「もう二度とSNSができない身体にしてほしい」、あるいは本当は恐ろしいインターネット

 

読んだ。ネタバレあり。

 

SNSに自撮りを投稿して「いいね」をもらうのを生きがいにしている女性の物語。

彼女にとっては人間の価値=フォロワー数。

なぜそんなにもフォロワーから承認されなくてはいけないのか。「いいね」が欲しくてたまらないのか。その理由を彼女自身わかっていない。ただ駆り立てられている。渇いた喉が水を欲するように脳が「いいね」を求めてやまない。

 私はこれからもフォロワーへの依存を止めることができないだろう。「こんなもの」と鼻で笑いながら、いいね! の数に何よりも執着する自分をどうすることもできないだろう。自分でも、何故こんなにも他人からの承認を必要とするのかわからない。何故いいね! とフォロワーだけが自分を救えると信じているのかわからない。何故私は吐き気がするほど、震えるほど、見知らぬ人間から承認されたいのだろう。アメーバのくせに承認されたいのだろう。他人からフォローされるような存在になれば、何かがマシになるとでも?

 

 喉から手が出るほどフォロワーが、欲しい。震えるほどフォロワーが、欲しい。「フォロワー」と呟いてみると、脈拍が速くなり口の中が乾き両目に涙が滲んで膝ががくがくと戦慄いた。

彼女がフォロワーからの承認を求めずにはいられない理由。それは彼女自身には何かを発信できる能力は備わっていないのに、自分という存在を世の中にアピールしたいという自己顕示欲だけが肥大化しているせいだ。インフルエンサーが投稿してハッシュタグでタグ付けされた場所へ行って同じような写真を撮って投稿したり、映えるようなシチュエーションで自撮りしたりしても、そこには創造性もなければ必然性もない。彼女のやっていることは自分という空っぽの器を他人からのフォローや「いいね」で埋めようとする試みでしかない。

 

彼女自身、その虚しさを頭ではわかっていながら、依存症者のように欲求を止めることがどうしてもできずにいる。

 

彼女の他者とのコミュニケーションは歪だ。難読漢字の偽名を用いてそれを読めない店員に対してマウントをとる(彼女の本名も年齢も最後まで明らかにされない)。「マウントの取り合いは、私が信じることのできる唯一の人との繋がりだ」とまで言う。SNSもまた自己顕示欲と承認欲求によってマウントを取り合う闘技場だ。アプリを開けば24時間365日バトルが繰り広げられている。こんなのを覗き続けていたらいずれ病むに決まっている。

 

彼女はある投稿によって思いがけずバズる。フォロワーが爆増する。アプリの通知が鳴り止まない。遂に念願叶った。しかし意外にも(当然にも?)フォロワーがどれほど増えようと、自分は救われないし、世界は変わらないし、クソな人生がクソじゃなくなるわけでもないのだと思い知らされる。

 恐々と確認すると、朝から着実に増えていくフォロワー数が液晶の向こうでやはり自分をせせら笑っていた。フォロワーが増えれば絶対に救われる、救われるよね? と必死に言い聞かせていた私を嘲笑っていた。…この世は自分を救うと信じていたものが当然のように裏切り、私を奈落の底へと突き落とす場所だ。

 

前半の自己顕示欲および承認欲求全開っぷりと中盤のバズったのに救われないと自覚するあたりまでが面白い。終盤はちょっと勢いがダウン。ラストはキューブリックの『2001年宇宙の旅』みたいだった。

 

 

 

以下、インターネットについてとりとめなく述べる。またかって感じですけど。

 

SNSにおける自己顕示欲、承認欲求をテーマにした映画に『シック・オブ・マイセルフ』がある。一躍有名になったアーティストの彼氏に劣等感を刺激された主人公は、かと言って発信すべき何の能力もないのに苛立ち、皮膚が爛れる違法薬物を服用し、効果が現れると奇病に冒された悲劇のヒロインとして自己を演出する。注目されるためなら身体を犠牲にすることも厭わない、異常なまでに自己顕示欲をこじらせた女性の物語。彼女も彼氏もともに似た者同士というか、性格の悪い二人が互いにマウントを取り合う様子が不愉快で見応えがある。

シック・オブ・マイセルフ

シック・オブ・マイセルフ

  • クリスティン・クヤトゥ・ソープ
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宇野常寛さんは『平成ネット史』でこう述べている。

