映画『パーフェクト・ケア』を見た

U-NEXTの配信で。1900ポイントは映画館の一般料金とほぼ同額。自宅のなんちゃってホームシアターで見ても迫力に欠けるが、近場の映画館で上映していないのでそこまで行く交通費や時間、さらに席ガチャとトレードオフと考え配信を選択。

 

老人を食い物にする恐ろしい女の話。医者と共謀して身寄りのない裕福な老人を無理やり施設に入居させ、代理人として資産を合法的に奪う。法律を知り尽くしているのでマフィアでも正攻法では彼女に勝てない。『ゴーン・ガール』もそうだったが、アクの強い主人公を演じるロザムンド・パイクの存在感が圧倒的だった。物凄い美貌なのにストーリーを追ううちにその美貌がとにかく憎らしくて嫌らしくて我慢ならなくなり、彼女が不幸のどん底に突き落とされるのだけを期待しながら見ていた。ゲースロのジョフリー然り、演技で観客をムカつかせることができる俳優は本当に素晴らしい。主人公はある意味無敵の人である。マフィアに拘束されても殺されるのを恐れないし、母親を殺すと脅されても「あんな毒親」と吐き捨てて顧みない。こういう捨身のやけくそ人間ほど強くて恐ろしいものはない。だからマフィアは殺そうとする、が間抜けにも仕留め損なう。なぜ死んだかどうかきちんと確認しないのか。猛獣のような人間を殺し損なうのがいかに危険かを知らないマフィアなんて。案の定彼女は逆襲に出、マフィアは敗北する。彼女はかつて以上に社会的地位と権力を手に入れる。この展開は胸糞悪い。全部マフィアが間抜けなせいだ。ラストで彼女が受ける報いは観客の感情を考慮した結果仕方なくそうした、みたいなとってつけたようなもので、これならいっそ最後まで勢いよく突き抜けて胸糞悪いまま終わりでもよかったのでは、と思った。

 

いずれこんな事件が本当に起きそうと思わせるようなストーリーだが、『柳下毅一郎の特殊な本棚』によるとすでにアメリカでそっくりな事件が起きていた。老人を食い物にした養護ホームの女性経営者。彼女は身寄りのない社会保障受給者を受け入れ、彼らに給付される社会保障小切手を偽造の筆跡で現金化し、さらに入居者から指輪などを盗んでいた。ホームの庭を掘り返すと都合七体もの遺体が出てきたという。彼女の事件は本になって翻訳もされているので(ダニエル・ブラックバーン『ヒューマン・ハーヴェスト』)いずれ読んでみたい。

 

ムカつく、イラつく映画だったが面白かった。今年自分が見た洋画の中では数少ないアタリと言っていい。今週末見に行く『ラストナイト・イン・ソーホー』もアタリであってほしい。

 

 

この本も『新世紀読書大全』も素晴らしいブックガイド。

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ここ最近、配信で視聴した映画

ここ二週間で視聴した映画の感想をTwitterを絡めつつ簡単に残しておく。U-NEXT、年内で解約するか検討中。月会費2200円のうち1200円分のポイントが付与されるので実質(この「実質」がクセモノなのだが)1200円。見放題作品を週一で見ると一本あたりの料金は300円。週二本なら150円。週三本なら100円…だがさすがに週三本は無理。ただ最初の20分くらい見てつまらないから途中で見るのをやめることはたびたびある。せっかくの見放題だから見ないと損と思い始めると視聴が義務化してしまい苦痛。何事も強いられるのは苦痛である。とりあえず今しばらく検討を続ける。

 

 

羊たちの沈黙

『セブン』は今見ても古さを感じないのに対して『羊たちの沈黙』は若干賞味期限切れを感じる。画面の印象か。バッファロー・ビルよりレクター博士の方が怖くて存在感もあるから恐怖の対象が分散してしまい、まとまりが悪い印象もある。ビルがバンに犠牲者を押し込むのと、クラリスに背中を向けて逃げるシーンはいい。前者の、怪我人を装って女性を連れ去る手口は『バニシング』のオマージュか。この映画を見る一番の楽しみは若きジョディ・フォスターの凛々しさにある。眼福。タイトルの意味をいつも忘れてしまい、見るたびそうだった、と思い出す。

 

ガール・オン・ザ・トレイン

序盤のエミリー・ブラントアルコール依存症者の演技は、節酒・禁酒の啓発運動で使えそうなくらいインパクトが強く怖い。主要女性キャスト三人とも美しく、画面が華やかなので退屈な筋でも見ていられる。しかしこの映画の登場人物たち皆結構いい暮らしをしているけど精神科医以外は何の仕事をして生計を立てているのかまったく分からないのが作り物めいているというか。オチはスッキリした。

 

