ廃屋で暮らし、シンナーを常用し、路上で人々から恵みを乞う。自分たちの生活すらままならないのに自分たちだけの(野良ではない)犬を欲しがるのはやっぱり犬が特別な動物だからなのか。住む場所のない、というか街全体がすみかである野良犬たちの生態を追うことが、同じように住居をもたない難民の若者たちの生活と二重写しになる。けれどこの映画に社会的な訴えはない。犬と難民の生活がただ並置されるだけ。犬と人間、二つの生を絡めて監督独自の世界観なり問題提起なりがないため単調で、長い映画ではないにも関わらず途中で退屈になった。ほぼ全編、犬の目線を意識したような低い位置で撮影されているのは趣向として面白いけれど、それが映画として効果的だったかというと、どうだろう。

 

犬と人間の共存を綺麗事としてでなくリアリティをもって描いているのはよかった。女性によるデモ? の最中の交尾に高齢女性がキレたり、公園で糞をしている姿に「サイアク」と言われたり、どちらも犬にとっては生理、しかし人間は眉を顰める。ヒトとイヌの異文化交流。野良犬たちは政府だか自治体だかによってICタグで管理されているふうな描写があったが、イスタンブールでは狂犬病や糞尿など公衆衛生の問題をどうしているのだろう(撮影されたのはコロナ禍以前の2017年から2019年にかけて)。人間が噛まれたり、あるいは虐待したり、そういう問題は発生していないのだろうか。それらに関する説明がなかったのは残念。発情や排便シーンはあるのに犬の死体が一度も出てこなかったのも不自然だった。平気で車道を渡ろうとするから車に轢かれて死ぬ犬も相当数いると思うのだが。途中途中で古代ギリシアの哲人の名言が挿入されるが、そんなもったいぶった高尚な名言なんかより現地の法整備や課題、住民の意見などを紹介してほしかった。世界でも稀なことをしている国なのだから。ちょっと調べたらイスタンブールには猫もたくさんいるらしく、『猫が教えてくれたこと』という映画もある。イスタンブール、面白い都市だな。

 

 

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2012年の冬に10歳で死んだ我が家のボーダーコリー。これは死ぬ4ヶ月前の写真でガラケーで撮った。ボーダーコリーは人間の2歳児並みの知能があるといわれ、そのとおりとても賢かった。当時自分は無職で、彼女を散歩に連れていくのが引きこもりにならず社会とつながる大事な日課になっていた。11月に今の会社に就職が決まったが、勤めはじめてまもなく膵臓の病気で死んでしまった。犬との暮らしは最高だが、最高なだけに別れが辛すぎる。自分の体の一部をもぎ取られたような猛烈な痛みと喪失感に襲われた。もっと遊んでおけばよかった。もっと触っておけばよかった。もっと写真を撮っておけばよかった。10年が経った今でも年に何度か夢に見る。

『全面改訂 第3版 ほったらかし投資術』を読んで自分の投資を振り返る

 

 

本書のオリジナル版が自分が初めて買った投資の本だったと思う。しかし買って読んだものの投資を始めるには至らなかった。前の会社に勤務していた頃だから2010年頃か、ズブの初心者には証券口座を開設するのがハードル高く感じられた。当時の労働環境が結構ハードで心の余裕がなかったというのもあったかも。

 

2012年に今の会社に転職。雇用された当初は契約社員だったのでその権利はなかったがその後試験に合格して正社員採用、それで権利を得て確定拠出年金をやるようになった(弊社の退職金は確定拠出年金のみ)。やるようになって投資の要領が理解できた。確定拠出年金を始めた2015年は一年間ほぼずっとマイナスか微増だった記憶がある。かといって売却はできない。結果的にはそれが下落に耐えるメンタルを培ってくれたように今は思う。確定拠出年金がいい投資入門になった。

 

自分の証券口座を開設するのはそれから2年後の2017年。その間、ずっと生活防衛資金を貯めていた。水瀬ケンイチさんのブログでは生活防衛資金は生活費の2年分を見ておくべき、とあってそれを愚直に実践していた。今振り返ると投資しながら生活防衛資金を貯めていく同時進行スタイルの方がベターだったと思う。当時すでに自分は30代後半にさしかかっていたから2012年から2017年の期間の複利を得られなかったのは大きなマイナスだった。

 

生活防衛資金を貯めている間に投資の本やブログをそれなりに読んだ。そのうちとくに印象に残っている本は以前まとめた。以下の記事の5冊プラス「梅屋敷商店街のランダム・ウォーカー(インデックス投資実践記)」が自分の投資スタイル(なんて言うほど大層なもんじゃないが)のベースになっている。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

