今日を生きることが昨日までの自分の肯定になる──映画『すずめの戸締まり』を見た

IMAX上映で2回鑑賞。アニメは専用カメラで撮影されているわけではないからIMAXで見ても画角的には意味がないのはわかっているんだがスクリーンの大きさと音響のよさに魅力を感じて。

 

初見時、予備知識ないまっさらな状態で見たかったのでYouTubeにアップされる公式の予告編は公開まで見ないようにしていた。が、上映前にテレビ放映された『天気の子』本編終了後に予告編が流れ、それをつい見てしまった。「人がいっぱい死ぬね」という猫の台詞を聞いてこんな台詞を口にするキャラが新海作品に登場するのか、と意外の感がした。

 

今度の作品はアクションになること、日本全国が舞台になること、停滞期・衰退期に入った現代日本の今後を象徴するような扉をひとつひとつ閉めていく話になること、最初の構想では女性2人の物語にする予定だったがプロデューサーだかが難色を示したので断念したこと、以上は監督のTwitterスペースで聞いていた。それと『天気の子』放映後の予告編で見たくらいがこの映画を見る前の予備知識。

 

劇場入口には実際とは変えてあるが地震警報が作中で流れる旨を伝える看板。てっきりどこかワンシーンで流れるくらいだろうと思ったのだが地震は本作のメインテーマであり作中で警報は幾度も反復される。冒頭、荒廃した草原を少女が彷徨うシーンからタイトルコールにつながる最初の戸締まりまでのテンポがかなり早くて「倍速視聴やファスト映画の今という時代を意識して作ったのかな」と思いつつ見ていた。しょうじき、おっさんの俺にはテンポが早すぎてついていくのがやっとだった。たぶん監督のやりたいことが多すぎたために全編を通じてテンポが早くなったのだろうと見終わった今は思う。2時間の尺じゃ構想を実現するのに足りなかったんじゃないか。

 

 

すずめが「死ぬのは怖くない」とか「生きるのも死ぬのも偶然だ」と言う理由は被災した経験があったから。でも草太と出会って少しずつ考えが変わっていく。「草太さんのいない世界が私は怖いんです」。死ぬこと、失うことは怖いことだとようやく理解できた。だからクライマックスで彼女は「生きたい」と口にしたのだろう。それはまた震災被害に遭った人たちのみならず様々な災厄に遭った人たちへの祈りでもある。すずめの母親が看護師で彼女もその職業を目指すことになるのにコロナ禍でも社会を支え続けた医療従事者への敬意を見る*1。「大事な仕事は見えない方がいい」という草太の台詞。見えないところで頑張ってくれている人たちがいるおかげで社会は今日も成り立っている。人はいつか災厄から立ち直り、適応し、そして生きていく。今日も、明日も、その先も。

 

今の自分は過去の自分の明日なんだとすずめは言う。今日生きていることが、辛くて折れてしまいそうだった過去の自分自身への叱咤になる。慰謝になる。肯定になる。運命愛──「やむを得ざる必然的なものを愛せ*2」。この映画では扉は災いの出口として描かれている。でも扉は希望の隠喩でもある。あるいは可能性の。ドアの向こうはどこへ通じているのか。死者の国か。大切な人のいる場所か。記憶の中か。ドアを開けて、行って、帰ってくる。「おかえり」というラストの言葉が扉をモチーフにしたこの映画の締めくくりにふさわしい。

 

 

 

 

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*1:ブルーインパルスを飛ばすのよりよっぽど素晴らしいリスペクト

*2:ニーチェ

映画になった凶悪事件のルポを3冊読んだ 『凶悪』『消された一家』『愛犬家連続殺人』

先日読んだ『殺人現場を歩く』の影響で凶悪事件のルポを読みたくなったので。三つとも有名な事件で映画にもなっている。これらを読んで思うのはありきたりながら「事実は小説より奇なり」という言葉。

 

『凶悪 ある死刑囚の告発』

上申書殺人事件のルポ。映画『凶悪』の原作…と言っていいのか。獄中の死刑囚が判明していなかった別の殺人事件を告発する。その首謀者は「先生」と呼ばれる不動産ブローカー。「先生」が標的を定め、死刑囚が殺人を実行する。狙われたのは土地を持っているが身寄りのない年寄り、あるいは家族から見放されたリストラ対象者。殺してからなりすまして土地の登記を変更したり、多額の保険金をかけてから殺害する。殺し方がすごい。アルコール度数90度以上のウォッカを一気飲みさせる。これだと殺されたのか飲み過ぎたせいで死んだのか判然としない。小心者の「先生」はさらに死体の口にホースを突っ込み蛇口を全開にして遺体を胃洗浄し、死亡推定時刻を遅らせるために氷の浮いた水風呂に死体を浸ける念の入れよう。狡知に長けるが実行力のない「先生」と、元ヤクザの組長で数々の獰猛な事件を起こしてきた死刑囚。この二人が出会ったことで凶悪な犯罪がなされることになった。「先生」はその後逮捕され裁判の末無期懲役刑の判決が下される。死刑囚が上申書を出すまでは「先生」はのうのうと娑婆で暮らしていたわけで、人の命をなんとも思っていないような人間がそのへんをうろついていると考えるとゾッとする。「人の命を金に換える保険金殺人は罪が重く一件でも死刑か無期懲役」、「今は無期懲役が厳しくなっており当局は簡単に仮出獄をさせないから実質終身刑」とは本書を読んで得られた知識。