チャイルド44

ミステリーとしてはつまらなかった。犯人は唐突に登場するし、インパクトもないし、ナチスの薬物のせいとか馬鹿馬鹿しいし。だがソ連ディストピアっぷりを描いた映画としてなら見応えがあった。連続殺人は資本主義国家にのみある犯罪でソビエトには存在しないとの党の見解には呆れるほかない。そんなの当時から誰も信じちゃいなかっただろうが。『子供たちは森に消えた』、いつか読む。

 

『裏窓』

のどか。時代の懸隔を感じる。ヒッチコック映画の中では面白い方との記憶があったが今の自分には退屈だった。続けて見た『ハリーの災難』はテンポが遅すぎて途中でよしてしまった。『めまい』は画はいいけど男のストーカーぶりが気持ち悪いから嫌い。『サイコ』は今見ても面白い。

 

『ヒドゥン』

寄生獣』っぽさある。こういう『ボディスナッチャー』的なのが冷戦時代のアメリカにとってリアルな恐怖だったと言っていたのは押井守監督だっけ。カーアクションとか銃撃シーンはかなり頑張っている。カイル・マクラクランが出ている『カポネ』、評価低いけどそのうち見よう。

 

死霊館 エンフィールド事件』

幽霊のやってること自体はしょぼい。ベッド揺らしたり、大声で脅かしたり、テレビのリモコン隠したり。聞かれてもいないのに72歳と自己紹介。終盤の突入シーンも太っちょは狭くてドアから入れなかったり、さりげなく笑いを入れてくるのが可笑しい。夫はあんな気味悪い絵を壁にかけとくなや。シスター姿の悪魔が絵と重なって実体化するシーンは怖かった。悪魔憑きってキリスト教に関する知識が一切ない人がいたとしたらそういう人にも起き得るのだろうか。たぶん起きない。

 

ロゼッタ

ロゼッタがちっとも可愛くないのが面白い。貧すれば鈍する。彼氏? がオートバイをバリバリ言わせながら無言でロゼッタの周りぐるぐる回るのはシュールだった。

 

『ライト/オフ』

これはアイデアの勝利。モンスターの設定に関しては真面目に考えるだけ無駄なので純粋に映像を楽しむスタンスで見ればいい。見終わって「あーあのシーン怖かったー」と思えれば十分。彼氏は死なないだろうと思って見ていたが途中で違うか、と思い直し、でもやっぱり生き残ったので安堵。『ファイトクラブ』的なオチは意外だった。

 

インシディアス

他人に言ったりはしないが、自分は寺社へのお詣りを儀式以上のものとは考えていないし、占いはでまかせだと思っている人間である。しかし悪魔や幽霊や超常現象などのオカルト映画は好んで見る。それに矛盾を感じないのが我ながら妙である。

 

エド・ゲイン関連の二冊を読む──ハロルド・シェクター『オリジナル・サイコ』とロバート・ブロック『サイコ』

 

 

 

ヒッチコックの映画『サイコ』(原作はロバート・ブロックの小説)のノーマン・ベイツのモデルとなったアメリカの殺人犯エド・ゲイン。彼は少なくとも二人の女性を殺害して解体し、さらに二十以上の墓を荒らして死体を持ち帰り、人体で工作していた。その事実が世間に明らかになったのは、1957年、ウィスコンシン州の農村プレインフィールドで金物屋の女性主人が日中に店から姿を消す事件が発生し、領収書にゲインのサインがあったため警察が彼の家を訪れたことによってである。そこには無惨に変わり果てた被害者の姿があった。当時ゲインは51歳。彼は電気も水道もない家に、両親と兄が死んだのちも一人で住んでいた。ちょっと馬鹿で変なところもあるが悪い奴じゃない──近所はおおむね彼をそう評価していた。時々ちょっとしたからかいの対象にもなった。ゲインは両親が遺した農場はほったらかして、近所から依頼される臨時の手伝いをやって生計を立てていた。誰も彼のもう一つの顔を知らなかった。

 

ゲインの犯行の具体的内容については『オリジナル・サイコ』あるいは平山夢明『異常快楽殺人』を読まずともWikipediaで検索すれば出てくるので興味があればそちらをあたればいい。この事件をもとにロバート・ブロックは『サイコ』を書き、それをヒッチコックが映画化した。トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』に登場するレザーフェイスもゲインをモデルにしている。この映画がスプラッターというジャンルを生んだ。『羊たちの沈黙』に登場する殺人鬼バッファロー・ビルもゲインをモデルにしている。かように、エド・ゲインがアメリカのカルチャーに与えた影響は多大なものがあった。

 