『第2版』は著者二人の異なる見解が書かれているパートがあったが本書『第3版』では意見は統一されよりシンプルに。「ほったらかし投資の公式本」を目指したとあり、オリジナル版を初めて読んでから10年以上、その間に自分の知識・経験が増したからという理由もあるかもしれないが、改訂されるにつれ明快になっていると思う。インデックスファンドへのほったらかし投資に関してはこの『第3版』一冊を読んでいれば十分とすら思える。本書の著者二人の意見のすり合わせに関して意外だったのが生活防衛資金に関する部分。山崎さんは生活費の3ヶ月から半年分くらいでいいと、上でも述べたが水瀬さんは2年分はあった方がいいと、かねてより主張していた、と思う(『第2版』でも意見が分かれていた)。それが本書では3ヶ月から半年分に統一されていた。下落局面でも心の余裕を保てる効用があるので自分は当面2年分をキープしようと思っている。

 

水瀬さんは20年かけたインデックス投資で先頃資産1億円を達成した(著書の印税などでもっと早く到達してそうに思ったが)。経済的独立を果たした今、会社で仕事をしていても精神的に余裕を持って働けているという。

 本来あってはいけないことですが、万が一、会社から不正を働くように強要されたり、そこまでではないとしても、人としての尊厳や人格を否定されるような要求をされたりしたときに、 躊躇 なく「NO」を突きつけられる心の余裕。なんならお偉いさんに辞表を 叩きつけて、文句の一つでも言って、そのまま辞めてしまうこともできる。大ケガや大病をして長期間働けなかったとしても、生活の心配をすることなく治療や療養に専念することを優先することができる。

 会社から自由になる。それが経済的独立の一面です。

 

嫌な仕事を、仕事だと割り切れることもまた、経済的に独立した人の強さの一つだと思います。

 

まとまったお金があれば選択肢を増やせる。そのことから生まれる心の余裕。自分も無職一人暮らしを経験しているから定期収入が途絶えたことによる生活の不安がいかに人間のメンタルを圧迫しストレスになるか身をもって知っている。それから解放されるのは大きい。あの不安を体験しているからこそ投資に興味を持ったのだから無駄ではなかったと思うが。

 

『第3版』では投資対象のファンドはたった一つの商品に絞られる。自分も昨年の春から毎月積み立てているemaxis slim全世界株式。それまではニッセイのとかemaxis slimのS&P500を積み立てていたが今後のリバランスを考えたら面倒くさくなり、その必要がない全世界株式一本に変更した。「長期、分散、低コスト」の投資の三条件を満たしているのでこれでいいだろうと。未来はわからないが将来も現在のようなインデックスファンドのラインナップならずっとこれを積み立て続けるつもりでいる。

 

本書の構成は水瀬さんによるインデックス投資20年の実践記、山崎元さんによるインデックス投資の理論、証券口座開設の手順など、これから投資を始めてみたいと思う人の入門書として、あるいはこれまで書かれた多くのインデックス投資あるいはほったらかし投資の総集編的な本として、最高の一冊だと思う。自分が本書でもっとも楽しく読んだのは著者二人が質問に答える章。「ほったらかし投資でFIREできるか」「一括投資とドルコスト平均法のどちらが有利か」「ほったらかし投資のベストな終わらせ時はいつか」などの多くの質問に対して真摯に回答されている。証券会社のポイントサービスをどう考えるべきかについても書かれていて、自分と同じ意見だったのでやっぱそう考えるよなあと。「ほったらかし投資」を何十年も続けるために必要なのは目先の損得に惑わされないおおらかな心と、本質を見失わない合理性ではないだろうか。「(キモさえ外していなければ)こまけえことはいいんだよ」の精神というか。

 

著者たちはインデックス投資を鼻息荒くして勧めているわけではない。投資が有利だと思う人のみがやればいいんじゃない? というスタンス。また若い頃から生活を切り詰めて投資にのめり込む姿勢にも懐疑的。自己投資の方がもっと大事だよ、人生を楽しむことを忘れないで、そっちの方が金融資産を増やすことよりも大切だと述べる。

 旅行、趣味、スポーツ、 美味しいワイン、芸術鑑賞など、若い時分に楽しむことが後にも有効だったり、良い思い出が長く残ったりする性質の支出対象は少なくありません。世の中には、中年以降では、使えなかったり、使っても有効でなかったりする支出対象が多数あります。お金は、単に増やすだけではなく、有効な時に使うことが大切です。

 