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映画を見たのは結構前。もう一度見直す気にはなれず。リリー・フランキーピエール瀧の二人とも怖かった。

 

 

 

『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』

北九州監禁殺人事件のルポ。これはやばい。密室で短期間のうちに7人家族が1人を除いて殺される。しかも身内による殺害。殺したあとは死体を解体。鍋やミキサーを処理に用いた。生き残りの1人は首謀者の内縁の妻で彼に洗脳されて殺人を重ねていた。もう1人、この家族とは無関係な当時17歳の少女も生き残った。この少女も父親を首謀者に殺されたのちその支配下におかれて犯罪に加担していたが逃走に成功、彼女の証言によって密室内の犯罪が暴かれた。しかし事件があまりに猟奇的すぎるのと、家族同士で殺し合った事態から遺族が被害を訴える声を出しづらかったために第一報以降報道は下火になる。自分も当時この事件をニュースで見て驚愕したがその後の顛末をよく知らないままになっていた。本書によって事件の詳細を知り、その異常性、残虐性に言葉を失った。こんなことが本当にあったのか、創作じゃないのか、と何度も思った…がこれは実際に起きた事件で5歳の子供を含めた多くの人命が奪われたのだ。

首謀者は口が巧く容姿もよく初対面の相手に好印象を抱かせるタイプだったらしい。女好き。内縁の妻を暴力で支配し、金を貢がせるために彼女の家族を標的に選ぶ。脅迫して妻の両親、妹夫婦、夫婦の子供2人を監禁、暴力で彼らを言いなりにしてさらに家族同士が疑心暗鬼になるように仕向けて自らの手を汚さず用済みとなった者から消していった。

誰もが思うだろう、「なぜ逃げなかった?」と。あるいは「なぜ言われるがままになった?」と。そう、状況的に何がなんでも逃げようとすれば逃げられなくはなかった(事実、少女は逃走に成功している)。ただ夫婦の場合幼い子供を人質に取られているから彼らを置いて自分だけ、というのは難しかったかもしれない(留まり続けてもいずれ殺されると予想できたと思うが)。または大人4人がかりで首謀者に襲いかかってもよさそうだがそれもなかった。

首謀者は強力なスタンガンのような装置を持っておりそれを拷問に用いていた。顔に電気を流されると気絶するほどの衝撃と痛み。それを体のあちこちに面白半分に当てていた。彼は支配しやすくなるよう家族内に順位付けをして最下位にいる者を拷問した。この順位は気まぐれに変わる。誰もが最下位になりたくないから首謀者に媚びる、従う。我が身を守るためなら身内を犠牲にすることも厭わない。子供が親を、妻が夫を、密告する状況が現出する。何度も己の無力を知らされることで「学習性無力感」に襲われ無抵抗になっていく。彼らが逃げも反抗もしなかったのは拷問の反復によるこの無力感のためだと見られている。

しかし自分が思うに洗脳されやすい、されにくい人間のタイプがあるんじゃないか。本書の被害者たちを見ているとにわかには信じ難いほどお人好しが多い。姪に言われるがまま11件もの携帯電話契約の名義貸しをしたり、不動産屋なのに客の保証人になったり、会ったばかりでプロポーズされたらすぐ本気になって子供たちを放ってついて行ったり…えー、なんで…? 普通そうならねーだろ…もっと疑うだろ…と思うのにそういうところがまったくない。どれほど首謀者が口達者でも、ないだろ…常識的に考えて。「お人好し」、これが危ない第一のタイプ。

危ないもう一つのタイプが「プライドが高い」。実行犯の父親は地元の名士であり農協団体の副理事を務めていた。決して人に弱みを見せたり相談したりしない性格だった。様子がおかしいから周囲が何かあったのかと尋ねても「大丈夫、大丈夫」と答えるだけで話さない。この人は娘が刑務所に入ったら一族の恥だと思いつめて首謀者に言われるがまま金銭を提供し続け最後には家と土地まで奪われるところだった(異常に気づいた親戚が先に手を打って回避した)。この人がまだ世間と接点があるうちに親戚や職場や警察に相談していれば、たしかに娘は刑務所に入ることになったかもしれないがそれで済んだ。しかししなかったばかりに一家ほぼ全員がおぞましい殺され方で殺されてしまった。全員、墓に入れる遺体すらないような殺され方を。

