1月、やる気が出なかった

冬季うつってよく聞くけどその傾向あるかも。

12月はそうでもなかったんだけどなあ。比較的暖かかったからマシだったのか。

これ書いてる今、日付変わって2/1だが、年明けからこっちどんどん気分が下降線をたどっていて何をするにしてもえらく億劫になっている。

 

部屋散らかりすぎ。何冊もの本が床に積まれてるし、繊維の埃や、床の色が濃いから見えないけど毛屑も凄そう。見たくないので見ないようにしているから見えないけど。エントロピーの増大。わりと綺麗好き、掃除好き、整理好きなたちなのでまめに清掃整頓していたんだが、今はだめ。どうにもやる気が起きない。ガジュマルの水やりもしなくちゃと思いつつやらずにだらだら延ばしていたのをようやく今日やれた。やってしまえばたいして手間も時間もとらないのに行動を起こすエンジンがかからない。

部屋の掃除したい。

車も年明けてから洗ってないから洗いたい。

綺麗で清潔な環境を整えたい。

気持ちだけ。行動が伴わない。

 

新年から寒さが増して冬本番になった感あり。

寒いと体力を消耗する。疲れやすくなる。

 

今年は元日から今日までに災害、事故、悲しいニュースが多すぎる。まだ1ヶ月しか経っていないのに。知れば知るほどつらくなって消耗するのでなるべくテレビやネットから離れて情報を入れないようにして、寝るか本読むかして過ごすことが多かった。最近よく寝るようになった…というかベッドで横になっている時間が増えた。横になってうたた寝して夢を見て目が覚める。起きたときには見た夢を忘れている。

 

先週土曜、川越へ出かけた。蔵造りの街並みをこないだ買った単焦点で試し撮りして、寺社巡りして、ついでにぽんぽこ亭かどっかでうなぎでも食べようと思って。日中はそこまで寒くなかったのに日が暮れかける頃から一気に寒くなって、人は多いし(人混み大嫌い)、歩いていてだんだん具合が悪くなってきた。気分がいまいち乗らず、写真撮ってても楽しくならず、うなぎ食べたいって気分でもなく、徒労感いっぱいで帰宅したらひどい頭痛に襲われて寝込み、日曜の朝になっても痛みがひかなかった。日曜は散髪と歯科の定期検診を予約していたが体調不良のためどちらもキャンセルせざるを得ず、眠くてしょうがなかったのでひたすら寝て体力回復に努めた。

幸いにも日曜の夜には治まった。

川越 熊野神社

 

どうも冬はだめだ。日照時間が短く気温も低く体調を崩しやすい。体力自体も下がっている気がする。何をしてもすぐ疲れる。いや、そもそも何かをする気が起きない。尾崎一雄は冬は冬眠と称して家に引きこもったというが、可能なら俺もそうしたい。それか沖縄で過ごしたい。

 

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月曜日、頭痛はすでに治ったのに会社行きたくねえ気持ちが強く起きて自分でも困惑した。行くのだりいな、行きたくねえな、くらいならしょっちゅう、というか毎日そんなもんだが、このときは出勤時間ギリギリまで行くか休むかのあいだで気持ちが揺れて、体調悪いから休みますと会社に電話すればもちろん休めるは休めるだろうが職場に迷惑をかけるし、明日の出勤時は勇気が必要になるし、やっぱ休めねえよなあ…とかぐだぐだ考えるほどには休みたい、行きたくないという気持ちが強かった。なんとか自分を奮い立たせて(大仰だが)出勤、職場で作業着に着替えて仕事を始めさえすれば、そんな気持ちはすぐに消えて目の前の業務に没頭できたが、そこに至るまでがしんどかった。

 

もう46歳。今年で47歳になる。

寒さの影響に加え、いわゆる中年の危機的な心身の不調があったとしてもおかしくない。実際そうなのかもしれない。最近目がしょぼしょぼする。ちょっと離れた文字にピントが合わない。小さい字がいよいよ読みづらくなってきた。肩は大丈夫だが腰が痛い。湯船に浸かると自然と「あ〜」と声が出てしまう。どこから見ても立派なおっさんだ。体型はシュッとしてるほう。まだ毛髪もだいぶ残っている。ありがたいことに。だが…。

ていうかあと3年かそこらで俺50歳になるのか。やば。こわ。

 

晩酌禁止は依然継続中。まもなく3ヶ月。

今年は花粉が早そうなのですでにアレジオンを飲み始めている。

腸内環境を整えるため毎日R1と新ビオフェルミンSを飲んでいる。これは通年の習慣。

室内で運動がやりたくてフィットボクシング2のダウンロード版を購入したもののまだ起動していない。体動かす気分になれない。そうなる気分を待つのではなく体を動かせば気分は後からついてくるって理屈はわかってはいるが、とにかく億劫で無理。いや、早見沙織の声を聞きさえすれば体なんていくらでも動くのかもしれん。かもしれんが…。

 

今は日常生活を送るのでいっぱいいっぱい。忍耐の時期。

 

M.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8を買ったので試し撮りをした

 

 

今年は俺の年なので読書、運動、写真を例年よりちょっとだけ頑張ろうと思っている。

 

写真に関しては2022年に高額払ってOM-1を買ったものの、レンズセットで付いてきたM.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PROが、便利ではあるがデカ過ぎて、ミラーレスのメリットであるコンパクトさを帳消しにしてしまい、デカくて重いと荷物になるので持ち歩かなくなり、結果使われずに眠る事態に陥っていた。

 

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…読み返したらめちゃ文句書いてるな。

 

以前はニコンのD7200を使っていたが重くて首と腕がだるくなり持ち出さなくなったので売った。代わりにE-M10 MarkIIを買ってミラーレス一眼デビューした。こいつは今も所有している。小さくて軽いボディなのでいい。俺みたいな、ちょっと出かけたついでに撮る(撮るために出かける、じゃなく)程度の写真撮りにはコンパクトであればあるほどいい。「作品」なんて撮らないし撮れないんだから。

