柳下毅一郎『殺人マニア宣言』を読んだ

 

殺人現場、犯罪博物館、蝋人形館を訪問しレポートする第1章「巡礼の旅」、猟奇事件の文献を渉猟してシリアルキラーとその事件を紹介する第2章「殺人を読む」、アメリカ社会の異常性を笑う第3章「おかしな世界」から成る。進むにつれ面白さが減っていった印象。というか第1章がよすぎた。とくに最初の2篇、エド・ゲインの墓とリジー・ボーデンの邸宅を訪問したレポートは写真も用いて伝えられる現地の情報も貴重ながら文章も素晴らしくて感嘆した。

 

ウィスコンシン州プレインフィールド。どこまでもトウモロコシ畑が広がるようなのどかで寂しい風景。村外れの墓地にあるエド・ゲインの墓。「エドは墓標もないまま埋葬された」と彼についてのどの本にも書いてあるのに実際は墓標はあった。ただし四角い墓標は角が削られて丸くなっている。物好きか、それともファンが「記念に」と削って欠片を持ち帰っているのだ。バチ当たり? しかし夜な夜な墓を暴いては死骸で工作していた人間の墓を荒らしたところで何のバチがあたるのだろう。

 墓の前に膝をつく。明るい昼下がり。エドが残した傷跡はどこにも見えない。もちろん見えなくて当然だ。そんなものは実際にはありはしない。傷があるのは心の中である。プレインフィールドの住人たちの中の。こんなところまで来てしまう人間の。

 エドは『サイコ』、『悪魔のいけにえ』、『羊たちの沈黙』のモデルになった人間である。過去四十年間のサイコ・ホラーとスプラッタすべてのルーツだ。すべての根源である恐怖は、やはり、このどこまでもアメリカ的な風景から生まれなければならなかった。そんな気がする。どこまでいっても続く、のどかなトウモロコシ畑と遊牧地の中から生まれなければならなかったのだ。

 

マサチューセッツ州フォール・リヴァーはリジー・ボーデンの事件が起きた町。ボーデン家の当主アンドリューは富裕な銀行家でありこの町の名士だった。その彼と後妻が血みどろの死体となって発見される事件が起きたのは1892年9月のこと。事件現場となった邸宅は現在では宿泊できる博物館になっている。中ではボーデン家のインテリアが再現され、アンドリューの死体が転がっていたソファのそばにはご丁寧に死体発見時の現場写真が飾ってある。マニアはこの写真と同じポーズをソファでとって記念撮影するのだという。凶器とされる斧や、血のついたベッドカバーも展示されている(後者は現在では褪色を防ぐため展示されていないそう)。妻アビーの死体が発見された2階の部屋に宿泊して、死体と同じように床に寝て一夜を過ごす酔狂な客もいるらしい。彼女の幽霊に遭えるかも、との淡い期待を抱いて。

この事件に関してはリジーの無罪が確定し、釈放された彼女はその後もこの町に住み続けた。彼女と事件については本書とwikipediaで読んだ知識しかないけれども、まあクロだろう、と思える。真実はリジーと殺された二人だけが(もしかしたら事件当日家にいたメイドも)知っている。この事件を描いた映画(ひでえ邦題をつけられている)がアマプラの見放題で見られるので見てみた。ビジュアルがスプラッタのようだが実際は文芸映画に近い。事実に即して当日を再現しながら(メイドの窓拭きや、リジーが梨? 桃?を食べていたとか)同性愛を絡めて事件を描いている。主演二人は魅力的だが映画としてはたいしたもんじゃなかった。

 

あと第1章で面白かったのはベルリンの犯罪博物館や蝋人形館のレポート。「ドイツ的徹底」という語が連想される。以前東京タワー内にもあったが蝋人形の不気味なキッチュさってちょっと胃にもたれるものがある。

 

第2章で言及されるシリアルキラーはピーター・キュルテン、ヘンリー・ルーカス、テッド・バンディ、チャールズ・マンソンアンドレイ・チカチーロなど錚々たるメンツ。ニュージーランドの少女2人の殺人者(ピーター・ジャクソンが映画化した)や11歳で殺人を覚えたメアリー・ベル(『マリー・ベル事件』という本が邦訳されている)の話は本書で初めて知り興味を覚えた。前者は少女2人が空想世界に遊ぶ挿話にブロンテ姉妹っぽさを感じ(実際1人はイギリスに渡ってミステリ作家になりベストセラーを著したという)、後者の、自分が毒殺した子の葬式に出向いた挿話に慄然とした。母親からあの子は死んだと告げられると、幼い殺人者はこう答えた。「知ってるわ。お棺に入ってるとこを見たかったの」。現在は結婚して子供もいるというが。

 

第3章はO・J・シンプソン裁判やアメリカのトークショーがどうしたとかで時事性が強く、つまらなくはないけれど本書の趣旨から外れている気が。しかし最後に収録された「スナッフ・フィルムはどこへ行った」は読み応えあり。自分はスナッフの存在を、映画『8mm』を見て初めて知ったクチ。『セルビアンフィルム』ではもっとひでえビデオが流れたが。で、スナッフ・フィルムは実在するのか? を著者が考察する。命の値段が安いところ(南米とか)で人を誘拐して殺し、その様子を撮影すると仮定する。この時点で複数の人間が関わっている。さらにフィルムを密輸し、変態の金持ちを集めて秘密の上映会を開くとして、一体いくら儲かるだろうか? 手間とリスクを考えると麻薬の密輸の方がよっぽど商売として確実だ、というのが著者の結論。

 スナッフ・フィルムは都市伝説である。ここでそう言いきってしまいたい誘惑にかられる。実際のところ、スナッフ・フィルムには都市伝説の特徴がすべて揃っている。いかにもできすぎた話であること。しかし論理的にはありそうもないこと。そして、実物を見た人が誰もいないこと。スナッフ・フィルムを見ているのはつねに「友達の友達」なのだ。

 フィルムを流通させている組織が時代によって移り変わって行くというのも、都市伝説の証拠に思える。七〇年代はマフィア、八〇年代は幼児虐待の悪魔主義者、そして九〇年代には電子ネットワーク。その時々にもっとも話題になっている存在が、必ずスナッフ・ビデオを扱っているのは果たして偶然だろうか?

本書が書かれたのが1998年。現在はスマホで簡単に動画が撮影できる時代。自分はスナッフ・フィルムはあってもおかしくないと思う。秘密の上映会が開催されているかはともかく、変態が個人で楽しむ目的で撮り溜めているとか、今の時代、世界に最低でも一人はそんなクズがいるのではないだろうか。で、承認欲求を満たすためにダークウェブだっけ? に流している、なんて全然ありえると思うが、どうだろう。

 

 

 

エド・ゲインについて。切り裂きジャックやゾディアックやテッド・バンディよりこの人にすごい興味がある。

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