「お人好し」も「プライドが高い人」も詐欺師めいた首謀者のような人物にはつけ入る隙のある格好のカモなのだろう。対して首謀者の脅しに屈しず「来るなら来いや!」と怒鳴り返した人はそれきり標的にされずに済んでいる。この事件から学べる点だと思う。開き直りや明確な意思表示が大事。これは被害者家族に落ち度があったとかいう話じゃない。どう考えたって悪いのは首謀者であるのは間違いない。そうではなく事件に巻き込まれない、巻き込まれてもすぐ抜け出すための知識として。

首謀者は「自分は一切責任を取らない」がポリシーだそうで絶対に自分で決断しない。望みがあればそうなるよう他人を誘導する。言外に匂わせ、それを敏感に感じ取った家族が殺害を実行してきた。彼は公判で「彼らの家族の問題だから巻き込まれたくないと思った」という発言を何度も繰り返している。よくもまあいけしゃあしゃあと…と呆れるが彼の中では彼だけのストーリーがあるのかもしれない。その後の刑務所での様子といい、この人はちょっと普通の人じゃないな、人として大事な何かが欠落しているな、というのが本書を通じて自分が感じた印象。

脅迫目的なのだろうが何かというとすぐ念書を書かせようとするのはこの手合いの常套手段なのだろうか。首謀者は若い頃会社を経営していて、そこの従業員が面白半分で作った通電装置で同僚と悪ふざけしているのを見て拷問器具開発を思いつく。電気と無関係な会社なのにこの従業員も就業時間中に何やってんだか。この会社の従業員たちはやがて首謀者の通電装置によって恐怖支配されるようになる。

それにしても…子供まで殺すかね。中でも俺は最後の犠牲者となった10歳の少女が不憫でたまらない。この子は5歳だった弟の首を絞め、肉親5人の解体をさせられた。10歳の女の子に何やらせてんだ、という怒りが湧いてくる。彼女は弟の次は自分だと覚悟ができていたのだろう、自分が殺されるときは風呂場に横たわり、殺害者が絞殺のためのコードを首に回そうとしたら自ら首を少し持ち上げて回しやすくしたのだという。この子にせよ、この子の弟にせよ、こんなむごい殺され方をしなくてはいけないような何をしたというのか。どうしてこんなふうに殺され、そのあとおぞましいことをその身にされねばならなかったのか。首謀者は理由を語っていない。

これほどの事件がごくありふれたマンションの一室で起きていた。人々が日常生活を送っている隣室で、共用通路から扉一枚隔てた室内で、このような地獄絵図が繰り広げられていたのだ。少女が逃走に成功しなかったら(いずれ彼女も殺されていただろう)一切が明るみに出なかったかもしれないと思うと本当に恐ろしい。

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北九州の事件がモデルと謳っているわけではないが多分そうだと思う。どんな映画だったか…もう忘れてしまった。その程度の映画。つっこみどころが多数あったのは覚えている。

 

 

 

『愛犬家連続殺人』

埼玉愛犬家連続殺人事件の共犯者によるノンフィクション・ノベル…を謳っているが文章が上手すぎてのっけから違和感を覚える。展開も台詞も小説的、ユーモアもふんだん。犯人の地元への取材や、終盤が度を越して娯楽小説めくのでさすがに妙に思い検索したらある作家がゴーストライターを務めた作品であるとのこと。なあんだ、という気持ちとやっぱり、という気持ちが半々に。映画『冷たい熱帯魚』は実際の事件からインスパイアされたとのことだがその事件の知識は本書から得たものだろう。でんでん演じる殺人犯のキャラクターは本書の記述まんま。事件については、熊谷のドッグブリーダーが商売のトラブルになった相手に硝酸ストリキニーネを飲ませて殺害、牛刀で解体して遺体は痕跡が残らないよう肉は川に捨て骨は燃やして灰にしたあと山中に撒いていた。わかっているだけで4人、だが30人もの人が犯人の周囲で行方不明になっているという。犯人の人物像は病的なまでの虚言癖があり、寝る時は枕元に木刀を置くほどの小心者でもあった。一方でやると決めたら相手がヤクザでも殺す。売った犬をわざわざ殺しに行って次のを買わせるとか、売った犬を盗んで別の客に売るとか、そんな滅茶苦茶をやるか? と思うのだが本当にしていた。シベリアン・ハスキーだかアラスカン・マラミュートだかの優れたブリーダーとして業界では有名人だったらしい。ドッグショーでは審査員に金を渡して賞を取っていたようだが。犯行に使われた硝酸ストリキニーネは「大型犬の安楽死」名目で熊谷の獣医から融通してもらっておりこの獣医の倫理観にも疑問を覚える。

犯罪実録としては頭から信じるには胡散臭さがあるので実際の事件を元にした小説、くらいの気持ちで読んだ。埼玉県在住の身としては、熊谷、秩父東松山、児玉町などの土地の名が出てくるのが楽しかった。「殺しのオリンピックがあれば俺は金メダルだ」とか、殺人を楽しんでいる点でわかりやすい人物。自分がしたことの理由を語らない北九州の事件の首謀者に比べると人間味があるとすら思ってしまう。シリアルキラーなのに。凶悪な殺人事件でありながら報道が少なかったのは同年に阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があったためだといわれている。