ハロルド・シェクター『オリジナル・サイコ』はゲインの生い立ちからその犯行、さらに事件発覚後の地元やアメリカ社会の反応までを網羅したノンフィクション。しかしこれを読んでもゲインが異常な凶行におよんだ理由は判然としない。彼は狂信的クリスチャンの母親に虐待されて育った。母オーガスタはアルコール依存症の夫が早く死ぬよう祈れと息子たちに強要し、恋愛や性欲を汚れたものだと吹き込み、子供たちが友人を作ることを許さなかった。ゲインは母親の死後も彼女の影響から抜け出せなかった。そして彼女を憎みながら彼女を崇めるという相反する感情を抱き続けた。彼の人体工作による女装も、彼が殺害した二人ともが中年女性だったのも、彼の母親への執着を示している。思慕と憎悪による執着。しかし本人は憎悪に関しては自覚していない。供述で彼が母について口を開けば、彼女は常に正しい人間であり誰よりも立派な女性だったと繰り返した。

 もちろん、ある程度までは、誰でも母親に対してある程度のアンビヴァレンス──憎しみと愛の両方──を経験する。だが、精神分裂病者は、しばしば混ざり合った感情をきわめて強烈に感じる──大人であっても、子供のようなバラバラに分裂した認知をする。意識的には、彼は母親を「あくまでも優しい、至高の、崇高な、完璧な」ものとして見ている。だが、もっと心の奥底では、母親をそれとまったく反対のものと考えている──究極の邪悪として。

事件後、彼は精神科医と以下のようなやりとりをする。

 記憶の欠落がはじまったのは母が死んでからだ、と言う。母親が死んだあと、どんなことに関心があったか、と特に聞くと、もっと他人と触れあいたかった、とだけ答えた。母親が死んでから、自分のまわりが非現実的に感じられるようになり、あるとき、母の死後すぐ、意志の力で死人を甦らすことができると感じた。彼はまた、死後約一年間、ときおり母の声が聞こえたとも言った。

逮捕後、ゲインが何らかの精神疾患を抱えているのは明白と思われた。まともな人間が人体工作などするだろうか。死者の声が聞こえただの、墓を暴いているときは夢の中にいるようなぼんやりした気分だっただのの供述がそれを裏付けた。一方で疑問を抱く人々もいた。彼は近隣住民から馬鹿扱いされていたが、知能テストの結果IQは平均程度であり、また供述では核心部分を曖昧にぼかすといった機転のよさも見せた。彼に刑事責任能力があるのか否かが、事件後の世間の最大の関心事だった。そして面接にあたった精神科医はゲインを精神病者と診断し、彼は刑務所や死刑台ではなく精神病院送りとなる。ゲインにとっては電気も水道もない不潔な農家で食うや食わずの孤独な生活より、清潔な病室で一日三度の食事が出され、服、テレビ、医者の世話まで付いている病院での生活の方がはるかによかった。彼はその生活を、1984年に77歳で死亡するまで送った。病院では歴史に残る猟奇的犯罪を起こした人物とは思えないほど大人しく従順で模範的な患者だった。何度か退院の希望を出したが遂に許可されなかった。

 

エド・ゲイン以前にも異常殺人者や猟奇的犯罪者はいた。しかし彼がこんなにも当時のアメリカ社会に衝撃を与え、後のカルチャーに多大な影響を及ぼしえたのは、当時のマスコミによる過熱報道が大きかったのではないか、と『オリジナル・サイコ』を読むと思えてくる。平和な農村は一目エド・ゲインの家を、異常犯罪の現場を見ようと連日大挙して押し寄せる野次馬連中で大混乱に陥った。被害者遺族や、自分の住む村が突如として殺人鬼の故郷にされてしまった地元の人々は、ゲインの犯した犯罪とその余波に苦しみ、彼が死刑台送りにならず精神病院でのうのうと暮らしていることに不満と怒りを募らせた。そしてゲインの資産を整理するための競売が実施される前夜、彼の暮らしていた粗末な家が火事で全焼する事件が起きる。放火だった。しかし警察は犯人を見つけられなかった(本気で捜査しなかった?)。自宅が火事で燃えてしまったと病院で医師から聞かされると、ゲインは安堵したような表情で、一言「よかった」とだけ洩らした。やがて巷ではこんな噂が人々の間で囁かれるようになった──燃えてしまったあの家の壁には、もっとたくさんの犠牲者たちが埋められていたのではないか、と。

 

前述のとおりエド・ゲイン事件をモデルにしてロバート・ブロックは『サイコ』を書いた。ベイツの剥製趣味はゲインの人体工作の婉曲表現。彼の女装は亡き母への執着。母の部屋を封印して生前のまま保存している設定はまさにエド・ゲインがやっていたことそのままである。母の部屋はゲインにとって聖域だったのだ。ヒッチコックの映画は原作を忠実になぞっている上に刺激はこちらの方が強いから、映画を見ていれば原作は読まなくてもいいと思う。違いとしては原作ではベイツが太ったメガネ男に設定されていることくらい。あのシャワーシーン、あの音楽、メアリーを追跡する警官の不気味さ。映画と比較すると原作は退屈だった。

 