 

iPhoneでいいじゃん、て話になりそうだが、たしかにiPhoneのカメラでもいいんだろうし実際普段から撮りまくってはいるんだが、それだけだと撮る楽しさがないというか…なんかこう書いていてだんだんわれながらめんどくせえなって気持ちになってきた。そこまで強くこだわるほどの撮影好きってんじゃ全然ないが、カメラで写真を撮るのは文章を書くのとともに一生の趣味として今後も続けたいと思っていて。

 

とりあえず普段使いで12-100は使えないので、ちょっとそのへん出かけるときカメラを気軽に持っていけるような小さいレンズが欲しくなり、基本中の基本であるだろうM.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8を購入した。明るい単焦点レンズ、焦点距離は35mm判換算で50mm相当。これぞオーソドックス。マイクロフォーサーズ単焦点レンズはこれが初めての購入。

 

日曜日、朝からずっと雨だったが昼過ぎに弱まりやがて止んだ。

出先で用事を済ませたあと公園を通りかかったので車を停めて散歩がてら練習を兼ねて撮ってきた。言うまでもないが大した写真じゃない。人様に見せるようなものではぜんぜんない。

 

車窓から。公園に行く前。このときはまだ小雨がぱらついていた。

 

車窓からその2。

 

ここから公園。マツ。ズームレンズに頼りきりだったから単焦点に慣れるのに時間かかるかなと思ったけど普段使ってるiPhoneでもズームしないので撮っていて違和感は感じなかった。画角が狭いぶん切り取る対象が絞れるから却って撮りやすいかも。

 

はてなブログの編集ページで写真を投稿しようとしたら縦写真が横になってしまう現象が起きて困惑。はてなフォトライフからアップロードしたら縦のままいけた。

明るい。

マイクロフォーサーズ25mm、何も考えず撮ると何が撮りたいのかわからん、ぼーっとした感じに。

 

ベンチで誰かをマツ。

新海誠的きらめきを放つ蛇口。

広い。犬連れの散歩者多し。

 

桜まだこんなん。以前シーズンに見にきたことあり。

打ち捨てられ。

 

日が出てきた。冬でも猛烈な日没間際の光。

 

寄り。

本日貴重な花の写真。

 

冬に自然を撮っても茶色が多くなってしまうので寂しさあり。カラフルがいい。

こういう捻れていくフォルム面白い。

 

リフレクション。

 

絞り優先モードで開放かF8でのみ撮影。撮れた写真のボケや色味、家帰ってからパソコン画面じゃないと写真が小さくてよく見えない、ファインダー覗いてシャッターを切る一連の動作(一部モニタ見ながらタッチ撮影)、どれもiPhoneで写真撮るのとはまた違う面白さ、不便さ、楽しさがあるな、と感じた。今更だけど。今後も外出する際にはなるべくカメラを持っていこうと思う。

 

少しずつ日が長くなってきている。いいことだ。早く春よ来い。

 

俺の2024年が明日から始まる

すでに年が明けて1週間以上が経過していてもう正月気分なんてとうに失われている今、これから2024年が始まるもないもんだが、被雇用賃金労働者ゆえ出勤して仕事を始めないことにはどうにも1年が始まった気がしない。

 

この年末年始はずいぶん休んだ。28日から12連休。休暇前はあれやりたい、これやらなくちゃとあれこれ予定を立てたが結局7割くらいしかクリアできなかった。いつも思うが長期休暇は入る直前──1週間前くらいが一番楽しい。あれこれ予定立ててるときが一番わくわくする。入ってしまえばあとは終わりへのカウントダウンがあるばかりだ。

 

毎日よく歩いた。年末少しサボってしまったが休暇中毎日7000歩以上歩くのは課題のひとつだった。7000歩より多く歩けた。年明けから天気いい日が続いてよかった。散歩は今年の運動習慣のひとつとしたい。距離、路面舗装、歩きやすさ、すべてがちょうどいいルートを見つけたのだ。平日は無理だが休日に、年間を通じて歩けば四季の変化が楽しめるだろう。晩酌をやめてそろそろ60日になる。例年の正月より体調がいい気がする。

 

1月7日、すでに初詣は近所のお寺で済ませていたが新宿へ買い物へ行く用事があったので、同行者と二人、ついでに花園神社へお参りしてきた。人混みが大嫌いなので混雑していたら嫌だなあと思っていたのだが(新宿で人混みが嫌とは矛盾でしかないので普段はなるべく近づかないようにしている。池袋も)思ったより人は少なかった。西口に出たら人の数はまばら。用を済ませ東口へ移動すると人は多くなったが普段の土日より少なく歩きやすかった。花園神社では参拝の行列に10分くらいしか並ばずに済んだ。

 

今年まだ引いていなかったのでおみくじを引いたら何年ぶりかは忘れたが人生で2度目(たぶん)の大吉が。願事は遂げられる、失物は出る、争事は勝つ、病気は治る、などなど超つよつよモード。元日には楽園からpanpanyaさんのイラスト付き年賀状も届いたし、2024年は俺の年でしょう。「他人をうらまず仕事にはげむことです」か。去年仕事でちょっと面白くないことがあってクサクサしたけど、年も改まったし心機一転でまたがんばるか、という気持ちになった(ちょろい)。

 

年が明けてすぐに地震、そして事故。5日には投資について私淑していた山崎元さんの訃報に接し落ち込んだ。がんを公表してはいたがこんなに早いとは想像していなかった。新NISAが始まる今年はたくさん活躍の場があっただろうし、歯に衣着せぬ率直な発言を期待し指針にもしていたので本当に残念だ。山崎元さんと水瀬ケンイチさんの共著を読んで投資を始めて今年で8年目、2012年には全財産7000円の無職だった俺が、今では車を買ってなお「5年で新NISA1800万円の枠を埋めたい」とまで言えるようになったのは何が起きようと毎月淡々と積立て投資を行って資産を地道に増やしてきたからで、だから恩人と言っていい。山崎さんの合理的思考(人生におけるサンクコストの捉え方とか)には影響を受けた。でも山崎さんは、金はあくまで道具でありそれを使って何をするかが大事なんだと常々言っていた。その教えはまだ俺は実践できていない。漠然と、老後の不安のために(ひとりものだし)備えようとしている。

