岸政彦『断片的なものの社会学』を読んだ

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

  • 作者:岸 政彦
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

四角い紙の本は、それがそのまま、外の世界にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。そして私たちは、時がくれば本当に窓や扉を開けて、自分の好きなところへ出かけていくのである。

 

「出ていくことと帰ること」

 

本書には、著者が聞き取り調査を実施した人たちの声が収録されている。無名の、市井の人ひとりにも、語ればその人だけの体験がある。人が生きていくことの悲喜劇、容易ならなさ。聞き取りの後はどっと疲れが出る、と著者は述べている。他人の人生を追体験することの疲労だろうか。

 

タイトルの通り断片的な本なので感想を書くのが難しい。市井の人への聞き取り、短篇小説めいた挿話、著者の周囲の人や物事について、笑いについての哲学的な考察と内容は多岐にわたる。多岐にわたってなお自分の興味を引く部分が多く、二日ほどで読了した。自分はがとくに面白く読んだのは、「笑いと自由」「他人の手」の章。

ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取ってかろうじて生きている。

 

「笑いと自由」

避難所としての笑い。 悲惨な境遇に陥ってなお、失望するのでも落胆するのでも憤激するのでもなく、笑う。あまりのどうしようもなさに漏れる笑い。

少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何がが残されていて、そこにある。それが自由というものだ。

 

「笑いと自由」

 「他人の手」の章では、他人との身体接触は不快だとした上で、しかし偶然から著者が人助けのために他人の体を抱きかかえた体験が、予期せぬ肯定感、充足感をもたらしたことの不思議が考察される。

昭和の子どもだったので、小学校のときに習字やらそろばんを習わされていたのだが、習字の先生が後ろから手をもって一緒に書いてくれるのが好きだった。いつも頭皮に鳥肌が立つほど気持ちよかった。もちろん性的なこととはまったく関係がない。ただ、他人からやさしく触ってもらえるということの、根源的な気持ち良さを感じていたのだ。

くり返すが、他人との接触は基本的に苦痛だ。しかしたまにそれが、とても心地よいものになることもあり、そのことをほんとうに不思議に思う。

 

「他人の手」

 自分にも覚えがある。病院である検査を受けたとき、ベッドに寝かされ、不安と苦痛が耐え難かったとき、傍らで中年のナースが手を握ってくれて、そのことに言い表せないほどの安心感を得た。あの安心感は、性的なものではなくて、幼児が母親を頼る感覚に近かったように思う。もう何年も前になり、そのナースの風貌はとっくに忘れてしまったが、不安と苦痛を和らげてくれたあの手のことを、本書を読んでいてふと思い出した。

 

何も特別な価値のない自分というものと、ずっと付き合って生きていかなければならないのである。

 

「自分を差し出す」

むしろ、私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。

 

「自分を差し出す」

 にも関わらず生きている。生きていく。自分もそうだし、他人もそうだろう。人それぞれに、小さな悲惨、小さな不幸があって、それらとどうにか折り合いをつけながら、今日も、そしておそらくは明日も生きていく。