以下、『オリジナル・サイコ』から。

 彼の名前はノーマンではなく、モーテルを経営してはいなかった。だが、アイゼンハワー統治下の平和でうららかな日々、アメリカの中心部にある人里はなれた農場に、歪んだ笑みを浮かべた内気で静かな独身男が住んでいた。昼のあいだ、隣人たちは彼のことを風変わりだが人のいい男だと思っていた。脱穀のときには手を借り、雑用の手伝いを頼むのにはうってつけの相手だと。誰一人、彼の生活が死んだ母親の圧倒的なパワーに支配されており、夜には途方もなくおぞましく、すさまじい儀式を行っていようなどとは思いつきもしなかった。墓を荒らし、女性の死体を切り刻み、服ではなく犠牲者の皮膚そのものを使って女装する。誰にも気づかれぬまま、彼は何年間も口にも出せぬほど恐ろしい行為を続けた。そしてしまいに残虐行為が明るみに出され、全米に嘔吐の痙攣を引き起こした。その後遺症は今なお感じることができる。事件はロバート・ブロックという作家にインスピレーションを与えて『サイコ』なる小説の元となり、その小説が、一年後、アルフレッド・ヒッチコックの手でこれまで作られたもっとも恐ろしい映画に姿を変えたのだ。だが、三十数年前にウィスコンシン州で起こったことに比べれば、『サイコ』などおとぎ話のように可愛いものである。

 

映画『モーリタニアン 黒塗りの記録』を見た

アルカイダを追跡する過程で、アメリカ軍がグアンタナモ収容所にて囚人に行った拷問を告発する。日曜夕方で観客は10人くらい。前の方にいた男が上映前にマクドナルドのセットを持ち込んで食い始めたのに驚いた。笑い話的に聞いたことはあったが本当に映画館でマック食う奴っているんだ…と。自分とは席が離れていたのでどうでもよかったが、そばでやられたら匂いがきつくてたまったもんじゃない。前にいたら後ろから席蹴ったかもしれない。近くにいた女性二人に同情。自分なら席移動するが。

 

米軍がグアンタナモで囚人を虐待していたとは当時日本の新聞でも結構大きく報道されて、それを読んだ記憶がある。この映画の原作となった手記の執筆者で主人公のスラヒは、アルカイダのリクルーターとの容疑で身柄を拘束され、グアンタナモで自白するよう強要される。しかし本人は無実だと訴える。証拠が出ないにも関わらず、軍は八年間一度の裁判もなしに彼を拘束し続けた。その間、軍による拷問が行われた。窓のない独房に閉じ込め、11度設定のエアコンをかける。中腰の不自由な姿勢のまま立たせ続ける。スピーカーでヘビメタを大音量でかけ、照明を激しく明滅させて聴覚・視覚を刺激する。眠らせない。性的虐待。殴打等の暴力。飯を無理やり口に突っ込む。家族を捕えて囚人にレイプさせると脅迫する。水責め。よくぞここまで豊富なアイデアが出ると感心するほど様々なパターンで行われる拷問。水責めは『ゼロ・ダーク・サーティ』でも描かれていた。あの映画では容疑者を小さい箱に押し込むというのもあった。やはり眠らせないのがもっとも効果的なようで、遂にスラヒは折れる。想像するに食事や水はまだ何日かは我慢できるだろうが眠らせてもらえないのはきつい。

 

もう一人の主人公である人権派弁護士のナンシーが裁判のため当時の資料を請求すると、書類の大半が重要機密の名目で黒く塗りつぶされていた。真相を知るための書類が黒塗りでほとんど読めない…これ、なんか聞いたことがあるな…と思いつつ、しかしさすがアメリカと言うべきか、裁判で資料の開示請求をするとちゃんと通って塗りつぶされていない資料の閲覧が可能になる。ナンシーはこれにより軍による自白強要目的の拷問があったのを知る。

 

この映画の見どころは中盤の拷問のシーン。自分がスラヒみたいな目に遭ったら一晩もたないだろうなと。彼が独房の中でひたすらアラーに祈り続けるシーンは遠藤周作の『沈黙』を連想させた。そして同じように神は応えず沈黙するのみ。ナンシーと対決する検察側の中佐が事実を知り、良心が咎めるのを感じて事件の担当を降りると軍の上官や同僚から「裏切り者」と罵倒されるシーンは、正義や法の尊重より組織の論理が優先されるのは軍も一般企業も一緒だよなあとしみじみ。だからこそ軍隊や警察に権力を持たせ過ぎるのは危険で、スラヒも祖国モーリタニアでは警察や政府は恐怖の対象でしかなかった、留学先のドイツで初めて警察を恐れなくていい生活があることを知ったと言っている。こういう感覚は日本で生まれ日本で暮らしているとわからないので、外国の映画を見る意味の一つにそういうことを知る、というのがあると思っている。

 