 未来を人質に現代社会における抑圧を正当化するのであれば、それは本末転倒でしかない。未来は他ならぬ現在の私たちのために存在しなければならないのであって、逆ではない。

 

木澤佐登志『闇の精神史』

 

今朝は、起きると父親が気分が悪いと言うのでひやりとした。もう78歳の後期高齢者、何があってもおかしくはない…と思いつつ、親にとっては幾つになろうと子供は子供と言うように──俺には子供がいないのでその感覚はわからないが──子供にとっては親はいつまでもいてくれるものとの思い込みがなくせず、何かあればただ不安になるばかりである。幸い、午後にはよくなった。昔から健康で風邪ひとつひかず、その頑健さが頭痛持ちの自分には羨ましかった父親もさすがに寄る年波には勝てず、持病もあり、たまに体調が悪いと言って寝込むようになった。あと20年、元気でいてほしいと思っているが、それでもいつかはいなくなってしまう。俺は父親が好きなので、いなくなってほしくないんだが。

 

順番通りにいけば、いつかは俺一人になっちゃうんだもんな。寂しいぜ。

 

人の命の儚さ、一寸先は闇の人生、そういうことを考える機会の多い年始休暇だった。せっかくおみくじで人生2度目の大吉を引いたことだし、時間や金の使い方など、今年は従来の未来志向から現在志向に若干シフトして、人生──健康、時間、金──のバランスを取りつつ、楽しく、上機嫌に過ごすのを一年の目標とする。

 

今年の俺は、去年までの俺とは、少し違うぜ。

 

 

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木澤佐登志『闇の精神史』を読んだ

 

 

スペース(宇宙または空間)をめぐる奇異な思想を紹介する本。

主としてはロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースについて。

本書は「精神史」と銘打っているが通史でもなければ包括的でもない、自身の興味の向かうままに散乱&拡散していくエッセイ(試論)だと冒頭で著者が断りを入れている。タイトルに「闇」とあるが特別ダークな内容ではない。黒い表紙といい、同じ版元から出た『闇の自己啓発』を意識しているのだろうか。

 

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『闇の自己啓発』や冊子『書架記』、あとはweb連載の記事を読むかぎり、アングラ思想、オカルト、テクノロジーイデオロギー、資本主義批判など木澤さんの執筆領域は俺の関心と重なる部分が多い(俺はテクノロジー関連にはあまり興味ないけど)。現在のこの分野の紹介者として稀有な存在だと思っている。

現代ビジネスのこの連載が面白かった…のだが更新ストップしてるっぽい。いずれ続きを書いてほしい。

gendai.media

 

本書の内容に触れる前に。

イーロン・マスクはなぜ火星をめざすのか?」と書かれた帯が本書に巻かれているでその答えについて。マスクによる宇宙開発、民間航空宇宙企業スペースXの構想の背景には、現在の延長線上で持続可能な未来は幻想でしかなく、人類は遠くない未来に存亡の危機に瀕するとの彼の主張がある。地球に何かしらの破局が起きる前に人類を多惑星種化して、種としての絶滅を防ぐ、そのための宇宙開発。移住先として最良の選択肢の一つだから火星を目指している。

マスクのような、現在より未来を優先する思想を長期主義という。長期主義は未来のために現在を犠牲にすることを厭わない。長期主義は現在の社会の持続可能性を信じない。だからビジネスと相性がいい。未来はこうなる、それを未然に防ぐ、を大義名分にしさえすれば現在の環境を破壊しまくれるから。だが、むしろそうした長期主義に基づいた経済活動による環境へのダメージこそが、却って破局を招く、早める可能性はないだろうか。俺は、あると思う。

長期主義(者)は環境学の立場からどう見られているのだろう。ちなみに同じ宇宙開発でもAmazon創業者のジェフ・ベゾスは資源獲得を主要目的として進めているという。

 

以下、本書の内容について。

第1章はロシア宇宙主義。俺が読んだかぎり、本書に「これがロシア宇宙主義だ」と明確には書かれていないのでいまいちわかっていないのだが…。

ロシア宇宙主義は19世紀の思想家ニコライ・フョードロフの思想がベースにある。彼は、人類は未だ進化の途上であり、より高い存在、神人的統一体にならなければならないと考えた(この考えには同時代のダーウィンによる進化論が影響している)。人間の進化には精神的および身体的変容=改造が不可欠である。だから何らかの手段を用いて(具体的方法について本書では述べられていない)人類を進化させる。この進化プロジェクトの最終目標は死の克服と死者の復活である。生殖=人間の再生産に費やされるエネルギーを先祖復活の方向へと転化させて「逆向きの出生主義」を実現することが目指される。

全人類が一致して、生殖のプロセスに逆らいながら、系譜の連鎖を逆向きに辿ってやがて二人の完全な人間、アダムとイヴを作り出す=再創造すること……。

先祖の復活によって人口は増加する。それに伴い地球資源は枯渇する。本書によるとロシア宇宙主義とは、

避けがたい終末から逃れるために、宇宙空間を新しい人類の居住区=養殖場コロニーとし、太陽系を手始めにやがては宇宙のさらに奥深くへと、すべての空間を人間の統御下に置くために進出していくこと

であるらしい。

荒唐無稽としか思えないが…。

ロシア宇宙主義については来月河出書房新社から本が出るみたいなのでそちらを参照するのもよさそう。

www.kawade.co.jp

 

このロシア宇宙主義は現代のシリコンバレーにおけるトランスヒューマニズム=人類の不死化研究と共鳴する。

たとえば身体のサイボーグ化や薬物やテクノロジーによる各種のエンハンスメント、不死になることを目的に、コンピュータなど、なんらかのハードウェアに自身の脳内に存在する意識データをプログラムやデータとしてアップロードすること(=マインドアップローディング)、あるいはもう少し愚直に(?)、自身の死体を極低温保存して然るべき技術の整った未来に解凍してもらうことの望みに賭ける人体冷凍保存、等々