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監督名で見たくないという人もいるだろう。俺もそっち寄り。でもパワーはある映画だからグロ耐性があるなら一度は見てもいいかもしれない。ないなら薦めない。パワーがあるといっても同じく実際の事件を映画化した『殺人の追憶』や『チェンジリング』のような名作と比較したら数段劣る。

 

 

 

 

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蜂巣敦『殺人現場を歩く』を読んだ

 

主に1990年代に起きた18件の殺人事件現場を訪れる。写真多数掲載。有名な事件としては「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」「連続幼女誘拐殺人事件」「埼玉愛犬家連続殺人事件」「世田谷一家四人殺人事件」「東電OL殺人事件」「八王子スーパー強盗殺人事件」「井の頭公園バラバラ殺人事件」など。最初の2件に限り1980年代終わりに起きた事件。訪問時期の日付記載がないので詳細は不明だがどれも事件が起きてから10年以上を経ての訪問となるのですでに現場が更地になっているケースもある。一方で当時のまま残っているケースも少なくなく、意外の感に打たれる。愛犬家殺人事件の犬舎、東電OLが殺害されたアパート、世田谷一家4人が殺された一軒家、どれも本書刊行時点で当時のまま残っており、Twitterで検索したところ現在でもまだ取り壊されていない模様。東電OLのアパートに関しては「現役」で、現在は民泊になっている。神泉駅を出てすぐだから立地的に便利なのだろうが、画像を見るとだいぶ老朽化してるから快適とはいえなさそうで、どういう人が泊まるのだろう。外国人観光客? 本書には登場しないが座間事件の部屋も入居者がいるというし、自分には理解できない感覚だが*1心理的瑕疵を気にしない人も世の中には多数いるのだろう。都心部にいたっては戦時中の空襲と関東大震災で大勢が犠牲になっており、人が死んでいない土地の方が少ないくらいのものだろうから、事故物件を気にしすぎるのも妙といえば妙なのかもしれないが。

 

 事件発生からしばらく経った殺人現場のほとんどは、すでに日常へと回帰していた。ただ、どうしようもない傷が、痕跡として残っているケースもある。そうした傷痕を見るたびに、被害者やその家族の心象風景と同化しているようで、いたたまれない気分になった。風景の痕跡は、かつて、たしかに、そこで、殺人が行われたという証拠なのである。

ここで人が殺された。そういう目で見るからか、写真を通じて見る事件現場には不穏な空気が10年以上を経ても残っている…ように思えなくもない。いや、これは先入観か。事件のことなど知らなければこれといった特徴のない風景に見えるのか。「事件を知らない自分」にはなれないから比較のしようがない。それでも世田谷一家4人が殺害された家の写真からは気味悪さを感じずにはいられない。袋小路にぽつんと建つ一戸建て、周辺の住宅の大半が公園拡張計画に伴い転居してしまったために周囲は殺風景。被害者一家はバブル期の1990年に1億5000万円でこの家を買ったという。公開された動画を見るかぎりでは決して広くは見えない3階建て、その後土地価格の下落と公園拡張計画により一家は事件が起きなければ2001年の4月にはこの住宅を売却して転居する予定になっていた。現場は世田谷区上祖師谷3丁目、自分はこの事件の少し前まで祖師ヶ谷大蔵のアパートに住んでいたのでニュースを知ったときは驚いた。無縁ではない土地で起きた事件として連続幼女誘拐殺人事件と並んでとくに印象に残っている*2


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部外者がすでに風化しつつある事件現場を今更訪れたところで何が得られるか。悪趣味な好奇心を満たすのがせいぜい──と言っては言い過ぎか。柳下毅一郎『殺人マニア宣言』でエド・ゲインの墓やリジー・ボーデンの邸宅を訪れるのがエンタメ的な巡礼と受け取れるのに対して、十数年前に国内で起きた殺人事件現場を訪れることには不謹慎さを覚えるのはそれが自分の暮らす国で起きた同時代の事件であるからか。ゲインやボーデンの事件のように当時の関係者がすでに存命でなければ「過去」として捉えることもできるが、本書で紹介される事件においてはまだ関係者の多くが存命であり未解決のものも多い。これらの事件はまだ「現在」であり続けているのだろう。

 

各章の文章が多くないのでどんどん読み進められたが、読み進むうちに紹介される各事件の凶悪さと悲惨さに気が滅入ってきて、夜だったせいか怖くなって寝つけなくなってしまった。掲載されている写真がとてもいい。表紙は世田谷一家事件の現場の写真。パッと見ると青空の下の住宅の写真は穏やかな日和の午後に撮影されたようなのどかさを感じさせるが、よく見ると家の前には一台のパトカーが停まっており通じる道はカラーコーンで封鎖されている。

 

 

 

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*1:自分は事故物件には住みたくないし人を轢いた中古車が安く売っていたとしても絶対に買わない