グッドエンディング、と見せかけてのその後の展開がまた奇怪。現実は甘くない。あの9.11テロ関連の事件だから世論を考えるとはいそうですかと釈放は難しいのかもしれないが。事件をある程度知っているし、展開も結末を除けば王道的なものだしで見ていて意外性はないが退屈せず最後まで見られた。スラヒのキャラがよかった。ジョディ・フォスターの顔を見ると安心するのはなぜなのか。この人、若い時から変わらず見ていて飽きない。もっと見ていたいと思わせる存在感がある。それがスターなのかな。ラブ・シックさんが夢中になって手作りの冊子を作ってしまうのもわかる気がする。

 

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横浜へ行ってきた

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いつからかは知らないが、東武東上線元町・中華街に直結したので埼玉から電車で横浜へアクセスしやすくなった。今回が初めての利用だが。横浜へ行ったのは人生で三回くらい。中学生の頃の遠足と、別の女性と二回。たしか。最後に行ったのは何年前だろう、10年はいかないだろうがそれに近いくらい以前だと思う。個人で行った二回はどちらも自動車でだったと思う。その二回とも中華街へ行った。あとどっか洋館。いいものを食べた記憶も楽しかった記憶もない。嗜好に合ってないことをしたせいだ。自分は特別中華が好きではないし洋館にも興味は薄いし人混みは大嫌い。なので今回は中華街は避け、混雑する横浜駅周辺も避け、山下公園周辺(というのか別の呼び方があるのか)のホテルを選択。最近自動車の運転がだるいのと、冒頭で述べた電車の接続がよくなった理由から目的地までの移動は電車で。

 

なぜ横浜か。なんとなく海が見たくなったのだ。もう二年以上海を見ていないのだ。

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結論を先に言うと、たしかに山下公園から海は見られたんだが、違う、これじゃない、俺は向こう岸なんてない海を、海岸から、あるいはビーチから見たかったんだ…と思ったが、同行者にそう言うと、港なのはわかってたことだろ、とピシャリ。俺が見たい海を見るなら千葉か茨城か伊豆あたりへ行かなくてはダメだった。なので海を眺めたいとの望みは半分くらいしか満たされなかったけれど、他の場所をいろいろ回ってそっちが楽しかったので結果的には満足度の高いいい二日間を過ごせた。

 

金曜日の午後三時頃、同行者と日本大通り駅で合流。駅を出て、とりあえず海の方へ。覚えのある道。覚えのある風景。当初、そこを山下公園だと思ったのだが、後ほどそこは象の鼻パークだったと知る。

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赤レンガ倉庫とインターコンチネンタルとコスモワールドの観覧車を見ると、ああ俺は今横浜観光をしてるんだなあという実感が湧く。あとベイブリッジ氷川丸が自分にとっての横浜のシンボル。

 

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山下公園まで移動。あ、こっちが山下公園だったのか、と。日本大通りの銀杏並木はまだ緑と黄が混じり合っていた。ここが真っ黄色に染まったら夕暮れどきなどさぞ壮観だろう。この近くのホテルにチェックイン。日が暮れる前に散策しようと荷物を部屋に置いてすぐに出る。山下臨港線プロムナードというのか、山下公園と赤レンガ倉庫を結ぶ一部陸橋の道を行き、大さん橋へ。

 

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この大さん橋って行った記憶がなくて、どころかあったかどうかも覚えていなくて、でも調べたら2002年に今のターミナルができたとあるので以前来たときはスルーしたのだろう。同行者によると自分はどちらも忘れているのだが、前回来たときには氷川丸にもマリンタワーにも入ったという。でも大さん橋へは行っていないと。歩くのが好きな自分好みのスポットで、通りかかれば絶対寄ったと思うのだが、それをしていないのだから存在自体を知らなかったのだと思われる。でも、あれだけ湾に突き出ていて客船も停泊しているような場所を見落とすとは考えづらく、昔の自分が何を見、どう思ったのか今の自分には知る由もない。とりあえず今回は見るなりあそこへ行きたい、となった。

 

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観光客と思しきグループ、学生のグループ、犬の散歩している人、いい写真が撮れるのか三脚据えてバズーカ構えている人、あと記念写真を撮影している新郎新婦などいろいろな人たちがいたが、デッキが広いので混雑している感じはまったくなかった。平日の五時前だったし。眺望がよくて、おお海だ、海に来たんだ、という実感が少し増した。

日が暮れてきたので会社帰りの人が通りに増える前に飯屋へ移動する。徒歩で関内駅近くの伊勢佐木モールへ。目当てはスープカレーのRAMAI。以前函館へ旅行したとき五稜郭そばのこのお店で食べたスープカレーがえらく美味しかった記憶があったので横浜にもあると知ったときは驚き、喜んだ。せっかく近くまで来たのだから行っておきたい。大さん橋からだとナビアプリの表示で2キロ弱、20分程度の距離。山下公園から関内方面へ向かうとたった1キロそこらの距離なのに街の雰囲気ががらりと変わる。一気に生活感が出てくる。人も増える。賑やかになる。