PayPal創業者のピーター・ティール、Googleの共同創業者で元CEOのラリー・ペイジイーロン・マスクといったテック企業家はこれら徹底的生命延長を信奉し関連企業へ積極的な資金提供を行なっている。アメリカのアリゾナにあるアルコー生命延長財団には「世界各国のセレブや資本家、または中東の石油王の死体あるいは頭部」を液体窒素で満たしたシリンダー内に保管しているという。世界にはアルコーのほかにも三つ同じような施設があるというのだから驚く…というか本当にそんなことしてるのか? 不死の実現を信じて死体を保管している施設があるなんて、著名人への反感から生じた陰謀論の類じゃないのかと疑ってしまう…のだが検索したら出てきた。マジか。閲覧注意。

gigazine.net

 

第1章ではロシア宇宙主義に続いてプーチンウクライナ侵攻へと向かわせた新ユーラシア主義についても触れられるが、こちらは雑に言えば国家および民族のアイデンティティ喪失を埋めるためのナショナリズムという感じで独創性・珍奇性はない。西欧へのコンプレックスとその克服というテーマは19世紀に書かれたドストエフスキーの小説にも繰り返し出てくる。権力者、というか独裁者がこの思想に憑かれるとやべえだろうなと思うが実際やべえことになったわけで発展に意外性もない。

 

第2章のアフロフューチャリズムはミュージシャンの話で興味が持てず斜め読み。俺には彼らの「設定」としか思えなかった。

 

第3章はサイバースペース。この章、話題が多岐にわたる上にどれも身近なので面白かったが「拡散」し過ぎて散漫になってしまっているのが惜しい。

行動経済学に基づいた環境管理による人間の行動の管理=(ある種の)支配。環境によってユーザーを監視、予測、誘導を行うアーキテクチャ道具主義という。全体主義は暴力によって機能するが道具主義は行動修正によって機能する。全体主義にはイデオロギーがあるが道具主義にはない。道具主義は人間の行動を測定し、予測し、制御することにのみ関心を持つ。ビッグデータを背景にした環境管理型の道具主義が現代の──サイバースペースにおける──権力装置である。

 道具主義者が関心を向けているのは、測定可能な行動を測定し、わたしたちのあらゆる行動を、絶えず進化する計算・修正・収益化・制御のシステムに常につなげておくことだけだ。

今やアルゴリズムはユーザーの嗜好を過去の膨大な蓄積データから予測して、彼が望む前に、いわば先回りして欲望を提供するほどになっている(そのいい例が通販サイトにおける「よく一緒に購入されている商品」「この商品に関連する商品」の表示)。徹底的に個人化された広告はもはや広告というよりは「勧誘」に近い。ユーザーは餌の出るボタンを押し続けるラットのように企業が提供する環境に依存するようになっていく。環境管理の例として、著者はソーシャルゲームでガチャを天井まで回して大金を溶かした実体験を挙げる。描写される心理はギャンブル依存そのもの。大企業が提供するソーシャルゲームは一流大学でマーケティングや心理学やエンジニアリングを学んだスタッフが製作してるんだろうからさぞ巧妙にユーザーを依存させるようにデザインされているんだろうな、とスマホでゲームは一切やらない(怖くて近づかない)俺は思う。

 

道具主義は普段はその姿を潜めている。ユーザーはその存在を意識せずサービスを利用している。ところが、何か規律に抵触したのか、ある日突然アカウントが凍結される事態が起きる。あるいは誤ってアカウントを凍結される(誤BAN)。それは今まで不可視だった権威が突如顕在化して権力を行使した瞬間だ。

 先にも述べたように、道具主義者の用いる行動修正/行動予測テクノロジーは、規律権力とはまったく異なったあり方で作動する。追跡テクノロジーは、ユーザーの気づかないところで行動を記録し、データを収集する。それはフーコーのいう中央監視装置パノプティコンをすら不要のものとする。権威や監視の目を内面化させ自己規律化へと向かわせる近代的な規律権力とは異なる、不可視のアルゴリズムアーキテクチャが個人の行動をナッジ(そっと押す)する権力形態。ただし、注意しておこう。それは権威/権力が存在しないということではない。そうではなく、権威/権力は単に目に見えなくなっただけなのだ。

コロナ禍における自粛警察のような相互監視といい、道具主義の見えない権威といい、日々の暮らしのいたるところに権力が組み込まれていると考えるとちょっと気味悪くなってくる。

 

このサイバースペースの章ではメタバースについても触れられる。自身の肉体というフィルタを脱ぎ捨て、バーチャル空間でアバターという「本当の身体」を得て、年齢も性別も肩書も、あらゆる制約を超越して魂と魂で交流ができると謳うメタバースは人類にとっての理想的な社会なのか。または、そうなりうるのか。だが現状メタバースはすべての人間に開かれているわけではない。健常的=健康的な身体がなくてはVRバイスを装着したり利用したりするのは不可能だから。健康的な身体がない人たちが参加できない時点でメタバース理想社会では(まだ)ない。こうした問題は今後のテクノロジーの発展次第だろうが。

 

メタバースには他にも課題がある。メタバースを駆動させる無数の巨大サーバーは大量の電力と熱を消費し、その背後にはインフラを維持するための労働者たちがいる。近年、ネットワーク関連の消費電力が急増しており、今後もさらに増えこそすれ減る見込みはない。現在の増加ペースを考えると、約5年後には動画配信およびメタバースの電力問題やその制限に関する議論が起こり得るとの専門家の予測があるという。環境破壊の問題もある。

結局、どれほどテクノロジーが進歩しようと、人間はこの制約だらけの物理世界で生きて死ぬしかないんじゃないかなあ、と俺みたいな旧世代の中年は思ってしまう。

 

著者はメタバースの思想について、

制約の存在する物理世界を悪や欠如とみなし、一方で物理世界を超えた魂の次元を善や本質的なものとみなす二元論的思考

と指摘する。この思想は、新プラトン主義、キリスト教グノーシス主義といった西洋思想と驚くほど類似している。最新テクノロジーを用いた技術的に最先端の世界なのに展開する思想は先祖帰りしているのだ。

精神/身体という近代的な人間主義から一歩も抜け出ていないという意味で、そのポストヒューマン的な装いの内側は驚くほど保守的ですらあることは、心に留めておくべきかもしれない。