 インターネットが証明したことって、結構残酷な真実があると思うんですよ。

 それは、インターネットが誰もに発信の権利を与えても、「発信に値する中身」を持っている人って、ほんの一握りしかいないということ。そんな中、「いま、こいつには石を投げてOK」というサインが出てる人間に石を投げたり、人をいじめたり、自分にとって都合のいい情報を拡散したりする。これってものすごくハードルの低いことで、発信に値するものを何も持ってない人にとっての自己実現なんですよね。その悪魔の誘惑を与えてしまった面があると思うんですよ。

俺も含めて、大半の人間には「発信に値する中身」なんて持っていない。にも関わらず、自己顕示欲をこじらせてインターネットを利用してどうでもいいことであっても発信せずにはいられない。インターネットによって人間に生まれた新たな欲求だろう。相互フォロー、「いいね」の応酬、リポストなどはブログに記事を書くよりもっと手軽な発信だ。そこにはもう馴れ合いしかない。現実でもネット上でも人は群れずにいられない。群れて、メンバーからの承認を得ずにはいられない。

 

 

日夜SNSに入り浸り自己顕示欲と承認欲求を発信し続けている『セルフィの死』の登場人物のような人たちを以前は滑稽、醜悪と思っていた。上には上がいる世界、しかもその上はもしかしたらフェイクかもしれないのに、そんな世界にまじになっちゃってどうすんの、と。だが最近、少し見方が変わった。SNSや動画サービスを攻撃手段として用いる人々の恐ろしさに比べたら、承認欲求モンスターたちの応酬なんて牧歌的なもんだ、かわいいもんだ、と思うようになった。兵庫県知事選に絡む一連の事件のことを言っている。

 

newsdig.tbs.co.jp

 

ネットにデマを拡散して個人を中傷し家族までも追い詰める。耐えきれずに自ら命を断った人に対して「あの程度で死ぬなんて」と侮辱する。表立って批判しようものなら特定され、暗くなってからでないと外出できないほど怖い目に遭わされる。反論や批判を暴力によって封じる。恐ろしい。少し前までこんなののシンパはネットde真実に目覚めたネットリテラシーの低い人たちなんだろうと思っていたのだけれど、最近は逆で、ネットリテラシーの高い人たちなんじゃないか(もしくは主要メンバーなんじゃないか)、という気がしてきた。党首の一連の行為に確信犯的に乗っかって面白半分に加担しているんじゃないか。昔の2ちゃんねるの「祭り」で個人を「特定」していた連中のようなノリで。彼らは下の記事にあるように「虚偽を含む動画投稿は、やったもん勝ちの世界」であるのを熟知しているのだろう。中傷やデマの投稿はたやすい。しかしされた側は一つずつ否定していかないといけない。分が悪い戦いだ。

 

www.asahi.com

 

竹内県議の死に関して恐ろしいのは、上の動画の最後で言われているように、一人の人間がいわれのない中傷によって追い込まれていくプロセスがコンテンツとして社会に消費された点にある。悪質なアカウントはプラットフォームが規制してくれればいいのだが、PVが増えるほど広告収入も増える仕組みになっているから彼らが規制に動くインセンティブは弱く、だから期待できない。

 

一度標的にされてしまったら個人では打つ手がないのがきつい。やはり法規制しかないのだろうか。デマや中傷の拡散を許さないという風潮を一人一人が声を上げて作っていけたらいいんだけど、そんな団結が今この社会で可能とも思えない。色々な考えの人がいるし。

 

インターネットは今や現実世界と地続き。そして現実世界以上に不寛容な目が昼夜を問わず互いを監視している。隙をついてキャンセルしたり、炎上させたり、いわれない「疑惑」をでっちあげて死ぬまで誹謗中傷したりしようと窺っている。2000年代前半、ウェブ2.0なんて言葉に高揚していた頃の自分は無垢だった。そして無知だった、人間について。人間って、インターネットをこんなふうに使うんだ、という失望が、今ある。

 

さやわか (略)もうインターネットはいろんな意見がある人がつながるメディア」ではなくなっている。これを使って動員し、多様な考え方を排除していこう、PV数を稼ぐとそれが力になる、という時代なんですよね。

ばるぼら 「PV数を稼ぐとお金が儲かる」って言うのか「PV数を稼ぐと社会が変わる」って言うかの違いで、ロジックはかなり近くなってしまうんですよね。そしてPV数を稼ぐためならコンテンツは嘘でもなんでもいい、という逆転現象が起きたりしてる。

 

ばるぼら さやわか『僕たちのインターネット史』

 

 

 

 

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