 

しばし迷ったのち発見し入店。ビルの7階。わかればなんてことないがわからないとわかりづらい場所。ビーフスープカレーふたつと、自分は瓶ビール、連れはラッシー(ラマッシー)。コロナ禍以降、手を使わざるを得ないチキンのスープカレーを選択するのを躊躇するようになった。スープの大盛り無料はありがたいサービス。具もたくさん入っていて食べ終わったら満腹になった。店のすぐそばにブックオフがあったので入店。連れがいるので20分くらいざっと見て回っただけで何も買わなかったが、110円の新書のコーナーがよく、ほかも値付けは甘くないけど新刊で品切れなのがちらほらあってラインナップが充実していた。伊勢佐木モール、ほとんど滞在しなかったがお店たくさんあって、細い脇道ではタバコ吸ってる人がたむろしてたり、庶民的な生活感の充溢している楽しい雰囲気だった。道が広いから歩きやすいのもよかった。

 

ホテルまでの帰りも徒歩で。横浜スタジアム前を通ったら空に向かってスマホを構えている集団がいるので何かと思ったら月食だったらしい。自分は野球にまったく興味はないが球場のある街には独特の雰囲気のよさがある。まあ観覧者がいない夜だったからそう思っただけかもしれないが、スタジアムの照明が灯って歓声が外まで聞こえるのって楽しそうではある。それともうるさいだけだろうか。グーツで夜食としてマリトッツォと横浜ラガーを購入してホテルへ戻る。このグーツってコンビニ、埼玉だと狭山SAに入っている。この日の歩数は12110歩。

 

 

翌日。素泊まりプランなので朝食なし。どのみちおっさんは朝に弱く食べられない。チェックアウトして近くの大戸屋でブランチ。大戸屋とサイゼが好きである。で、昨日はあまり歩けなかった山下公園を時間をかけてゆっくり散歩。風が強かったのでキャップが飛ばされないよう気をつけながら。ベンチの周りに人だかりができているので何かと寄ったらフクロウを連れている男性がいた。氷川丸の向こうには佇むガンダムの姿。ガンダム全然知らないが、ここまで来たのだから近くまで行ってみようと、自分以上にガンダムを知らない(興味もない)同行者を無理やり。そばまで行けるのかと思いきや、入場料がないと無理のもよう。なので引き返す。

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マリンタワーはスルー。公園内の花を眺める。バラなど咲いていたけれど秋だから寂しさが。人はそこそこ出ていたが混雑というほどではなく、この頃には風も弱まり、天気がいいのもあって休日の昼過ぎののどかな幸福感みたいなのを覚える(ケルアックがプルーストを評した言葉──「日曜の午後のあの素晴らしい永遠」だっけ?)。

 

またプロムナードをみなとみらい方面へ。途中赤れんが倉庫で一服。ボーダーコリーを連れている人を何人か見かけた。ボーダーコリーはいい。俺に甲斐性と覚悟があればまた飼いたいとも思うが、死んだときの痛みが体の一部をもぎ取られるくらい強くて辛いからもう犬は飼えないだろう。動物は生きている間は本当に幸福を与えてくれるが、それだけに失った時の悲しみは耐えがたく、寿命が縮むかと思えるほど。

 

ワールドポーターズを過ぎコスモワールドに差しかかかったあたりで通行人がかなり増えた。立ち止まって写真撮りたかったが迷惑だろうと思い控えた。クイーンズスクエアの広場で大道芸が始まるところだったので階段に座って最後まで見ていった。見応えあり面白かった。で、みなとみらい線横浜駅まで移動。電車を降りるとここは新宿駅かと思うほど人が多く戸惑う。少し迷ってジョイナスへ。AFURIで早い夕食(四時頃)。横浜まで来たのに新宿にもあるAFURIでいいのかとも思ったのだが、少し検索したところ家系ラーメンのお店ばかり出てきて、自分は家系が好きではないのでAFURIにした。コラボのカップヌードルは食べたことあるけれどお店で食べるのは初めて。店内満席でちょっと待った。着席するとすぐに提供。柚子塩らーめん、かなり自分好みだった。スープはカップヌードルのから想像したのに近かったけれど麺がおいしい。炙りチャーシューもあっさりしたスープのアクセントとしてよかった。1080円と高級価格なのがネックだけれど満足度高い。少し前に行った歌舞伎町のどうとんぼり神座もよかったけれどここも当たり。飯屋で当たりを引くと人生の満足度が跳ね上がる。

 

しかし横浜駅の人の多さはやばかった。一気にテンションが下がった。なので寄り道する気も萎え、有隣堂で本を買って早々に退却。山下公園、みなとみらいでのんびりしていただけにギャップが物凄かった。人が多いと疲弊する。新宿や池袋だと多少平気なのは慣れているのもあると思う。横浜駅に来たのなんてそれこそ遠足以来じゃなかろうか。この日の歩数は12118歩。