歳とるとあまり動かなくなるし、おしゃれしなくなるし、食事も量が食えなくなるし、体動かすのだるいから寝ていたいとなっていくし、そんなに生活費がかからなくなるんじゃないか…と10年前と今の自分を比較して将来を予想している。だから老後の不安から必死こいて投資、投資とならなくても大丈夫なのでは、と。30代の頃の自分はどうしてあんなにじっとしていられなかったのだろう? ほうとうを食べるためだけに山梨県までドライブしたり、長期休暇のたびに飛行機乗って旅行行ったり、楽しかったしいい思い出になってるからいいけど、今とは別人のような行動力。あの体験と引き換えにインデックス投資に金を費やさなくてよかった、過去の自分ナイス、と思っている。経験、思い出は人生の宝。

 

自分はこの先も淡々とインデックスファンドを積み立て続ける。ブルーカラーの今の職場はさっさと定年で退職して、その後は近所の工場か研究所みたいなところで何か簡単なデータ入力業務の派遣とかやれたらいいなあと思っているのだが、そんな先の話を今から考えても詮ない。俺も両親もその頃どうなっているかわからないし、定年までと言っておきながら事故起こして大怪我して退職するかも、会社がなくなっているかも、転勤しているかもしれないし。そういう自分の力ではどうにもならない問題は考えるのをよして、自分にできることにのみ注力していこう。山崎元さんの著書からそういう合理的思考を結構教えられたように思う。

 

他人が考えた予想やアドバイスにどんな価値があるのかに想像力を巡らせることが大事なのだと強調しておきます(殆ど無価値です!)。

人生も仕事も投資も自分の頭で考えるのが一番重要。そして考えるためにはインプットが必要。余談になるが山崎さんにはぜひギャンブルについての本を、水瀬さんにはインデックス投資の終わらせ方についての本を、いつか書いてほしいと思っている。

 

映画『THE BATMAN-ザ・バットマン-』を見た

普段アメコミ映画はほぼ見ないが『バットマン』だけはなんとなく見ている。マイケル・キートン主演の初代が小学生くらいの頃上映されたかして、黄色の楕円に黒くコウモリがデザインされたキャップやTシャツやバッグを身につけているキッズが当時そこそこいた…ような記憶がある。ノーラン監督の三部作は最初の二作は配信で、最後のは劇場で見た。が、とくに印象に残っていない。キャットウーマンかわいい、くらい(というか自分はノーラン監督と合わないんじゃないか、と少し前から思い始めている)。惰性で見ているようなものなのでバットマンという映画にもヒーローにも特別思い入れはない。正直にいえば『ダークナイト』が世間でわりと高く評価されているのも不思議に思っている。でもトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』は素晴らしかった。これはIMAXで二回見た。

 

で、今作である。ブルース・ウェインバットマンになるまでを省略しているのはスムーズな導入でよかった。今回のバットマンはかなりリアリティある描写をされていた。アイテムもノーランのときほど現実離れしていない。せいぜいが録画機能付きのコンタクトレンズくらいか。それだって外そうとすれば電気が流れるマスクや空飛ぶモービルと比較すれば突拍子ないレベルではない。ノーラン作品との比較になってしまうが、あっちがバットマンをヒーロー映画として描いたのに対して、今作は刑事・探偵的な描き方をしていると思った。今作のバットマンの行動や活躍は刑事のようで、内容も刑事ドラマ的。リドラーとの対決は『セブン』のジョン・ドゥとの対決とダブった。知能犯による社会への挑戦としての連続殺人。ただし『セブン』の怖さにはまったく及んでいなかったが。

 

映画としては面白くなかった。長すぎてだれる。この日は一日外出したあとのレイトショーだったのでその影響かもしれないが何度も寝そうになった。人間関係が複雑で、途中からこんがらがっていって考えるのがだるくなってきた。マローニだっけ、結構重要な人物で何度も言及されるのに本人が登場させないのは妙だ。逆にペンギンは出てこなくてもよかったのでは? ストーリー上そこまで重要なキャラじゃなかった。

 

トーマス・ウェインの欺瞞を暴くという筋は悪くない。でも結局本当は善人だった扱いになるので肩透かし。政治家や警察や検察の欺瞞をSNSを通じて暴く、拡散する、それにより同調者(フォロワー)が増してテロが起きる…という流れを今更やられても、議事堂襲撃事件という現実をただなぞっているだけじゃねーかとしか。復讐は復讐を呼ぶだけ、というバットマンの「悟り」も…うーん…。社会から見捨てられた孤児の復讐という現実の格差社会を背景にしたストーリーなのに、バットマンの莫大な富についてほとんど省みられないのが不自然で。どうせなら富の不平等を叫んでウェイン邸を襲撃するとかすればよかったのに。

 