これに「不死」というファクターを加えたら、物理的制約のある肉体を捨て魂として霊的世界へ移行することで永遠=不死を獲得しようとする千年王国思想のデジタルバージョンになる。この、メタバースの思想をめぐる一連の論考部分はとても刺激的で面白かった。

 

 

本書はアングラな、あるいはテクノロジーの背後にある思想を紹介するエッセイとして、自身の関心ある分野へのとっかかりとするのに適している一冊だと思う。本書を読んで、テック企業家の思想、ロシア宇宙主義、監視資本主義に興味を持った。世の中ってほんといろんな考えをする人間がいるんだな。

 

映画『ファースト・カウ』を見た


監督のケリー・ライカートは現代アメリカ映画界で「最も重要なインディペンデント系監督」の一人であるらしい。Xを見ていたらこの人の映画が日本で初公開されるとちょっとした話題になっていた(特集上映は過去にやっているらしい)。

 

知らん監督だな、どんな作品撮ってるんだろう、と気になって検索したら『オールド・ジョイ』の監督だった。かつての親友で今は別々の人生を歩む男性二人が久々に再会して山奥の辺鄙な温泉に浸かりに行くってだけの映画…なんだが時の経過とともに変わっていく友情を、時が止まっているかのような自然と対比的に描いていて妙な哀感を誘われた。作中流れるラジオニュースから時代背景を考えると奥が深いみたいだが俺にそこまでの知識はない。シンプルに、男二人の一風変わったロードムービーとしていい印象が残っている。あと、犬が可愛い映画としても。あれを撮った監督なのか、と興味が湧いたので見に行った。

 

正直予告を見たかぎりではそれほど面白そうには思えず、雰囲気重視のアート系映画だったら寝てしまうかもしれなかった。


www.youtube.com

 

いざ見れば実際序盤の30分はかなり退屈。うだつの上がらない男二人がしょうもない将来の夢を語ったり、暗い画面で手作業やってるシーンばっかりで眠くなった。前に座っていた爺さんも何度も欠伸してた。これがあと90分続いたらきついな…と不安な気持ちに。

 

が、そこを過ぎ、ミルクを盗むあたりから面白くなってくる。不正を働いてはいるものの主人公二人は悪人ってわけでもない憎めないキャラ。どちらも集落では少数派に属している。ドーナツを作る料理人はマッチョな男社会からハブかれている。相棒はたぶん集落で唯一の中国人。二人とも貧しい。しかし作ったドーナツは行列ができるほど人気になり二人は大儲け。噂を聞きつけて遂にはミルクを盗まれている本人である株式仲買人までが買いに来るようになる。とはいえいつまでもこんな生業がうまくいくはずがない。盗みに気づかれるかドーナツが飽きられるかしてすぐに終わるだろう、と料理人は悲観する。そう、だから今がチャンスなんだ、稼ぎ時なんだ、と相棒は励ます。

 

そして破局がやってくる。

 

開拓者たちは「ビーバーは無限にいる」と豪語して毛皮目当てに乱獲している。つまり自然から資源を奪って(=盗んで)いる。株式仲買人もその一人。その彼から主人公たちはミルクを盗んでいる。これは持たざる者による持てる者への反抗を皮肉に描いた資本主義批判の映画なのかな、なんてったって相手は株式仲買人だし、と見ながら思っていたのだが、あとでパンフレットを読むとインタビューで監督は「映画は個々の登場人物の個々の状況の物語だ」と政治的なテーマを読もうとする見方を牽制している。どうなんだろうか。言葉どおりに受け取っていいのか。それにしちゃあ設定としてあからさますぎやしないだろうか。

 

上でも述べたが序盤の30分はかなり退屈。画面も暗くて見づらい。だがそこを過ぎるとだんだん面白くなる。終盤はかなり緊迫感があり眠気は吹っ飛んだ。映画が始まってすぐに主人公二人の末路(らしきもの)について示されるのでその後展開するストーリーはそこに至るプロセスでしかないのだが、結果がわかっているからこそ今か今かとその瞬間が来るのを手に汗握って待ち構えてしまう。意地悪な構成。でも最後まで決定的瞬間は描かれない。むしろ平和に終わる。あえて決定的瞬間を見せず、匂わせもせず、スパッと終わらせてあとは観客の想像に委ねるようなこの終わり方に、すげえなあ、とため息が出た。え、ここで終わり? と一瞬思ったが、あれ以上続けたら悲劇色が強くなってしまうだろう。だからあれでいいのだ。この終わり方、何かに似ているような…と考えていたらミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』だった(映画ではなく原作小説の方)。主人公たちの最期は途中で述べられるもののストーリーは続き、幸福感漂うシーンで終わる。物語が終わったあとの余韻が『ファースト・カウ』と似ていないだろうか。

 

『ファースト・カウ』は『オールド・ジョイ』と同じく男性二人の友情をメインに描いている。『オールド・ジョイ』のラストには苦味があった。『ファースト・カウ』の二人にはラストシーンからもう時間は流れない。だから結末は悲劇かもしれないけれど友情は美しいまま終わったとも解釈でき、そう考えるとなんとも言えない気持ちになる。二人とも自分だけで逃げずに相手を探す/待つんだもんなあ。どっちかは相手置き去りにして逃げるだろうと予想した自分の心の汚さが恥ずかしい。

 

『ファースト・カウ』の終わらせ方、撮り方(森の中に潜む「彼」が最小限にしか出てこないのもよかった)に感心したので滅多に買わないパンフレットをつい買ってしまった。監督インタビュー、複数の批評家によるライカート作品評および解説、『ファースト・カウ』関連作品紹介などが載っていて、期待以上に内容が充実していたので買ってよかった。この映画が西部開拓「直前」の1820年代を舞台にしている意味が解説を読んで理解できた。帰宅して、今さっき同じ監督による『ミークス・カットオフ』を見たら──俺好みの素晴らしい心理サスペンスだった──こちらは1845年が舞台で、過去の開拓者たちに乱獲されたせいでビーバーは絶滅したとされている。資源が無限にあるはずがないんだよなあ。無限なのは人間の欲深さだろう。

 

