金森修『病魔という悪の物語 チフスのメアリー』を読んだ

 

 

20世紀初頭のアメリカで生きた、ある女性の一生。メアリー・マローンはアイルランド系の貧しい移民の子だった。賄い婦として各家庭に雇われ、料理を作るのが生業。ごく平凡な市井の人として一生を送るかに思えた彼女の名が全米に知られるようになったのは、彼女が腸チフス菌の健康保菌者だったから。彼女は知らぬうちに腸チフスに感染していたが屈強な体質だったため症状が殆ど出ず、その後も体内に保菌し続けていた。その彼女が賄い婦をしていたのだから、当然雇った家庭から感染者が頻出する。感染経路を調査していた衛生局は、感染した各家庭に雇われていた賄い婦メアリーの存在に気付き、チフス菌の検査を依頼する。抵抗したものの拘束され、検査結果は陽性。彼女は3年間、伝染病専門の病院に隔離される。その後、彼女の解放を巡って裁判が起きる。弁護士は、彼女には自覚症状がなかったのだから責めるのは誤りであること、彼女一人の問題というより彼女の働いている不潔で不衛生な労働環境に問題があること、国内に数多くいる健康保菌者のうち彼女のみ咎められるのは不平等であることを主張する。裁判には敗れたものの、その半年後に、今後調理に関わる仕事をしないことを条件に彼女は解放される。それから5年。メアリーは腸チフスの感染源の一つとして再び当局に拘束される。この時、彼女は誓約を破って賄い婦をしていた。再び入院させられた彼女は、死ぬまでの約20年もの期間を病院で隔離されて過ごした。のちには病院のスタッフとして働くようになる。彼女の死後、メアリー・マローンの名は次第に忘れられていったが、「チフスのメアリー」(Typhoid Mary)の名は残り続け、次第に一般名詞のような象徴的な名前となっていく。何の象徴かは時代の変遷とともに変わっていった。ある時は「毒婦」として、また別の時には「無垢の殺人者」として。

著者は、本書の趣旨の一つに歴史批判の意図を挙げている。実在した「チフスのメアリー」の存在は、単純に善悪の二元論で割り切れるものだろうか。ある日突然、身に覚えのないことで自分のこれまでの生活と自由を奪われる。彼女の生涯——それは大部分が不明瞭なものなのだが——を追っていくことで、彼女もまた我々と同じ、ごく一般的な人間だったことが明瞭になる。であれば、時代は変われど、彼女の身に起きたことは、いつか我々の身に降りかかってもおかしくはない。個人のある一面だけを恣意的に提示すれば、SNS全盛時代の現代、一人の人間の生活がめちゃくちゃになるリスクはメアリーの生きた時代よりも高いだろう。コロナ禍の今、目に見えぬウィルスに脅かされる不安ゆえの相互監視による圧力や不寛容の度合いは、コロナ以前と比較して増してはいないだろうか。そうした社会のストレスのはけ口として、第二のメアリーが今日生まれてもおかしくはない。当時とて、何千人という腸チフスの感染者がいる中で、健康保菌者メアリー一人を隔離する正当性はかなり薄かった。しかし彼女はスケープゴートにされた。自由を求める訴えは却下された。著者は、メアリー隔離の原因の一つに、彼女が貧しいアイルランド系移民であり、高齢の独身者だったという属性も関係していたと見る。社会の「異物」としての差別。不安・パニックに陥った人間、自分は正義の側にいるという確信を持った人間は、「異物」を敵と見做して徹底的に不寛容の行動をとってしまうのかもしれない。言うまでもなく公共の衛生は守らねばならない。これは絶対だ。しかしそれが個人の権利と対立した場合はどうするのが最適なのだろう。