*2:当時あった宮崎勤の家の近くに親戚の家があった。また被害者の1人が住んでいた市には別の親戚の家があって子供の頃から馴染みある土地だった

アーサー・マッケン『怪奇クラブ』を読んだ

 

 

復刊。「怪奇クラブ」と「大いなる来復」を収録。今年マッケンを2冊読んだのでその流れで本書も購入、読んだ。

 

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「怪奇クラブ」(原題「三人の詐欺師」)は枠物語で秘密結社みたいなグループの話の中に彼らがする奇天烈な話が挿入される。聞き手となるのは『恐怖』中の何篇かにも登場した文士ダイスンとその相棒フィリップス。「黒い石印」と「白い粉薬のはなし」が世評高いようだが(平井呈一曰く「汚穢文学の最高峰」)自分としては別に…。前者は肝心の種明かしの部分がカタカナ(一部候文)で述べられるので読みづらい。『夢の丘』もそうだが復刊したマッケンは文字が小さく印刷が薄く、ところによってはかすれ気味で老眼が始まった自分には読むのがしんどい。話の内容にのめり込めるか否かにフォントやレイアウトも多少なり影響しているように思う。

 

マッケン作品の特徴って平井呈一が『恐怖』の解説で述べていたように、

この現実世界のヴェールのかなたの超自然的世界に、善悪を超えた神や、天使のなれの果の悪魔や、それと交わる獣に近い前史人のあぶれ者どもの住む世界がある。そこはあらゆる欲望と黒い法悦の乱舞する世界であって、ここが罪と悪の根源である。現実世界の割れ目から、ときにはそれを見る人間もあるし、ときには人智をもって、かかげてはならないヴェールをかかげて、見てはならないものを見、黒い法悦に参ずるものもある。そのときは人間は地上の形骸を失って、原質に回帰する。これが「罪」といい「悪」というエクスタシーの実相であり帰結だ。──これがマッケンの思想の核であり、つねにかれの作品のモチーフになっているものであり、この戦慄こそはスティヴンソンにはないもので、マッケン文学にある独自の生理であります。

であり、「パンの大神」「内奥の光」「輝く金字塔」「白魔」がそうだったように、「黒い石印」も「白い粉薬のはなし」も、人間が、今も森や山奥に実在する古代の神々や精霊などの仕業にちょっかいを出したり、そのわざに溺れたりして破滅するという筋の反復であり読んでいると次第に飽きてくる。『恐怖』が「傑作選」の名にふさわしいいい作品を収録してくれているのでこれだけ読んでおけばとりあえずマッケンは十分で、そこから『夢の丘』や『怪奇クラブ』へと進むのはその人の好みの問題と思う。自分は「パンの大神」「白魔」「恐怖」が好き。

 

「大いなる来復」は「恐怖」と同じく後期の作品に属している。後期のマッケンはルポルタージュ風というのか、ドキュメンタリー的な作風に変化していて自分なんかはこっちの方が読みやすい。ある村で起きた聖杯をめぐる逸話。平井呈一によると「戦時下の強い圧迫という設定のもとに、マッケンのなかにある、かれを培んだ民間伝承に対する郷愁をうたいあげた、滅びゆく民間信仰への挽歌」であるとのこと。自分としてはとくに感銘受けることなく読み終えた。聖杯の出現により体の痛みが消えるっていうのは羨ましかったが。

 

超絶エンタメ映画『RRR』を見た


初めて見たインド映画かもしれない。『バーフバリ』は30分くらい見たが濃すぎて途中で見るのをよした記憶がある。ここぞという場面でわざとらしいスローモーション演出されると笑ってしまう。このシーン注目、みたいな鬱陶しさも少し感じる。『T34』にもスロー演出あったっけ。『バーフバリ』がそうだったようにこの映画も俺向きじゃないだろうとスルーするつもりだったんだが…なぜ見ることにしたんだろう? Twitterではかなり好評のようでその影響を受けたのかな*1? 3時間オーバーの上映時間で途中インターミッションが入るのに日本ではそのまま上映が続くのはなぜか、みたいな配給会社へのインタビュー記事を読んで興味をもったのか? 町山さんが「たまむすび」で「『トップガン マーヴェリック』以上に面白い」と紹介したからか*2? 忘れた。

 

金曜午後の回で20人くらい。3時間の上映なので事前にカフェインを控えた。とくに膀胱に無理はなかった。何人かは上映中に立って行った。

 