 

最後は尻すぼみになってしまったがこの二日間はかなり旅行気分が満喫できた。久々に知らない土地を見て歩いていい気分転換になった。飯もよかったし。たまにちょっと遠出するのはいいものだ。春になったら今度は海岸から海が見えるどこかへ行きたい。

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余分に金を払って快適さを買うタイプ

togetterのこんなまとめがはてブに上がっていた。

togetter.com

 

で、自分はこんなコメントを。

新宿まで急行でも30分程度なのに、追加で料金がかかる特急に並んでる姿を見て驚いた…「スタバ我慢して快適に帰る方がコスパいい」

埼玉県民。ラビューやレッドアロー利用する方。でもせっかく追加料金払ったのに賑やかなグループとか元気なキッズの近くの席になるとちょっと残念な気持ちになる。まあテンション上がるからね、仕方ないね。

2021/11/18 14:38

 

自分がコメントする際連想したのは西武線の特急レッドアローである。レッドアローは埼玉県の本川越から西武新宿までを結んでいる。途中所沢や高田馬場を経由する。自分はこの特急が好きで都内へ行くときはわりと積極的に利用する。土日であっても西武新宿線の上りはそこまで混雑しない。だから新宿へ行くのにわざわざ特急ではなく急行で行ってもいいわけだ。でも時刻の都合がつくなら優先して特急を利用する。なんなら急行を一本見送ってでも追加料金を払って特急に乗る。なぜか。

 

特急のスペシャル感が好きなのである。テンションが上がるのである。特急車両のシートは座り心地が快適でリクライニングもできる。座席の向きが列車の進行方向に対して横向きではなくまっすぐなのもいい。自動車や飛行機と同じで、グラビティ的に快適な構造だと思う。で、自分はシートを少しだけ倒して、前席背面のテーブルを倒して、コンビニコーヒーかなんかドリンクを乗せて、スマホをいじり、飽きたら過ぎていく窓外の景色をなんとはなしに眺める。これは横向き一列シートではできない。晴れた土曜日の昼過ぎ、空調の効いた車内から、知らない町で知らない人たちが立派に生活しているのを眺めると、じわじわと生きる勇気のようなものが湧いてくる。内田百閒先生の阿呆列車じゃないけれど、目的地へ行くこと着くことより快適に気分良く移動することを優先しているのかもしれない。30分かそこらの移動でも特急に乗るとちょっとした旅行気分が味わえる。元々自分は子供の頃から移動が好きだった。家族旅行はいつも父の運転で、目的地が家から遠ければ遠いほど知らない景色が長時間見られて楽しかった。高速に乗ってしまえば壁やトンネルで景色なんてろくに見えやしないのだが。中年になった今でも知らない道を通ることに積極的な方である。知らない道を行く、知らない風景を見る、というのが好きなんだろう。

 

話を戻す。レッドアローはスマホから乗車券が買える。会員登録が必要だが。窓口まで行かずとも好きな座席を指定して買えるのは便利である。先日歌舞伎町へ行ったときもレッドアローに乗っていった。比較的空いている特急である。車内に自分一人だけ、ということも珍しくない。神経質な人間なので他人が周囲にいないというのはものすごい安らぎである。反対に上記のコメントのように、賑やかなグループや元気なキッズのいるファミリーのそばの席になってしまうとせっかくの安寧を破られるようで、追加料金も払っているだけに残念な気持ちが強くなる。でも元のまとめを見ると子供がいるからあえて特急を選択する、という意見もあって参考になった。子供を持ったことがないから想像もつかなかったがたしかにそういうものかもしれない。

 

レッドアローなら数百円程度の追加料金で済む。それでちょっとした旅行気分が味わえるなら娯楽として安いものである。では新幹線のグリーン車はどうだろう。これは料金が大幅にプラスになる。シートがよくて、スペースが広くて、電源とか照明とがが付いているんだっけか。人生で二回、新幹線のグリーン車に乗ったことがある。これはもう旅行気分どうこうではなく、長時間の移動になるから体の負担を軽減する目的で乗ったものである。一回目は北海道新幹線。あまり覚えていないのだが快適だったような気がする…というか寝てしまったのだったか。寝て、起きたらKindleで何か読んで、また寝て…と繰り返しているうちに大宮に到着したような。でも今調べたら四時間も電車に乗ってたんだ。きっつい。二回目のグリーン車山陽新幹線。広島から東京まで…だったかな。これも座席の記憶はほとんど残っていないのだが、広島駅でカープの選手と一緒になったのは覚えている。通路を挟んで横のシート。やっぱりプロ野球選手はグリーン車なんだ、と(当たり前だが)感心し、しかし野球に興味がないのでなんという選手かはわからなかった。あんまりチラチラ見るのも失礼だし。で、すぐに自分は寝てしまった。高い追加料金払っても、寝るんだったら一般シートでいいじゃねえか、という気がこうして書いている今、してきた。