ケリー・ライカートの映画、いいな。Amazonのプライムビデオ見放題にはライカート作品が4つある。まだ見ていない『リバー・オブ・グラス』と『ウェンディ&ルーシー』もこの休暇中に見ようと思う。

 

映画見たら無性にドーナツが食いたくなったので買って帰って家族と分けた

 

 

オールド・ジョイ

オールド・ジョイ

  • ダニエル・ロンドン
Amazon

 

 

ロビン・ダンバー『宗教の起源』を読んだ

 

 

ブクログによると読み終えたのは去年の12月4日だがブログには感想をまだ書いていなかったので簡単に書いておく。

 

以下、ブクログの感想をコピペ。

宗教は人間の脳が大きくなるにつれ、共同体の規模が大きくなるにつれ、必然的に生まれた。

 

宗教の最大の意義は共同体を安定的に維持すること。

 

人間が親密さを持って接することができる人数の上限は150人前後。共同体の人数がこの数を越えると帰属意識が薄れていく。それを防ぎ共同体を継続して維持していくために儀式を伴う宗教で人々を団結させる必要があった。儀式や歌は人々を高揚させトランス状態に導く。トランス状態に入ることで巨大な共同体につきものの人間関係のトラブルはリセットされる。


周囲と一体感を得ることでエンドルフィンが分泌され幸福感が起こり、NK細胞が活発化して免疫が高まり、利他的な気持ちになって共同体の結束を高める効果もある。宗教すごい。調査によると信仰心のある人の方がない人より健康で幸福な傾向にあるという。

 

集団が150人規模を超えると人間関係の緊張度が増すと何度も繰り返し述べられる。やはり人間にとって他人はストレスの源なのだとの感を強くした。phaさんや鶴見渉さんによる「集団を閉鎖的にしない」「常に外にゆるく開いておく」という工夫やサードプレイス概念の正当性を裏付けている。

 

カルトの創始者統合失調症と類似の精神的傾向があるという。幻視や幻聴といった神がかり的な体験が病いの症例とたしかに似ている。イエスブッダもそうだったのかもしれない。

 

宗教は衰退していると言われるがそれはあくまで一部の先進国に限った現象であり、経済格差が大きい国では裕福でない層を中心にさかんに信仰されている。人間の営みで宗教に代わるものはなく、時代とともに中身は変わったとしてもなくなることはおそらくない。

コピペ終わり。

 

 

本書による宗教の定義は「霊もしくは力が存在する超自然的世界に対する信仰」。

 肉体が死んでも、生命力や霊魂のようなものが生き続けるという考えは、普遍的とはいわないまでも広く定着している。そうした生命力は手で触れたり、直接交流できたりするわけではないので物質世界には存在しない。だがどこか別の、霊的世界のようなところにいるはずだ。そんな信念が生まれる理由のひとつが、死に接したときの精神的な変化だ。私たちは近しい家族や友人に深い愛着を抱くため、そうした人びとを失ったときには誰もが悲嘆に暮れる。そんなとき、死者がどこかで生きていて、いつかまた会えると思うことが慰めと希望となる。そうでなければ、多くの人が死んだ家族と会話を続ける理由が説明できない。

人間にとってもっとも大切なものとは愛する者の存在だ。それを失えば自分の身体の一部をもぎ取られたような痛みをおぼえる。喪失から鬱状態に陥ることもある。2000年前も現在も、まだ幼いわが子を亡くした母親の痛みはどれほどのものだろう。想像もつかない。こうした愛する者の喪失に意味を見出したり、自らを慰藉して今日を生きていくためには物語が必要だった。愛する者たちは目に見えずとも今も生きている、あるいは、いつかきっと別の世界で再会できる、そういう、生き残った者への慰めとなる物語を提供してくれたのが宗教だった。死すべき存在である人間は霊的世界に惹かれるようにできている。

 

神の存在を信じない宗教はあるが上記の定義だと世界中のほぼすべての宗教が含まれる。そして「宗教らしき形式を持たず、人知がおよばないものをいっさい信じない文化はほぼ存在しない」ほど宗教は人類と常に共にあった。

 

宗教には儀式を通じて共同体をひとつにまとめる力がある。

元来、人間は向社会的ではない。権威や家族から圧力を受けていないと社会的義務を果たそうとはしない。放っておいてもする向社会的行動(利他的行動)は家族や友人などの内輪の集団に限られる。しかし共同体の規模が大きくなれば安定的に運営するために構成員が社会性をより広範囲に発揮することが求められる。「高みから道徳を説く神」の設定はその目的に都合がよかった。神の教えとして社会性を持つよう構成員を繰り返し教育できる。また人の目が及ばないところでも人々を天から警察官のように監視していると思わせられる。やがて人々はこの神の監視の目を宗教的教育によって内面化するようになるだろう。道徳の誕生である。

 

宗教を信仰することには実際的なメリットがある。猿はグルーミング(毛繕い)に一日の大半の時間を費やす。グルーミングには、されるとエンドルフィンが分泌される効果がある。

 エンドルフィンとは脳内で働く鎮痛剤で、化学構造がアヘンによく似ており、アヘンのように気持ちを落ちつかせ、「世はすべてこともなし」という温かな幸福感をもたらす。そしてアヘンに似た効果で、強い痛みに耐えられるようになる。また重要な下流効果も二つある。ひとつは免疫系によるNK(ナチュラルキラー)細胞の増殖をうながすことだ。NK細胞は体内に侵入したウイルスなどの病原体、またがん細胞を発見し破壊するという、身体の機能における重要な役割を果たす。(略)エンドルフィンのもうひとつの効果は、結束を強めることだ。グルーミング中にエンドルフィンが分泌され、温かな気持ちになると、グルーミングしてくれる相手への帰属意識と信頼感が生まれるようだ。要はエンドルフィンは気分を明るくして、相手との強いつながりを感じさせるだけではく、免疫系の調整も行って、健康な状態を保ってくれるということだ。