最初に感想を書くなら、見てよかった。これに尽きる。途轍もないエンタメ映画。ストーリーは単純、少女を攫った悪いやつらに殴り込みをかける。以上、おわり。アクションがとにかく凄い。序盤の、橋の上から川に落ちた少年を助けるシーンの派手さにマスクの下でニヤニヤが止まらなかった。猛獣を引き連れての殴り込み、肩車してのバトルも見応えあり。ここぞという場面ではスローモーションになってノリノリな音楽がガンガンかかる。ド派手なアクションシーンとそれを盛り上げる音楽、『RRR』を見ていて感じる高揚感、陶酔感ってMV的な作法で作られているのかなあと思った。感情をめちゃくちゃ揺さぶられる。もちろんダンスシーンもあり。ナトゥを踊るシーンは踊りも音楽もカッコいい。あのシーンはまさしくMVだったな。ストーリーは単純な勧善懲悪、インド人を差別するイギリス人を迷いなくブッ殺すという、これも逆転した差別では? というような話でそこに深みはまったくない。小難しいことは抜きにして現実を忘れ、スクリーンに映し出される夢に没頭することを第一義に作られたような映画。いや、一応史実を元にしているらしいから見る人が見れば深読みもできるのかもしれない。歌にヒンドゥーの神の名が出てきたり、エンドロールでもなんか歴史上の人物みたいなのがいっぱい出てきて、エンタメとはいえ信仰や歴史を蔑ろにしないというか、その地続きと見るのがインドの文化なのかなと思ったりもした。

 

すげえ面白い映画なのは間違いない。近くの映画館で見られるなら見ておいた方がいいと思う。あの迫力は映画館のスクリーンと音響設備があってこそ味わえる。俺ももう一度見られるなら見たい。見ている最中の満足度で言えば今年見た映画で一番かもしれない。ただ、あまりにも親切に綺麗に作られているので見終わってしまうとあまり印象に残らないんだよな。引きずるものがないというか。

 

*1:ツイッターは基本声の大きい人が目立つので全然あてにならないが影響は受ける

*2:見終わって再度町山さんの紹介を聞いたら結構話を盛っていた

笠井恵里子『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』を読んだ

 

物が散乱しているとか床が見えないとかいうレベルじゃない。ゴミが堆積して層をなしエアコンの高さまで埋まってしまう、玄関までみっしりとゴミが詰まり掻き出さないと部屋にすら入れない、それくらいのレベルのゴミ屋敷のルポ。部屋や家をゴミで埋め尽くすには無論その広さにもよるが、20年30年の年月がかかる。ゴミで埋もれてトイレや風呂は使えなくなるからペットボトルやビニール袋に排泄するし、ゴキブリやコバエやダニがゴミ山から発生する。不衛生極まりない居住環境。夏場でもエアコンが使えない(そもそもリモコンがゴミの中に埋もれてしまって見つからない)。特殊マスク越しでも嗅覚を刺激するほどの悪臭。本書で紹介されるゴミ屋敷の様子には凄絶という言葉しか出てこない。そういう環境の家で孤独死する人たちも多々いる。

 

本書の著者は清掃業者として働いて本書を書いた。すごい根性。現場レポートを読んでいるとかなり過酷な仕事なのが伝わってくる。肉体的なしんどさだけでなくメンタル的な負荷、そして不衛生な環境ゆえのリスクがある。著者の同僚は作業中に釘を踏んでしまい、おそらく破傷風だろう、足を切断せねばならなくなった。ゴミ屋敷とはそんな危険な場所であるのだ。

 

ゴミ屋敷の住人の大半は「ためこみ症」という精神疾患であるか、または強迫症の一症状として「ためこみ行動」をしている。そのほか、うつ病になり物を片付ける気力を出せないまま長い自宅療養のうちにゴミ屋敷化する、というケースもある。それにしても、カビの生えた服だとかボロボロになった何年も前の雑誌や新聞とか、どう見てもゴミとしか思えないものにも執着して捨てられないというのはちょっと自分の理解を超える部分で、これが病いなのか、としか感想が出ない。本書に登場する精神科医によれば人口の2〜6%、20人に1人は「ためこみ傾向」があるという。ためこみ症が病いとして注目されるようになってきたのはここ10年ほど。ゴミ屋敷の増加は単身世帯の増加とも相関があると見られている。そして日本だけでなく海外でも同様の問題は起きている。現代日本だけの現象ではない。

 

意外なのが、こういうゴミ屋敷に暮らすのは「ホームレス一歩手前の社会から取り残された人」が多いのかと思いきや、大企業勤務者、医療従事者、教師など社会的地位の高い職種に就いている人たちもいることだ。本書に登場する、ゴミ屋敷で死体が発見された男性は年収1000万円のサラリーマンだったという。一つの部屋が埋まるほどプラモデルの箱を積み重ねていた。リモートワークをしている彼の家がゴミに埋もれているとは、同僚たちは気づいていなかったのではないか。そういう意味ではゴミ屋敷は孤立の問題でもある。伴侶がいたり誰かが定期的に家に来る環境なら荒廃しづらいだろう。…と思いきや、たしかにゴミ屋敷の住人には単身者が多いが、中には(義理の)母と子それぞれが一軒家をゴミ屋敷にしてしまったケースも登場する。母は年老いて施設に、子は行方知れずだという。

 

先頃読んだ『屋根裏に誰かいるんですよ。』という本は、患者の妄想を濃縮させる装置としての家に注目していた。また、外見からは中を窺い知れない不気味さは人も家も同じだとも。本書にも通じる部分で、ゴミ屋敷は外からはそうとわからない場合が多々ある。異臭がなく、カーテンが閉め切ってあれば外から中の様子はわからない。玄関のドアを開けて初めてその凄まじい荒廃ぶりが露見する。近所のごく平凡な家と見えたあの家その家が、実は中はゴミで埋もれているのかもしれないと想像すると、得体の知れなさというか、物を見る確固たる足場が崩れるような心許なさと慄きを覚える。人間の底知れなさを改めて思う。