この映画の白眉は予告編にもあるバットモービルの爆走シーンだろう。エンジンがかかった瞬間、轟音が腹に響いた。IMAXの音響すげえ、と鳥肌が立った。そのあとのカーチェイスも雨の中一般車両を巻き込みながら、まるで『プリズナーズ』のクライマックスのような美しさで、それにさらにアクションが加わって、音は相変わらず振動が体に伝わってくるしで、このシーンに関しては最高だといえる。ドルビーシネマで『フォードVSフェラーリ』見たときでもこんな轟音ではなかった。

 

新宿御苑で花を撮る

新宿御苑へ梅を見に。花を見るのに特急乗ってわざわざ都内まで行くなど大儀な真似をせんでも近所の公園でもお寺さんでもいいのだがなんとなく少しばかりの遠出がしたくなったので。あれだけの規模の公園であれば園内の移動で自然と歩くことにもなるだろうから運動にもなるし。

…と計画したのが土曜日で、一人だと億劫になって行くのやっぱやめたとなりそうだったので人を誘った。連れ立っての予定となればドタキャンは許されない。前夜、ダニエル・ハーバート『ビデオランド』を深夜まで読み耽ってしまったため時間に余裕のない起床に。急ぎめに準備して家を出て、少し歩いたらカメラのバッテリーとSDカードを忘れたのに気づき、走って戻り、電車の時間に間に合うかギリギリになってしまったので(すでに特急券をネットで買ってしまっていた)ちょうど車を出すところだった父に駅まで乗せて行ってもらう。もっと余裕を持って行動しないといけない。連れと合流して新宿門へ到着したのが10時頃。券売機ではほぼ並ばず、日曜なのに空いていた。来るのはいつ以来だろう。コロナ禍以前のいつだかの春に桜を見に来て以来。とりあえず梅の咲いている方へ向かう。天気は曇り。

 

鼻マスクにして匂いを嗅ぎつつ何枚か。なんという種類なのかわからない。時期的に終わりへと向かっているのか元気ない印象を受けたが気のせいか? まだ蕾あるし気のせいだろう。

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ピンクのも少々。こちらも名前はわからない。が、こちらは白よりも元気ありそうに見えた。

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梅を撮っていたら離れたところで桜を囲んでいる人たちの姿が目に留まる。河津桜かしらんと思いそちらへ向かう。幹には「オカメ」との表記。オカメサクラというのは今日初めて知った。後で調べたら大きくならないから扱いやすい品種なんだとか。名前は微妙だけれど見た感じいい印象を受けた。

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そのすぐそばにツバキカンザクラ。こっちの方が花が集まって咲くのかな?

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で、ちょっと離れたところに河津桜。すでに葉桜に。葉桜は葉桜で見応えあって自分は割と好き。ピンクオンリーだときついけれど葉があるとそのきつさが薄まる感じがして。反面、ワイルドさは増す。

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温室へ。植物の旺盛な生命力を感じられるから温室が好きである。普段見慣れない植物や滝があってちょっとしたテーマパーク的な楽しさもある。

 

蘭はエロい、と教えてくれたのはプルーストだった。「カトレアする」あるいは「マルハナバチを誘う蘭の花のように」…だったか? まあ植物というか花自体が官能的といえばいえるフォルムなわけで。

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睡蓮は好きな花。もっと寄りたかったが物理的に不可能だった。

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温室を出て日本庭園の方へ。新宿御苑といったら『言の葉の庭』の聖地である。せっかく来たのだからついでに巡礼を。今年新作が公開予定だし。主人公二人の逢瀬の場となる東屋は人がいるかな…と思いきや、若い女性二人連れが離れた場所から写真を撮っているきりで東屋に人の姿はなく。妙に思い近づくと立入禁止の看板が。座ることはできなかったが自分も離れた場所から記念撮影。ドコモタワーと一枚におさめて新海誠的景観に…はなっていない。

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旧御涼亭からの眺めは素晴らしい。この頃には晴れてきた。

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このあとプラタナス並木の方へ行ってベンチに腰掛けてだらだら喋った。喋っているうちに腹が減ってきたのでどこかで飯を食うことにして来た道を引き返し新宿門へ。天気が曇りから晴れに変わったのも影響していたのかもしれないが、戻るとびっくりするくらいの人出だった。王様のブランチで紹介されたんか? と一瞬思ったくらい(この王様のブランチとは概念としての王様のブランチである)。人の多さに閉口しながら西武新宿駅までだらだら歩いていき、しんぱち食堂でサーモンハラス定食を食べて特急で帰宅。しんぱち食堂はいつ行っても混んでいる。もう少しして桜の季節になったら去年のように近所の公園へ撮りに行こう。疫病が蔓延しようが、戦争になろうが、人の営みとは無関係に自然は存在し続け、夜のあとは朝になり、冬のあとには春が訪れ、蕾はやがて花を咲かせる。

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