ただグルーミングは同時に二人以上に対してはできない。人間は進化の過程で言語を獲得し、直接手で触れずとも言語によるコミュニケーション、おしゃべりや笑いなどによってグルーミングの代替としてきた。しかしこれも対象範囲は狭い。やがて歌やダンスや物語りや宴(大勢での飲み食い)をすることも覚えたが小集団内での実施が限界だった。もっと大きな共同体全体でグルーミングはできないか。そのために発明されたのが宗教とその儀式だった。儀式の特徴は同期性だ。皆が同じタイミングで立ち、膝をつき、座り、ひれ伏す。声を揃えて祈り歌う。「同期した動作には催眠的な効果があって、仲間意識を大いに高めてくれる」。儀式によって共同体の結束は強まる。お互いに仲間だと認めることで隣人に愛着もわく。宗教儀式とはいわば「遠隔グルーミング」行動なのだ。

 

ある調査によると宗教活動に熱心な人ほど、多くの人との繋がりを感じ、何かあっても自分は周囲から支援が受けられるから大丈夫だと思えるようになり、幸福感が増して人生への満足度も高くなるという。「宗教は民衆のアヘン」という言葉があるが肯定的な意味で調査はそれを裏付けている。

 

基本的に人間は集団生活にストレスを感じるようにできている。とはいえ生物的に強くない人間は集団で協力することにより生き延びてきたし文明を発展させてもきた。ストレスを抱えつつ集団で生きていく、これが人間の生きる道で、ストレスによる集団内の分裂を食い止めるために踊りや宴会や宗教儀式をうまく用いてなんとか共同体を運営、維持している。ストレスは持てる者への嫉妬、けち臭い行為、不適切な性行動、義務の不履行などで高まる。本書は挙げていないが力の強い個体による暴力や、暴力を匂わせた威圧などもあるのではないだろうか。宗教儀式があろうが共同体内で不和による殺人は常に起きる可能性を孕んでいる。それほど人間にとって他人はストレスの源になるのだ。

 

著者によると人間が親身になれる相手の数は150人程度が限界だという(ダンバー数)。それ以上の数の集団になるとよく知らない相手が増えて帰属意識が薄れる。文化の一貫性も保てなくなり意見の衝突とそれによるストレスが組織構造を崩壊させる方向に向かっていく。

 

なぜ宗教はこんなにたくさんあるのか。あるいは同一宗教の中で分派が生まれるのか。この疑問がダンバー数を用いると解明できる。集団が大きくなりすぎて自分が愛着や帰属意識がなくなる。ストレスも高まる。内輪の人々と親身な共同体を形成したいという欲求が高まり、その結果集団を出て新たな別の集団を形成するようになる。その新しく作られた集団も150人を超えると一貫性が保てなくなり分裂の危機を迎える。

 

少し前に読んだ『くらしのアナキズム』にある村の寄り合いの挿話が出てきたが、あのような民主的な話し合いは皆が顔見知りの小集団であったからこそ可能だった。人間はやっぱりどうも大規模な集団生活に向いていないように俺には思われる。大規模集団だと関係ないわけでもない物事なのに他人事に感じられたり、誰かがどうにかするだろうという無責任さが芽生えたりしがちな気がする。支配層にとってはその方が都合がいいだろうが。

 

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大きな目標を遂行するために組織を形成する。組織内のストレスを抱えつつ目標遂行に向けて構成員が協力する。…こう考えると会社組織にも当てはまる。朝礼や飲み会はストレスを緩和したり組織の結束を強めたりするための儀式──方策なのだ。だからそれに参加しない人が周囲から浮いたりハブかれたするのも道理だ。いわば異分子と見られるのだから。

 

著者は神を警察的な監視者として捉え、宗教の教義は人がその監視者の目を内面化して自治していくための規範と見ている。俺は宗教は一つの大きな物語だと思っていて、共同体を結束させるための偶像、あるいは高貴な幻想と思っている。大勢がひとつになるためには何かしら共有の概念が要る。神とか、国家とか、民族とか、贔屓の球団とか(最後のは概念じゃない…)。

で、以前、情報化社会の到来により大きな物語はその役目を終え、各人がそれぞれ信仰対象を「推す」社会に変化してきているんじゃなかろうか…と好き勝手に思ったことを書いたのだったが、著者によると宗教離れは一部の先進国の特定の宗教に限るらしく、世界的に見れば宗教はまだまだ隆盛を誇っているとのこと。

 

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「経済状態が良好で、富の格差が小さいと、宗教への関心が低下する」。貧困や抑圧の苦しみからの癒しを宗教に求める必要がないからだ。西洋ではキリスト教主流派は力を失っているが非主流派は今も盛んだという。イスラム教も。どちらも裕福でない階層が信者の中心。富の分配に格差がある南北アメリカ、アフリカ、南アジアなどではキリスト教イスラム教も盛んに信仰されている。「潮の満ち引きのように、隆盛を誇った宗教が衰退していった例は歴史上いくらでもある」。マニ教は消え、ゾロアスター教は衰退し、古代エジプトやローマや北欧の神々はキリスト教の改宗圧力に負けて姿を消した。今日隆盛を誇っている宗教の誕生が2000年前であることを考えると、2000年後の宗教は今とはだいぶ顔ぶれが違っているかもしれない。

 

しかし宗教は人類が存続するかぎり消滅することはないだろう。宗教は人間の本性に深く根ざしておりおいそれとなくせるものではない。

 一九世紀フランスの社会理論家たちが望んだように、宗教が衰退の一途をたどっていくのであれば、それが何らかの影響をおよぼすだろうか。宗教はおたがいがつながっている感覚を生み出し、それをつうじて共同体の結束はもちろん、個人の心理的、身体的な健康と幸福という真の利益をもたらしていることを考えると、影響がないわけがない。宗教は未来の友人と出あう手段でもある。信仰の場は、かつての見知らぬ者どうしが、志を同じくする者どうしへと変わる場所だからだ。また信仰があるかどうかは別として、超大規模な集団の結束を支える国家儀式にも、宗教が意味を与えてくれる──厳粛さをかもしだすという意味で。共同体や国家の儀式の場に宗教を象徴する要素を取りいれると、純粋に世俗的な儀式ではまねのできない神聖な何かが生まれるのだ。宗教儀式ならではの崇高で荘厳な雰囲気を、ほかで再現することは難しい。

 