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本書を読んで、実際のゴミ屋敷現場はどんなビジュアルなのか、清掃はどのように行われるのか、興味を持ち、YouTubeでゴミ屋敷清掃動画をいくつか見たが、物凄い量のゴミを見ていたら気が滅入ってきた。というか通して最後まで見られず途中スクロールした。膨大な量のゴミは人間の生きる気力を奪うところがある。どこから手をつけたらいいのかわからなくなって、もうどうでもいい、という気持ちになる人の気持ちもわかる気がする。

ためこみ症の人の物のためこみ方は、発達障害強迫症PTSDの人と違って、自分の心の中の穴を埋めるのに必死な部分があるという。しかし〝ためこみ〟では決して満たされない。だから底なし沼のように物をため続けてしまう──。

 

俺自身はあまり所持品が多くない。物への執着も弱いたちだと思う。震災の年だからもう10年以上前だが、無職になって一人暮らししていたアパートから実家に戻ってきたときに、元からあった荷物とアパートにあった荷物が合わさってかなり物が増えたため(無職で時間が有り余っていたのもあり)かなりの量を処分した。その頃、世間は不況で就活が全然うまくいかず、よく2ちゃんねるの掃除板を見ていた。掃除をすると運気が上昇する、みたいな、スピめいたレスに影響されて熱心に断捨離した。そのおかげとは思わないが無職になって1年後、今の会社に契約社員として入社でき、翌年正社員登用された。前職と比較して年収が大幅に上がり休日も増えたので幸運な巡り合わせだった。それから10年近く、掃除の習慣は今も続いている。着なくなった服やいらなくなった本はどんどん捨てるなり売るなりして物を増やし過ぎないように心がけている。休日には必ず掃除機をかけ、寝具を洗濯し、気が向けば床の雑巾がけもする。本だけが荷物で、といっても俺の蔵書はせいぜい400冊そこら*1なのでげんなりするほどの量ではないが、それでも10畳の部屋では本棚の存在感はある。若い頃から読書が趣味だからあるのはいいんだが、最近は数を増やしたくない気持ちが強く、紙より電子を選択することが増えた*2。50歳になったらある程度所持品の整理を始めるべきと本書では薦めており、自分もそう思う。高齢者になる前に、まだ体力も気力もあるうちに所持品の整理は少しずつはじめておいた方がいい。好みの問題だろうが、俺は物の多い部屋より、ミニマリスト的な、物の少ない部屋が好きだ。物が少なくて、清潔で、明るい部屋。そういう部屋で暮らしたい。死にたい。

 

*1:30年以上本や漫画を読んできて紙の本がその程度の量で済んでいるのはわれながらよくやっていると思う。漫画をほぼ全部電子に移行できたのが大きい

*2:電子書籍を含めると蔵書の数は1.5倍くらいになりそう

柳下毅一郎『殺人マニア宣言』を読んだ

 

殺人現場、犯罪博物館、蝋人形館を訪問しレポートする第1章「巡礼の旅」、猟奇事件の文献を渉猟してシリアルキラーとその事件を紹介する第2章「殺人を読む」、アメリカ社会の異常性を笑う第3章「おかしな世界」から成る。進むにつれ面白さが減っていった印象。というか第1章がよすぎた。とくに最初の2篇、エド・ゲインの墓とリジー・ボーデンの邸宅を訪問したレポートは写真も用いて伝えられる現地の情報も貴重ながら文章も素晴らしくて感嘆した。

 

ウィスコンシン州プレインフィールド。どこまでもトウモロコシ畑が広がるようなのどかで寂しい風景。村外れの墓地にあるエド・ゲインの墓。「エドは墓標もないまま埋葬された」と彼についてのどの本にも書いてあるのに実際は墓標はあった。ただし四角い墓標は角が削られて丸くなっている。物好きか、それともファンが「記念に」と削って欠片を持ち帰っているのだ。バチ当たり? しかし夜な夜な墓を暴いては死骸で工作していた人間の墓を荒らしたところで何のバチがあたるのだろう。

 墓の前に膝をつく。明るい昼下がり。エドが残した傷跡はどこにも見えない。もちろん見えなくて当然だ。そんなものは実際にはありはしない。傷があるのは心の中である。プレインフィールドの住人たちの中の。こんなところまで来てしまう人間の。

 エドは『サイコ』、『悪魔のいけにえ』、『羊たちの沈黙』のモデルになった人間である。過去四十年間のサイコ・ホラーとスプラッタすべてのルーツだ。すべての根源である恐怖は、やはり、このどこまでもアメリカ的な風景から生まれなければならなかった。そんな気がする。どこまでいっても続く、のどかなトウモロコシ畑と遊牧地の中から生まれなければならなかったのだ。