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広島駅ホームでファンに取り巻かれていた。2018年5月


特急やらグリーン車とは話が少しずれるが、映画館ではプレミアムシート的なのがあると追加料金を払ってでもそちらを選択する。自分はパーソナルスペースが広く、他人がそばにいるとストレスを強く感じるからである。ただ、プレミアムシートってシート自体は快適にデザインされていても前後の間隔は通常シートと同じなことが多くて、以前六本木のTOHOシネマズで高い席に座ったのに後ろから蹴られたのは残念だった。不思議なんだが、映画館ってどうしてあんなに席を多く作るのだろう。言っちゃ悪いが都心以外の映画館なんて土日の昼時ですら120人定員のシアターに30人かそこらしか入らないなんてザラなんだから、もっと席数を少なくして前後左右の間隔を空けたシアターを一部でも作ったらいいと思うのだが。多少割増料金でも自分は利用すると思う。コロナ禍により、前後左右に他人がいない鑑賞環境がどれほど快適かに気づいてしまった。

 

特急にせよ映画館にせよ、自分は金をいくらか余分に払って快適さを買うことに積極的なタイプということが振り返ってわかった。普段通勤は自動車で、電車には月に一度か二度しか乗らないし都内にちょくちょく出かけるわけでもない、映画館も同程度の頻度でしか行かない、だからこそ可能な選択である。

 

映画『由宇子の天秤』『マリグナント 凶暴な悪夢』を見た

約一ヶ月ぶりの映画館。土曜日に『由宇子の天秤』、日曜日に『マリグナント』を。

 

前者、町山さんがラジオで絶賛していたので見るのを楽しみにしていたが、かなり退屈で苦痛を感じるレベルだった。二時間半の上映時間は長すぎる。音楽が流れないせいで盛り上がりに欠ける。画面も常に暗くて気が滅入る。押井守監督の奥様じゃないが、登場人物の台詞が聞き取りづらい、アパートを出たり入ったりしている映画、という印象。

 

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報道が孕む諸問題というテーマはいい。でもそれをドキュメンタリーでなくドラマとしてやるんだからもっと観客が楽しめるように見せ方を工夫してほしい。音楽やユーモアがいかに重要か。ドストエフスキーの深刻な長編にだってユーモアはある。途中から後ろの方でおっさんが大いびきかきはじめて、普段なら腹が立つところだが今回に関してはまあしゃーないよな、と(席が遠かったからさほど気にならなかったし)。しかし台詞聞き取りづらかったなあ。

塾の経営は父ではなく由宇子の夫という設定ではダメだったのかな。その方が女子高生と関係を持つという点でリアリティがあったように思うが。で、その後由宇子の妊娠が発覚する展開になれば彼女が隠蔽に傾く経緯もより説得力が増したのでは。「重大な事実誤認」のトリックは興醒め。推理小説であれやられたらムカついて放り投げると思う。報道の舞台裏の描写は興味深かった。「編集したものが真実になる」。父親に向かって「真実を告白したいなんて大層なこと言ってるが本当は自分が楽になりたいだけだ、得るものと失うものを秤にかけたら背負っていくしかないんだからその覚悟をしろ」と啖呵を切った由宇子がラストであっさり変節したのも、そのあとの悶着も、展開的に不自然に感じた。会計が遅い高齢者とか、キレるティッシュ配りとかの小ネタは面白かった。一番感心したのはアパートにあった自筆の貼り紙。あれは怖くてよかった。観客は20人から30人くらい。年齢層高かった。

 

 

後者もわざわざ映画館まで行くほどではなかった。配信で十分。バケモノのアイデア、デザインは斬新でよかったが。見所は妹のシドニーの可愛さ。あと、珍しく刑事が比較的有能だった。男性刑事の方。彼が追跡する中盤のシーンは楽しかった。廃墟のような精神病院とか、世紀末感漂う留置場とか、ああいうテンプレ的というのか漫画的というか、わかりやすい表現は興醒めだからやめてほしい。いろいろツッコミどころはあったが一番は事件があった家で呑気にその後も暮らし続けてんじゃねえよと。続編が作れそうな感じで終わったがどうなんだろう。こちらも観客は20人かそこら入っていた。

 

 

今週は変な客に遭遇せず比較的快適に見られたが肝心の映画が二本ともつまらなく残念。土日で二回映画館へ行くと上映時間はむろんのこと移動時間もかかるので貴重な休日の大半を費やしてしまう。どちらも見るの楽しみにしていたんだが…。『マリグナント』を見終わって、面白いアイデアを活かして楽しく見られる怖い映画を作るシャマラン監督ってやっぱ偉大だな、と思った。