神秘的志向に支えられているからこそ宗教には神聖さがある。科学がどれほど発達しても宗教の代替となり得ないだろう要因はそこにある。理屈を超越しているからこその神聖さ。論理ではなく信仰ゆえの凄み。そして神聖なもの、崇高なものは無条件に人の心を感動で震わせ圧倒する不思議なパワーを持っている。壮大な大自然を前にしたときのような畏怖の感情も。人間の本能にインプットされた感覚なのかもしれない。ドストエフスキーなら、人間は自分よりも偉大なものの前にひれ伏したいという欲望をもっている*1、と言うだろう。

 

 

 

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*1:『悪霊』だったと思う

2024年 年初にさらに思う

 

元旦に能登半島で大きな地震があった。

翌日には羽田空港で衝突事故。

年明けからとんでもない。

 

非常時ではあるがなるべくニュースを見ないようにしている。

今俺にできることは何もない。

仮に何かやったとしても余計なことになる公算が大きい。

だから俺は俺の日常を続ける。

 

東日本大震災のとき、食い入るように連日の報道を見続けていたら少し調子がおかしくなった。当時俺みたいなのは他にもいたらしく、ネットではエア被災と揶揄されたものだが、燃えながら陸地に逆流してくる津波の映像を見続けていたらそりゃあ変にもなるだろう、と今なら思える。恐ろしいと思いながらその恐ろしさゆえに画面から目が離せなかった。計画停電、食料や日用品の買い占め、ガソリンスタンドの長蛇の列(早朝から車が列を作っていた)、直接の被災はなくても影響はあったわけで浮き足立ってもいただろう。

 

いろいろと思うところがあって、震災から3ヶ月後に会社を辞めた。震災がなくても遅かれ早かれ辞めてたと思うが。

それから2年ほど、なかなかいい仕事が見つからなくて困った…という話は以前にも書いている。

 

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東日本大震災からもうすぐ13年経つ。

それだけ歳をとって中年になりメンタルもだいぶ丈夫になった。というか感度が鈍くなって動じなくなった。

 

とはいえ俺には「前歴」がある。今回の地震にせよ事故にせよ、ニュースサイトやSNSの関連情報を漁れば際限なく出てくるだろうし読んでいれば時間があっという間に過ぎてしまうだろう。そしてそれをやれるだけの時間が年始休暇中の俺にはある。幸い(?)自室のテレビは受信できないから映らないものの、手元のiPhoneでリンク先を見ていくうちにまた2011年のように変にならないとも限らない。ちらっとだが、ビルが横倒しになっている写真を見たときは血の気が引くような感覚に襲われた。

 

はてブを見ていたら以下のエントリが目についた。

researchmap.jp

特に大規模災害で悲惨な映像やニュースに触れ続けていると,ただ情報を集めているだけでも気づかないうちに心がむしばまれます。場合によっては寝込んでしまうこともあります。そうなってからでは遅いです。「すぐに役に立つ」ことが全てではありません。じっと待ってしばらくしてから寄付をしたって(適切な場所を経由して)ボランティアに行ったっていいと思います。ですから,今は思い切ってSNSを切って,DVDでも観るか美味しいものを食べておきましょう。

 

これ、まんま13年前の自分にあてはまってる。

当時の自分に読ませてやりたい。

読んだとき少し気持ちが楽になった。

 

繰り返しになるが今の俺──俺だけじゃなく──にできることは何もない。

だから多少強引にでも平常運行を続ける。

ニュースは最低限しか見ない。SNSは断つ。

本を読み、部屋の掃除をし、散歩に行く。

誰かの役に(今すぐではなくても)立つには健康や金が要る。

だから俺は普段通りに休み、遊び、働き、そして現地を気にかける。

 

震災および事故に関しては以上。

 

 

もうひとつ、備忘録的に書いておきたいことがある。

おせちについてだ。

例年、正月は家族みんなで三重のおせちを食べていた。

1日から3日にかけて一日一段ずつ、三が日で食べ切る。

父の友人が経営している和食料理店から買っていたのだが、一昨年その人が亡くなっておしまいになった。

なので昨年からおせちの重箱はなし。

今年はA4サイズくらいのパックをスーパーで買って、あとは雑煮をちょっと食べて、餅を何枚か焼いて終わり。

去年は食べるものがなくてカップ麺を食べたようだが今年は元日はマクドナルド、2日はファミマのコッペパンを食べている。

おせちほぼなしの正月を2回過ごして思ったのだが、やっぱりおせちはあった方がいい。それも、ちょっと値が張る豪華なおせちが。

 

特別旨いとは思わないし(それでも最近のおせちは企業努力か昔より肉めのものが増えて食べがいあるようになってはきてる)、冷たいし、高額だしで経済合理性で考えるとコスパ悪いって結論になるんだろうが、おせちのない正月は侘しい。味気ない*1ダブルチーズバーガーもファミマのコッペパンも旨いけど、べつにわざわざ正月に食べなくてもいいだろう。ちょっと豪華なおせち料理の、あの彩り豊かな華やぎが正月のめでたい雰囲気には必要ではなかろうか。

 

…と思ったので今年の年末はおせちの重箱(三段が高ければ二段にする)を買うことに決めた。2万円? もうちょっと? それくらいの金なら、ある。俺、普段は食事にあまり金かけないし、老親と同居の独身中年、普段の生活が味気ねえんだ。正月くらい多少派手にやったってバチ当たらねえだろう。

 

通販では買わない。去年のクリスマス、高島屋の通販で買ったクリスマスケーキが、届いたらえらく崩れてたってニュースがありちょっとした騒ぎになった。原因不明とのこと。高島屋レベルでそうなるんだから油断ならない。食い物、それも盛り付けが重要なケーキや料理を通販で買うのはリスキーだと思う。幸い自宅から車で数分のところに和食レストランが二軒ありどちらでもおせちの予約をやっているようなので、そのどちらかから購入しようと思っている。11月末か12月に入ったら考えればいいだろう。まだまだ先…と思っているとあっという間に来てしまったりするから怖い。

 

今は一人用のおせちもあるようで、両親がいなくなって俺一人になったら正月はそれを食べるのもありかもな。正月には華やぎが必要だ。

 

2018年

 

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*1:あくまで個人的見解です