 

マサチューセッツ州フォール・リヴァーはリジー・ボーデンの事件が起きた町。ボーデン家の当主アンドリューは富裕な銀行家でありこの町の名士だった。その彼と後妻が血みどろの死体となって発見される事件が起きたのは1892年9月のこと。事件現場となった邸宅は現在では宿泊できる博物館になっている。中ではボーデン家のインテリアが再現され、アンドリューの死体が転がっていたソファのそばにはご丁寧に死体発見時の現場写真が飾ってある。マニアはこの写真と同じポーズをソファでとって記念撮影するのだという。凶器とされる斧や、血のついたベッドカバーも展示されている(後者は現在では褪色を防ぐため展示されていないそう)。妻アビーの死体が発見された2階の部屋に宿泊して、死体と同じように床に寝て一夜を過ごす酔狂な客もいるらしい。彼女の幽霊に遭えるかも、との淡い期待を抱いて。

この事件に関してはリジーの無罪が確定し、釈放された彼女はその後もこの町に住み続けた。彼女と事件については本書とwikipediaで読んだ知識しかないけれども、まあクロだろう、と思える。真実はリジーと殺された二人だけが(もしかしたら事件当日家にいたメイドも)知っている。この事件を描いた映画(ひでえ邦題をつけられている)がアマプラの見放題で見られるので見てみた。ビジュアルがスプラッタのようだが実際は文芸映画に近い。事実に即して当日を再現しながら(メイドの窓拭きや、リジーが梨? 桃?を食べていたとか)同性愛を絡めて事件を描いている。主演二人は魅力的だが映画としてはたいしたもんじゃなかった。

 

あと第1章で面白かったのはベルリンの犯罪博物館や蝋人形館のレポート。「ドイツ的徹底」という語が連想される。以前東京タワー内にもあったが蝋人形の不気味なキッチュさってちょっと胃にもたれるものがある。

 

第2章で言及されるシリアルキラーはピーター・キュルテン、ヘンリー・ルーカス、テッド・バンディ、チャールズ・マンソンアンドレイ・チカチーロなど錚々たるメンツ。ニュージーランドの少女2人の殺人者(ピーター・ジャクソンが映画化した)や11歳で殺人を覚えたメアリー・ベル(『マリー・ベル事件』という本が邦訳されている)の話は本書で初めて知り興味を覚えた。前者は少女2人が空想世界に遊ぶ挿話にブロンテ姉妹っぽさを感じ(実際1人はイギリスに渡ってミステリ作家になりベストセラーを著したという)、後者の、自分が毒殺した子の葬式に出向いた挿話に慄然とした。母親からあの子は死んだと告げられると、幼い殺人者はこう答えた。「知ってるわ。お棺に入ってるとこを見たかったの」。現在は結婚して子供もいるというが。

 

第3章はO・J・シンプソン裁判やアメリカのトークショーがどうしたとかで時事性が強く、つまらなくはないけれど本書の趣旨から外れている気が。しかし最後に収録された「スナッフ・フィルムはどこへ行った」は読み応えあり。自分はスナッフの存在を、映画『8mm』を見て初めて知ったクチ。『セルビアンフィルム』ではもっとひでえビデオが流れたが。で、スナッフ・フィルムは実在するのか? を著者が考察する。命の値段が安いところ(南米とか)で人を誘拐して殺し、その様子を撮影すると仮定する。この時点で複数の人間が関わっている。さらにフィルムを密輸し、変態の金持ちを集めて秘密の上映会を開くとして、一体いくら儲かるだろうか? 手間とリスクを考えると麻薬の密輸の方がよっぽど商売として確実だ、というのが著者の結論。

 スナッフ・フィルムは都市伝説である。ここでそう言いきってしまいたい誘惑にかられる。実際のところ、スナッフ・フィルムには都市伝説の特徴がすべて揃っている。いかにもできすぎた話であること。しかし論理的にはありそうもないこと。そして、実物を見た人が誰もいないこと。スナッフ・フィルムを見ているのはつねに「友達の友達」なのだ。

 フィルムを流通させている組織が時代によって移り変わって行くというのも、都市伝説の証拠に思える。七〇年代はマフィア、八〇年代は幼児虐待の悪魔主義者、そして九〇年代には電子ネットワーク。その時々にもっとも話題になっている存在が、必ずスナッフ・ビデオを扱っているのは果たして偶然だろうか?

本書が書かれたのが1998年。現在はスマホで簡単に動画が撮影できる時代。自分はスナッフ・フィルムはあってもおかしくないと思う。秘密の上映会が開催されているかはともかく、変態が個人で楽しむ目的で撮り溜めているとか、今の時代、世界に最低でも一人はそんなクズがいるのではないだろうか。で、承認欲求を満たすためにダークウェブだっけ? に流している、なんて全然ありえると思うが、どうだろう。

 

 

 

エド・ゲインについて。切り裂きジャックやゾディアックやテッド・バンディよりこの人にすごい興味がある。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

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